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小説〜バナナ

たかがバナナ、されどバナナ

        1

 ルルルッー、ルルルッー、ルルルッー
 日曜日の朝というのに、午前5時から僕のスマホが鳴り始めた。
 ベッドのなかで眠い目をこすりながら画面を見たら
   母
という文字だった。
 無視しようかとも思ったが、こんな時間に電話がかかってくることなどなかったので、とりあえず出た。
「高志、起きてた?」
   (起きているわけないだろう)
と思いつつ、不機嫌な声で
「何?」
とだけ答えた。
「今施設から電話があって、おばあちゃんが亡くなったそうよ」
と言った。
 まだ寝ぼけた頭で、母が言った言葉がすぐに理解できず
「それで?」
とだけ答えた僕に、母は怒った声で
「それではないでしょう!
 あなた小さい時からおばあちゃん子だったじゃない、せっかく知らせてやったのに・・おばあちゃんに失礼じゃない、葬儀出るわよね!」
と言われた。
「明日模試だけど・・・」
と、ぼそぼそと返事をすると
「そんなのあとから何とでもできるわ、とにかく帰ってらっしゃい、駅についたらパパを迎えに行かせるから
    何時の新幹線に乗るかあとで電話しなさい
 それとおばあちゃんの死因だけど、老衰じゃなくて急に食べ物を食べなくなったみたいなの、まあ詳しいことは帰ってきてから話すわ、いいわね!」
 そう要件だけ告げられるとさっさと切られてしまった。
 僕にとって大事なことが「そんなの」とかたずけられたことがショックだった。
 それに先生でもない母が、模試を「あとからなんとでもできる」と言えるのか、よく分からなかった。 

        2

 僕の名前は
   有田 高志
 この物語の主人公、というか本当の主人公は曽祖父、つまりひいおじいちゃんだけど。
 父有田恭介と母浩子から生まれた長男で、東京の某有名私立中に通う2年生だ。
 神奈川県に住む両親とは離れ、学校内に建っている寮に住んでいる。
 小学校6年生の妹「美香」は両親と同居して地元の小学校に通っている。
 教育熱心な母親は、妹も僕と同じ学校に入れようとしている。
 ただ優秀な僕と違って、妹は入学できるか微妙らしい。

 いずれにせよ、それほど教育熱心な母が僕の模試さえキャンセルして葬式に帰って来いと言う。
 母が電話で言った祖母の死因が老衰じゃなかったというのも変だ。
 食べなくなったから老衰じゃないのだろうか。
 人の死というものに鈍感だった僕は、その程度にしか思わなかった。
 亡くなったのは母方の祖母だから、母が葬儀に出席させたいという気持ちも分かる。
 祖母は母の旧姓である朝山という姓で、小さいときから僕を可愛がってくれた。
 だから僕はその祖母のことは「朝山のおばあちゃん」と呼んで、小さい頃は夏休みなどになるとおばあちゃんが住んでいる福島県の会津に遊びに行くのが楽しみだった。
 おばあちゃんは自分のお父さん、つまり僕から見た曽祖父を若い時に戦争で亡くしている。
 だからおばあちゃんは、戦争が終わってからは僕から見たら曾祖母になる人から一人で育てられたらしい。
 その曽祖母も既に亡くなっている。
     曽祖父はオーストラリアの近くにある小さな島で戦死したそうだが、詳しいことは知らない。
     昔おばあちゃんが、自分のお父さんのことを「ギョクサイした」と言ったことがあるが、詳しい話をしてくれなかったので、それがどういう意味か知らない。
 戦後おばあちゃんは、おじいちゃんと結婚して僕のお母さんとその妹を生んだが、そのおじいちゃんも10年くらい前に亡くなっている。
    おばあちゃんは 数年間から認知症になったので、それまで一人暮らしだった自宅を離れ、近くの施設に入った。
    その頃から僕も勉強が忙しくなって、すっかりおばあちゃんとも遠ざかっていた。
    だから母から電話があった時、正直言って葬儀には出るまではないかなと思っていた。
 もう僕にとって、おばあちゃん子だった頃は過去のことであり、今大切なのは明日の模試だったからだ。
 けど口うるさい母から何を言われるか分からなかったので、8時くらいになるのを待って担任の堀口翔子先生に電話した。
 この先生はまだ20代の若い先生で、僕好みのかわいい先生だった。
 初めて電話することに緊張した。
 しかし日曜日にもかかわらず先生はすぐに電話に出てくれた。
 そして、祖母が亡くなったことを聞いた先生は
「そう、忌引きだったら仕方ないわね、明日の模試はまた受ければいいから行ってらっしゃい
 忌引きは祖母の場合だと5日間ね
 たまにはご両親に甘えてらっしゃい
 そしてその機会を作ってくれたおばあちゃんにも感謝して、しっかり手を合わせて来てね」
と言われた。
 両親に甘えて来いなどと子供扱いされたのは僕の恋心を踏みにじるものであったが、人が死んだことを家族と会わせてくれる機会と捉えるところがなんとも大人だなあと思った。
 それと母が言ったとおり、明日の模試は「なんとかなるもの」だった。

