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飽くなき悪食〜骨まで愛して〜①。※少し閲覧注意※

禽獣は喰らい、人は食す。教養ある人にして初めて食し方を知る。

人は生きている限り食べなきゃいけない。長年飲食業に携わってきたが今、調理士と言う職業が、飲食店と言うものが危機的な状況に立たされているが、危機的状況はさて置き、食べると言う事について今回、少し真面目に書いてみた。

小学生の頃、誰かがお祭りで釣り、その辺に放したヒヨコを拾って育てていた。雄と雌の二羽居て、二羽とも仲良くそしてよく懐いていた。鶏は抱き抱えると目をつむりゴロゴロと猫のように喉を鳴らした。毎日では無かったが卵も産んだ、玉子は市販のものより小さかったし、所々ウンチがついていたが、美味しかった。スーパーで買うものとは違い生温かった。生きていた。
僕が中学生になったある夏の暑い日に小屋の中で逃げ場無く暑さにやられて二羽とも死んでしまった。二羽とも体が熱湯のように熱かった。可哀想な事をしたと自分の頭の悪さを憎んだ。

高校を卒業してすぐ、僕は北海道の牧場で住み込み、酪農研修生として働かしてもらっていた。
学生時代、ひょんな事から乳牛に触らしてもらい、初めて触れた大きな動物に感動してもっと触れ合い、もっと知りたい、もっと近くでこの生き物を感じたいと思ったからだが、産まれたての雄の仔牛にミルクを与えながら「来週にはドッグフードになる」と言う親方の言葉に生き物を使って金儲けをすると言う事が、自分の中で整理出来ずに続ける事が出来なかった。因みに雄の仔牛の買取価格は一頭1万円しないそうだ(20年前)

美味しい料理を作りたくて僕は料理の道を選んだ。和食の修行時代は生簀を泳ぐ魚を見るのが好きだった。魚にも個性があって観ていて飽きないのだ。勿論仕事なので1日に何匹も魚を殺していた。冬場のフグシーズンなんかはフグの鳴き声(フグは河豚と書くだけあって、ブーブー鳴く)と返り血と臓物で捌き台は地獄絵図と化す。威嚇でまん丸に膨らんだフグに包丁を刺すと刺し口から空気と共にブクブクと血があふれる。なるほど、包丁供養に行く人の気持ちがよくわかる。
僕は、機会が有れば屠殺する所から生き物を捌いてみたいと思っている。僕のバケッツリストの一つだ。
中学生の頃なぜニワトリ達を食べてあげなかったのだろうと後悔している。最後までちゃんと愛してあげれば良かったと。
可愛くて、賢くて仲良くなれる生き物達だから食べないと言うのは大きな間違いだ。可愛くて賢くて仲良くもなれる生き物達だからこそ感謝して美味しく頂くのだ。

物を食べると言う事が綺麗事では無く、他の命を奪う行為なのだと言う事、リスペクトを忘れては行けないという事。「いただきます」とはどう言うことかは良く理解しているつもりだ。食べると言う事はとても残酷で血に塗れた最も原始的で神聖な行為なんだと思う。より美味しく調理しよう、より喜んで食事をしよう、調理するという事は先人達の偉大な知恵と努力の結晶なのだ。

食べる事も調理する事も好きな僕は勿論、食材に対しても好奇心は旺盛で、家庭菜園や山菜採り、ジビエ料理や異国の食文化に触れる事も大好きだ。
と、言えば聞こえは良いが、要はゲテモノだろうがなんだろうが食べられる物は何でも食べてみたいのだ。この世に未だ食べた事のない美味しいものがあると思うと嬉しくなる。
ツクシやドングリから始まり、野草やキノコ、虫や爬虫類、ラクダやカンガルー、美味しいと言われるものは何でも食べて来た。
良く人に悪趣味だと言われる。

人類は発展と進歩を積み重ねる中でいつからか食物連鎖の輪から抜け出し、より安全により効率良く他の生き物を捕食するようになった。
食に携わる者として生き物を捕獲、飼育、繁殖させる所から関わりたい、捕食すると言う事から眼を背けずに向き合っていたい。

専門家曰く、このまま人口が増加していけば2050年には食糧の需要に対する供給が追いつかなくなると言う。
貴重なタンパク源として虫を食べること、身近な季節の野菜として野草を摘むこと。他の生き物を正しく安全に解体する方法、可食部位、不可食部位の知識を持ち理解すること。自分の食べられる物を増やしておく事。そして何よりも自分が生きる為に頂いた命を美味しく調理し食べる事に歓びを持って感謝すると言うことは果たして悪趣味なのだろうか?

今、僕たちはどれくらいの量の食べ物を消費せずに捨ててしまっているのだろう?
スーパーで綺麗に陳列されているその食べ物達はどこから来るんだろう?
是非皆さんが自身で調べてみて欲しい。
みんな大切な事を忘れている気がする。

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