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国体がなくなる?

国体の本当の意味

 今、鹿児島県で国体が開催されている。
 国体とは、国民体育大会の略称で、毎年都道府県持ち回りで開催される国内最大のスポーツの祭典だ。
 今回の開催は第75回目にあたり、本来であれば令和2年(2020年)に催される予定であったがコロナ禍のために中止となり、その後開催予定であった他県等との調整のうえ今年になった。
 今回の大会が特別国民体育大会と銘打っているのもそのためらしい。

 ただ「国体」と呼ばれるのは今回までらしく、次回佐賀県で開催される大会からは「国民スポーツ大会」と呼ばれるらしい。
略称も「国スポ」とか・・・
  
 ここでまた私のあまのじゃく(「天邪鬼」と書くらしい)的疑問が沸きあがる。
   なんで体育がダメなんだ?
   国体の方が愛称として根付いて
   いるじゃないか
   わざさわざ変える必要があるのか
   「国スポ」なんてスッポンの親玉か?

 そこで調べてみた。
 これは、スポーツ基本法という法律を改正して決まったことらしいが、その改正の趣旨曰く
   ・体育には上意下達のイメージがある
   ・スポーツの語源は
     「気晴らしする、休養する」
    から来ており、海外からすれば体育
    はスタンダードではない
と言うことだ。
 おまけに次回からは、参加者に同一行動を強いることになる開会式も行わない考えもあるとか・・・

 冗談じゃない。
 スポーツの語源がなんであれ、現実のスポーツは、一流になろうと思えばそれこそ生き馬の眼を抜くような熾烈な生存競争でしかない。
 オリンピックなどの世界レベルの大会になれば、もはや人間に要求される体力の限界がきていると思われ、勝つためには薬物に依存する事態にまでなっているのだ。
 国体に出場する選手ともなれば、そのオリンピックに手が届くレベルの選手がしのぎを削る場でもあるのだ。
 何が気晴らしだ、休養だ!
 確かにスポーツは、人間が本来有する闘争本能を、平和的に良い方向に発揮するもので、他者との争いを軽減する効果もあるらしいが、現実の「スポーツ」は「気晴らしする、休養する」という気持ちでできるほど生やさしいものではない。
 実際に競技に参加する選手がこの名称変更の理由を聞けば、唖然とするだろう。
 おまけにこれまで国体のことを英語では
   National Sports Festival
と言っていたものを、来年からは
   Japan Games
と言うそうだ。
 英語にすれば、スポーツからさらに格が落ちてゲームとなり、スポーツに変えた意味がよく分からないが、これも選手が聞けば
   俺たちのやっていることはゲームか
と嘆き悲しむことだろう。
  
 そのような現実を見据えずに「上意下達のイメージ」とか「海外からすればスタンダードではない・・・」など、この国は相も変わらず空気に支配されている。
 おそらく体育がスポーツに挿げ替えられるのには、国体という表現が戦前の「国體~国家の状態、国柄を表すもの」のイメージがあることや、世界的に取り組むことが要求されているSDGsも背景にあると思われる。

 ここで申し述べておくが、SDGsが掲げる持続可能な開発目標の
   あらゆる貧困や不平等からの解放云々
という取り組み目標には、それはそれは立派な言葉が並べられ、耳に響きのよいものばかりであるが、全ての人の平等と財産の共有を図る共産主義に酷似するものである。
 貧困、飢饉を世界からなくし、人種差別撤廃や教育の機会均等、ジェンダーの平等、資源、経済的豊かさが等しく人類に・・・
 これらが世界に平等に付与される世界を目指す。
 馬鹿も休み、休みに言って欲しい。
 世界の現実は、各国はこれらを巡って、虚々実々の権謀術数を繰り広げ、時には戦争も厭わない腹黒い世界なのだ。
 国連とは何ともお気楽で能天気な組織だ。
 こんなことに馬鹿真面目に取り組もうとしている日本政府も何とも能天気なものである。

 「国体」も「SDGs」も空気で捉えるからこんなことになるのだ。
 本質を捉えずにその場の雰囲気で物事を決めるからだ。

 百歩譲って名称変更を許したとしても、スポーツの本質は勝負事だ。
 どんなに綺麗事を言っても、最後は「勝利」という結果でしか評価されない。

 そしてそれは歴史も同じである。
 世界の歴史は、それぞれの時代の戦争の勝者によって形作られてきた。
 それは日本も同じである。
 日本は不幸にも先の大戦で敗れ、その後日本を一時的に支配したGHQによって自虐史観を植え付けられ、日本の近・代現代史はあたかも負の遺産であったかのように塗り替えられた。
 勝者が敗者の歴史まで作り変えてしまったのである。

 しかし幸いにも国體(国体)、つまり
   万世一系の天皇を中心とする国のありかた
は維持することができた。
 これを維持できたことは、日本にとって救いであった。
 戦後昭和天皇が、「人間宣言」を発せられてその神聖を否定し、全国津々浦々を御巡幸された折、GHQは天皇がいずれかの地で先の大戦の戦争責任を糾弾する暴徒等から暗殺されるのではないかと危惧したらしい。
 しかし、全国で天皇の御巡幸を待ち受けていたのは、どこへいっても盛大な歓迎の嵐であった。
 これが国体である。
 日本人のDNAには、2600年あまり続く万世一系の天皇が刷り込まれているのである。
 時代がどんなに変わろうと、政権がどんなに変わろうと脈々とつながれてきた血筋は、心のよりどころなのである。
 まさに天皇を中心とし、国民は全てその大御宝(おおみたから)とする国柄、つまり国体は脈々とつながれてきたのである。

 この国体が維持できたからこそ、国民は再び立ち上がり、それぞの立場で戦後の復興に尽力し、奇跡的な復興を遂げることができたのである。
 日本の国体があったからこその今の日本なのである。

 国民体育大会の「国体」がなくなり「国スポ」の時代になっても、本当の国体、つまり国體だけは絶対に維持しなければならない。
 日本が日本であるために・・・
 
 

 
 
 
   


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