 というわけで、僕は母から電話をもらったその日午前中に新幹線を使って自宅近くの駅まで向かい、時間通りに駅に迎えに来ていた父の車に乗って自宅に帰り着いた。

        3

 自宅には福島に向けて出発の準備をしていた母と妹がいた。
 僕が帰って来たことに気づいた母は
「お帰り、ゆっくりしたいだろうけど福島は遠いから高志も今からすぐに出発の準備をしてね
 向こうには明々後日までいる予定よ
 あなたと美香は学校の制服でいいから
 制服は持って帰ってきた?」
と言われた。
 制服のことについては、口うるさく母から言われていたので忘れていなかったが、まさか学校以外で制服を着るとは思ってもいなかった。
 この時初めて、大人は葬式の時は黒い服を着るけど子供は制服でもいいことを知った。
 妹の美香にいたっては、葬式に行くというより福島に遊びに行けるというような乗りだった。
(やっぱりこいつアホだ、ちょっと俺の学校無理・・・)
 内心そう思いながらも、母に言われたとおり、すぐに自分の身の回りのものを持っていく準備を始めた。

 福島へは、やはり新幹線で向かった。
 僕は母と座り、その後ろに父と妹が座った。
 出発してしばらくは黙って外の景色を見ていた母が
「でも変よね~、あれだけ好きだったバナナを急に食べなくなったなんて・・・」
と、急に一人事のようにつぶやいた。
「おばあちゃんバナナ好きだったの?」
「そうよ、施設に入ってからはデザートに出るバナナをいつも楽しみにしていたそうよ」
 その時は、それだけの会話で終わってしまった。

        4

 夕方新幹線が会津若松駅に着くと、母方の親戚のおじさんが車で迎えに来ていたので、取りあえず僕たちは祖母が運ばれていた葬儀場に向かった。
 母は、葬儀場に着いて棺桶に入れられた祖母を目にすると、すぐに駆け寄って抱きついて、人目をはばからずに大声で泣いた。
「お母さんごめんね、一人で逝かせてごめんね、ごめんね・・・」
 最後は言葉にならず声を詰まらせて、棺桶の下に泣き崩れた。
 初めて母が号泣するところを見た。
 普段口やかましい母の姿はそこにはなかった。
 当たり前のことだが、僕たちにとって祖母は「祖母」でしかなかったが、母にとっては「母」だった。
 そんな母をそっと後ろから抱き寄せて立ち上げてくれたのは父だった。
 僕と妹はその光景を、少し後ろからただ茫然と見ているだけだった。
 それは棺桶に近づくのが怖かったからだ。
 死体というものを目にしたことがなかったからだ。
 その時父から
「お前たちもおばあちゃんの顔を見てあげなさい。」
と言われ、恐々と前に出て棺桶を覗き込んだ。
 口には何か脱脂綿のようなものを入れられて、顔にはうっすらと化粧さえしていた。
    ただ、そこには僕のイメージしていたもう少し若い頃の祖母の姿はなく、痩せて眼のまわりも落ち窪み、別人のようだった。
 いや正確に言えばもう亡くなっているのだから、別人はおかしいか。
    人は死んだらこんなにもゲッソリなるのだなあと思った。

