記事:音声入力試行作

 まあ俺は現代の言文一致運動というのが必要だと思っていて、というのはねつまりこういうこと。今俺はこの小説めいたもの小説というよりもむしろまあある種モノロジーではあるかもしれないけれども、まあ詩のような形で先ほども書いたけどまあやはり言文一致運動の方でねやりたいと思ってそういうところで書いてるから、これ書いてるんじゃなくて実は音声入力でやってる。そこで俺と私のこの分離を語りたい。夏目漱石という人間ってね、夏目漱石っていうのは例えば『吾輩は猫である』の中で、そうだな、デカルトのコギトについて敏感に反応したんだけれども、これがそういうことに反応しちゃってることは重要な意味を持つと思ってて単なる余談めいた問題でなくて重要な意味をもって、それというのはつまり『三四郎』や『こころ』に明らかにある、田舎の静かなところの「俺」というものと、都会の、動的な都会におけるあるいは東京における「私」というものがね分離しているようなね、そういう所をね描いている。それが多分代表例は『こころ』だろうね。
 私と先生とかそういうものが出てくる。まず重要なことだと思ってて、人間の自由になるとはどういうことかっていうことを考えられると思うしはたまた彼がここで何を言ってたんだか、結構重要なことだと思うんだけどまあK先生は『こころ』嫌いだっていうね、好きじゃないんだよねって。でもそういう問題じゃないと思ってて俺は非常に重要な作品だと思う、近代的自我というものを文学あるいは小説というものの枠組みで考えるにあたって非常に重要なことだと思っててそれの一つの時代精神の発現がまさにあの『こころ』という作品に集約されていると思ってる。
おそらく漱石はそれを自覚的にやっていた。これはね非常に面白いテーマだと思うしちょっと考えてみたいところ。だから『夢十夜』なんかねえシュルレアリスムの影響を受けたかのようなものよりもよほど意義あることだと思ってて、これはだから俺は考えたいね。
 まあところでまあ俺というのはうーんどうしようもなくこう喋っているとこういう風な話し方になってしまってつまり「俺」として話すわけだけれども、そこにおいてもはや「私」という反省意識はない。これを俺は「神が語らせてくださる」とか言うんだけど「詩人狂人説」とか言う詩人が狂人であるというパイドロスの議論がプラトン、あるいは、何か神託めいたものデルフォイのアポロン神のピュティアの神託あれというのもおそらくはそういう自己反省のないものだったんだろう、ただそのデルフォイの神殿に「汝自身を知れ」ということが、非常に、これ、興味深いことでね、興味深いっていうよりむしろ事例として面白いなあと思って、一つこれ比喩的な表現としてこれ使えそうだなと言うことで考えてるからやっぱりこういうふうな自己反省のないところでも極めて素敵な能力が発現するわけでね、おそらく預言者というのはそういう類の人間だったんだろ。トランス状態だねある種のね、だからこういうことを考えてその俺が俺として語る預言者として語る詩人として語るええあるいはまあイエスキリストとして語る、そういったところで非常に面白い。で俺はキリストだっていうのもあながち間違いじゃなくて神が語らせてくださるということでね、ええそういうことで考えていくとやっぱり俺は俺しかありえないんだろうと思ってて俺が今何を言ってるのか自分でもさっぱりわからんけどもまあでも何か意味のあることを言ってるんだろうなと思ってる。

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