    葬儀場には、祖母が入っていた施設の女の人も来ており、少し落ち着きを取り戻した母に近づいて来た。
「御長女の有田浩子さんでいらっしゃいますか?」
「はい、そうです」
「私は施設で看護士をしております徳永と申します」
と言って、首から下げたネームプレートを母に見せていた。
「このたびは本当にご愁傷様です
 実はお母さまが亡くなられた前日から私が当直勤務でした
 当直明けの翌日午前4時頃、仮眠を取っていたところ、巡回の介護職員から起こされて『徳永さんすぐ来てください、205号室の朝山さんがちょっと息ぐるしそうにしています』と言われました
 すぐに朝山さんの部屋に駆けつけて状態を確認しましたが、あぶないと判断し、常駐の医師にも連絡を取って来てもらいました
 医師はすぐに心音を確認しましたが、首を横に振り『もうだめかも知れない、すぐに身内の方に連絡するように』と言われました
 そこで、とりあえず一番近くに住んでいらっしゃる妹さんの柳川明子様に来ていただきました
 幸い柳川様はお母さまがまだご存命のうちに施設に駆けつけて来られ、ご臨終に立ち会うことができました
 柳川様に電話したあと、すぐに有田様にも電話をさしあげたのですが・・
 最後の時に間に合わなかったことについてはお詫び申し上げます」
「いいえ、お詫びだなんて
 私は神奈川という遠方に住んでいる訳ですから、母にもしものことがあった時に間に合わないかもしれないということは覚悟していました
 ただ先日電話をいただいた時に、『最近バナナを食べなくなった』と教えてもらったことがどうも気になっていて・・・
 もう年も年ですし、認知症もあったので、食欲が落ちていって老衰に向かうのは仕方がないとは思うのですが」
 この時僕は、看護師の徳永さんの顔が一瞬曇ったことに気づいた。
「はい、その点については私も身内の方が来られてからお話ししたいと思っておりました
 ほんとうにお母さまはバナナが好きでしたから・・・
 ただ死因そのものについては、医師の判断は「老衰」つまり衰弱死ということになっており、死因そのものに事件性はないと考えております」
「いえ、私は何も事件性とか、施設側に不備があったとかそういうことを言おうとしているのではなく、老衰とは言え好物だったバナナをなぜ最後になって食べなくなったのか不思議に思っただけです」
 母のその言葉を聞くと、徳永さんの表情は幾分和らいだかに見えた。
「確かに私どもも、その点がよく分からなかったのです
 ただ、お母様が亡くなられる10日ほど前でしょうか、お母様に愛知県にお住まいの中川三郎という差出人名の方から手紙が届きました
 その手紙をお母様に手渡したのは、当日勤務だった有川久代という介護スタッフなのですが、有川の話によれば、お母様は封筒を開けてもらい、手渡された手紙を読み始めると手が震え始め、読み終えると涙をポタポタ落としたそうです
 そしてその日の夕食は一口も食べなかったそうです
 ただお母様は手紙のことについてはその後何も言いませんでしたが、その日を境に急に元気がなくなりました
 もともとお母様は食も細くなってきていらっしゃったので、翌日からスタッフは必死になって、なんとか食事だけはさせていたのですが、よく残すようになりました
 そして、なぜか好きだったデザートのバナナだけは見向きもしなくなりました
 食事の介助スタッフもお母様がバナナ好きなのは知っておりましたので皆不思議に感じていたそうです
    一度スタッフが『朝山さん、バナナ食べないの?』と聞いたら『もう食べられなくなったのよ、戦地で食べられなかったお父さんのことを思うととても・・・』と言ったそうです
    その手紙のことがあったものですから、私どもとしてもよほどお母様がお気を落とされるようなことでも書かれていたのではないかと職員の間でいろいろ話もしておりました
    ただその後本人が手紙のことについて一切話すこともなかったし、職員と言えど、他人の手紙を勝手に読むわけにもいかず・・・
    とりあえずお母様が生前過ごしていらっしゃった部屋はまだそのままにしております 
    これからいろいろお忙しいかとは思いますが、できましたら少しお時間を作っていただいてお手紙を探していただき、その手紙の内容を確認していただけないでしょうか
    そのほうが稲川様はじめご遺族の皆様もすっきりされるのではないかと思い、はなはだ失礼かとは思いましたが、こうして斎場まで足を運ばさせていただいた次第です」
「わかりました
 もう葬儀かれこれの段取りは地元の妹夫婦がやってくれたみたいです
 今夜は仮通夜で、おそらく親族だけしか集まらないと思うので、今から私たちが徳永さんと一緒に行きましょうか?
 あなた、それでいいでしょう?」
とお父さんに同意を求めた。
 父は
「お前の母親だ、長女が行って確認するのが一番いいだろう
 明子さんたちには、僕からもお願いしておくよ」
と言った。
 我が家は、どちらかと言うと母のほうが上だ。

        5

 という訳で、僕たち一家は一旦葬儀場を離れることにした。
 葬儀場で会った見覚えのある親戚の人たちは、僕と妹を見て
   まあ、高志君、美香ちゃん
   ちょっと見ない間に大きくなったね~
と、口々に言った。
 そのたびに両親は頭を下げて、今学校はどこだとか、何年生だとか説明していた。
 僕は、両親と一緒に頭を下げさせられるのがうざくなったので、葬儀場を離れることで少しホッとした。
「ねえお母さん、人が死んで集まっているのに、みんな久しぶりに顔を会わせて嬉しそうにしているよ
 それっていいのかなあ
 なんか死んだおばあちゃんに悪い気がするけど・・・」
と素直な気持ちを言ったところ、母は
「そんなものよ
 今は誰か死なないと身内もなかなか集まらない時代だし
 それも死んだおばあちゃんの役目かもしれないわね」
と堀口先生と似たようなことを言った。

 施設までは徳永さんたちと施設の車で向かった。
 「良光苑」という名前の施設までは、車で20分ほどだった。

 僕たちは施設に入ると、徳永さんの案内でおばあちゃんが寝起きしていた2階の205号室に入った。
 その部屋は個室で、ベッドと小さなタンス以外は医療器具のようなものが少し置いてあるだけのシンプルな部屋だった。
 ただ僕が入っている寮は2人部屋で、二段ベッドだったから個室はいいなあと羨ましくも思った。
 母は、今朝まで生きていたおばあちゃんのことを思い出したのか、ベッドに手をつくとうずくまって、また泣き出してしまった。
 しばらく経ってまた父が母を抱き起こし
「しつかりするんだ
    お前が泣いていたのでは、徳永さんのせっかくのご厚意を無駄にするじゃないか、さあ・・・」
と言った。
「わかったわ、でも探すといってもタンスくらいだから、引き出しを開けて確認してみるわ」
 そう言って母は涙を拭いて立ち上がり、タンスに近づいて上から順番に中を確認し始めた。
 僕たちは、その様子を後ろから見ていた。
 タンスと言っても施設の中で過ごすだけの最低限の着替えや肌着を入れて置く小さなものなので、すぐに探し終わったが手紙は見つからなかった。
    母は後ろに立ってその様子を見ていた徳永さんのほうを振り返り
「ひょっとしたら、母が身に付けているのでは?」
と言った。
    しかし徳永さんは
「いいえ、それはないと思います
    お亡くなりになられたあと、すぐにお母様の体をきれいにさせていただいて着替えさせておりますので、手紙が出てくればスタッフが気づかないはずはありません
    でも不思議ですね・・・」
 僕はそのやり取りを近くで聞いていたが、ふとベッドに目をやった。
 すると、枕元の下あたりが少し膨らんでいることに気づいた。
「ねぇ、お母さん、ベッドの下とかは?」
と言ったところ、母と徳永さんが僕のほうを振り返った。
 そして今度はベッドに近づいて、二人でベッドのマットレスの上に敷いてあった薄い布団をめくったら、ちょうど枕の下あたりから、割と厚めの白い封筒が出てきた。
 思わず僕は、小さくガッツポーズをした。
 母は
「高志、よく気づいたわね」
と言いながらその封筒を見て、その差出人が 徳永さんが説明した
   中川 三郎
であることを確認していた。
 徳永さんも
「それだと思います
 私も実物は初めて見るのですが、封書を手渡した有川から『ちょっと分厚い封筒だった』と聞いておりましたし、差出人も中川となっているので間違いないと思います」
と言った。
 さっそく母は、その手紙を取り出して読みだしたが、見た感じとても長い手紙のようだった。
 母が読み終わるのに10分くらいかかったのではないだろうか。
 結構長い時間がかかったように感じたが、最後のほうでは取り出したハンカチで目頭を押さえていた。
 そして読み終えると
「お母さん、そういうことだったのね
 だからバナナを食べられなくなったのね・・・」
と言って、また泣きだした。

 父は母から手紙をむしり取るようにして、今度は自分が読み始めた。
 そしてまた長い時間が流れた。
 父も読み終えると
「そういうことだったのか
 昔の人はすごいな・・・」
と独り言のようにつぶやいた。

 次に手紙を読んだのは徳永さんだった。
 すると徳永さんも、手紙を読みながら涙を流し始めて、読み終えると
「そういうことだったのですね
 朝山様のお父様という方は素晴らしい方だったのですね
 確かにこんな手紙をもらえば、お母さまはバナナが食べられなくなったはずですね」
と言い、目頭をハンカチで押さえながら手紙を父に返していた。

 バナナが食べられなくなった?
 おばあちゃんのお父様?
 ということは、僕から見たらひいおじいちゃん?
 あの戦争で亡くなった
 おばあちゃんが「ギョクサイした」とか言っていた
 それがおばあちゃんとどんな関係があればバナナが食べられなくなるの?

 手紙を読んでいない僕にとって、読んだ人の反応からしか判断するしかないので、それくらいのことしか考えられなかった。
 でも父が
「この手紙に書いてあることは、これからの時代を生きていく高志もしっかり知っておくべきことだ、読んでおきなさい」
と言って、その手紙を渡してくれた。

 その手紙は手書きであったが、なかなか達筆で、手紙の厚さは1センチほどもある長いものであった。
 僕もそれを読ませてもらった。
 そしてその内容は、僕たちが全く知らない過去の悲惨な戦争のことや戦後のことがたくさん書かれていた。
 本当にこんなことがあったのだろうか。
 正直、その時代に生まれなくてよかった。
 平和な時代に生まれてよかった。
 そう思わせる内容だったことと、その時代を生きた曾祖父たちに自然と感謝の気持ちが沸いてきた。
 曾祖父たちがいたからこそ、今の自分があるのだ・・・
 自然とそう思えた。
 それは次のようなものだった・・・

        6

 前略
 突然長いお手紙を差し出しますご無礼をお許しください。
 私は先の大戦時に、あなた様のお父様でいらっしゃる
   朝山 寿人 様
と、戦地で一緒だったひとりの
   中川 三郎
と申します。
 あなた様の住所については、遺族会名簿で分かり、あなた様がまだご存命で施設に入居されていらっしゃることを知って、大変ぶしつけかとは思いましたが、お父様の最後のことだけはぜひとも伝えておかねばならないと思って、老体に鞭打って筆をしたためた次第です。
 お父様の最後については、戦死公報でご存知だったと思います。
 そしてそれが「玉砕」だったということも。
 今の若い人に言っても分からないと思いますが、玉砕とは
   最後の突撃で部隊全員が戦死すること
ということは、我々の世代であればご存知かと思います。
 ただお父様の場合、玉砕というのは正確ではありませんでした。
 しかしお父様の最後は、日本人として立派なものでした。
 単に「玉砕」という言葉でひとくくりされるような死に方ではなく、現地の方のことを最後まで大切にした死に方でした。
 残酷なことになるかもしれませんが、最後は
   餓死
でした。

 私が所属していた部隊は愛知県に連帯本部がある
   歩兵第228連隊
という部隊でした。
 あなたのお父様はそこの第二大隊という部隊に所属する小隊長で、階級は少尉という将校でした。
 私は小隊長付きの軍曹だった関係でお父様とは、いつも行動をともにしていました。
 お父様のことは少尉と呼ばせてもらいますが、私たちの部隊が送り込まれたところは、オーストラリアの近くにある
   ガダルカナル島
という小さな島でした。

 戦後、私は自分史を作るために、自分の記憶や戦後発刊された書籍をもとに当時の戦況を振り返りましたが、私たちが送り込まれたガダルカナル島という島は、その頃の日本の戦局を好転させるためにとても重要なところだったようです。
 私たちがガダルカナル島に送り込まれたのは、大東亜戦争が始まって約1年近く経った
   昭和17年10月頃
でした。

 それに先立つこと4月ほど前の昭和17年6月に、日本海軍は、中部太平洋のミッドウェー島というところを巡る戦いで、空母4隻と積載していた多く軍用機やそのベテラン搭乗員を大量に失うという大敗北を喫してしまいました。
 それまでの日本軍は、ハワイの真珠湾攻撃成功を皮切りに、東南アジアやインド洋等での戦いに連戦連勝でした。
 ところがミッドウェー島の戦い以降、日本は守勢に立たされることとなっていくわけですが、それでも上層部はそれまでの連勝続きからまだ勝機は十分あると判断したのでしょう。
 そして連合軍が反攻に転じるであろうことを予想して、アメリカの同盟国であったオーストラリアとの連絡網を絶つ作戦を立案しました。
 そのためには、その途中にあるオーストラリア近くのソロモン諸島のなかのガダルカナル島という島がとても重要な場所になることに気づくわけです。

 ひと口に重要とは言っても、ソロモン諸島は日本から8000キロ以上も離れたとてつもなく遠いところにあり、当時日本軍が南方方面の前線基地としていたトラック諸島というところからも3000キロ近くあり、当時の航空機でさえ、そこから数時間もかかるところにありました。
 どちらかというと敵国のオーストラリアのすぐ近くにあるわけですので、そこに基地を作ったとしてもその維持は大変だったと思います。 
 おまけにソロモン諸島の島々は、ジャングルの生い茂る密林ばかりで、とてもすぐに軍事基地を作れるような場所ではありませんでした。
 ただ唯一ガダルカナル島だけは、飛行場建設が可能なくらいの開けた平地があったのです。
 しかしその島の重要性に気づいたのは、何も日本軍ばかりではありませんでした。
 米軍もその島を狙っておりましたが、先にその島に飛行場を建設したのはわずかに日本側が先でした。

 ところが米軍は、飛行場ができた頃を見計らうかのように、大量の艦船と飛行機でその島に押し寄せて日本側からその飛行場を奪い取ったのです。
 なにせその頃ガダルカナル島に送り込まれた日本人は、軍属と言って飛行場を建設するための土木作業員がほとんどで、僅かばかり付いていた兵隊も小銃や機関銃程度の武装しか持っていなかった小さな部隊だったようです。

 飛行場が奪われたことに軍の上層部は慌てたそうです。
 連合軍の反攻はまだ先のことと予想していたからです。
 直ちに陸軍の上陸部隊が飛行場奪還のために送り込まれました。
 一木支隊という北海道旭川出身の部隊で、もともとはミッドウェー島に上陸して島を占領する予定の部隊だったようです。
 一木支隊は一木清直大佐という方が指揮官で、中国戦線で勇猛果敢な部隊として知れ渡った部隊だったそうです。
 ですから、おそらくその部隊は下士官・兵に至るまで
   ミッドウェーの敵討ちだ
くらいの勇んだ気持ちで乗り込んできたと思います。

 ただ、その頃までアメリカと戦っていたのは主として海軍で、陸軍は中国戦線や東南アジア戦線で中国軍やイギリスやオランダをはじめとしたヨーロッパの軍隊としか戦っていませんでした。
 中国戦線では、夜陰に紛れて銃剣突撃すれば、中国兵はよく逃げ出したりしていました。
 そのことは、私どもの部隊も中国本土で戦った経験から知っておりました。
 ヨーロッパ諸国も、重要視していたのはナチス・ドイツが猛威を振るっていたヨーロッパ戦線であったため、アジア諸国に配備された軍隊はそれぞれの植民地を維持するための最小限の兵力だったたようです。
 このためイギリスやオランダの軍隊も日本軍が突撃すると、あっけなく投降するということが続きました。
 そのようわけですので、陸軍は敵をなめきっており、まだ戦ったこともないアメリカ陸軍についても
   アメリカ兵も弱い
   暇さえあれば女といちゃつく
   腰抜けだらけだ 
   銃剣突撃すればたまらず逃げるだろう
という甘い見通ししか持っていなかったようです。

 しかしこの時ガダルカナル島に上陸した部隊は、アメリカ陸軍のなかで
   海兵隊
と呼ばれた上陸戦専門の精鋭部隊で、その数も1万人あまりという大部隊でした。
 おまけに十分な補給体制と機械化された部隊もついており、日本軍の再上陸に備えて、その予想個所に大砲や機関銃などの重火器を大量に配置していました。
 戦後戦史を勉強して分かったことですが、通常上陸作戦を敢行する場合、最低でも敵の3倍の兵力は必要と言われていたそうです。
 しかし当時の軍首脳部は、まさか敵が短期間にそれだけの大兵力でガダルカナルに侵攻するとは思ってもいなかったようでした。
 
 ところが最初に上陸して攻撃を加えた一木支隊の先遣隊は、わずか900名あまりだったそうです。
 1万人あまりの大部隊に対してです。
 そこに夜陰に乗じてとは言え、銃剣で突撃するわけです。
 いかに米軍を舐めていたか、自信過剰になっていたか分かると思います。
 一木支隊の先遣部隊は、待ち構えていた米軍の機関銃や大砲の餌食となり、ほぼ全員が戦死するという悲惨な結果となりました。

 しかしその報告を受けても、大本営のガダルカナル島奪還の方針は変わらず、その後もいくつかの部隊が逐次投入されました。
 でも時間が経てば経つほど米軍の防御態勢は強化され、持前の機械化力から、飛行場や付随する施設も多数作られ、爆撃機や戦闘機などの飛行機も大量に配備されるようになりました。
 このため日本側が遠路はるばる上陸部隊を派遣しても、そのほとんどを撃退したり、補給物資を満載した輸送船を撃沈したりしたものですから、上陸した残存兵力の日本軍は、武器弾薬はおろか、次第に食料にさえ事欠くようになりました。

 そのような戦況のなか、最後に送り込まれたのが私たちの部隊でした。
 ただそのような状況のもと送り込まれたわけですから、部隊が所有する武器もアメリカ軍のように大量の重火器を持って上陸するわけではありませんので、戦況が好転するはずもありません。
 私の部隊も、上陸当初は一度米軍の陣地近くまで近づいたのですが、機関銃の十字砲火を浴びせられて撤退を余儀なくされました。
 この機関銃の十字砲火は、私自身初めて味わったのですが、まさに雨あられと降り注ぐように銃弾が襲い掛かるもので、これまで体験したことのない恐ろしい戦法でした。
 もはや銃剣突撃などできる時代ではなかったのです。
 戦場は、大量の重火器と、飛行機や戦車などの機械化部隊などをはじめとした支援部隊、そしてそれを支える十分な補給体制が必要になっていたのです。
 しかし経済大国であるアメリカと違い、日本の現地部隊にそのような兵力や補給体制など望むべくもありませんでした。

 我々の部隊も次第に消耗し、最後は食料さえも現地調達するしかなくなりました。
 幸い飲み水については、頻繁にスコールがある熱帯地域だったので確保できたのですが、問題は食料でした。
 現地にはヤシの木やバナナの木などもたくさん自生していましたが、島の現地人は、それらの木をことのほか大切にして、その実を自分たちの食料としていました。
 また現地の人には土地を所有するという概念がない代わりに、このヤシの木やバナナの木にはそれぞれ所有者がおり、勝手に他人の木に手を出してその実を盗めば厳罰に処されるという風習までありました。
 彼らにとって、ヤシの木やバナナの木が財産だったのです。
 このため部隊本部は、現地人とのトラブルを避けるために、それらもっとも栄養価が高く、安易に手に入る果物に手を出すことを禁止していました。
 アメリカ軍だけでなく、現地人も敵に回すことになるからです。
 また当時の日本軍は、軍紀つまり軍隊内での規律が厳しく、他人の物を盗んだり、戦闘員でない民間人に危害を加えれば「卑怯者」というそしりを受けるほどでした。
 そしてそれが一家の恥となり、故国に帰った時にはつまはじきにされることもあったのです。

 そして朝山少尉は、ことのほかこのことを部下に対して厳命しており、いつも
   いいか
   我々はアメリカ軍と戦うために
   この地にやって来たのだ
   しかし、それは現地の人にとっては
   他人が勝手に始めた他人の戦争
   でしかない
   おまけにバナナやヤシの実は現地の人
   にとって財産も同じだ
   それを取るということは窃盗だ
   かりそめにも帝国軍人なら、他人
   のものに手を出すようなことは
   絶対にしてはならない
と、口を酸っぱくして言っておられました。
 最初のうちは皆、少尉の命令を守り、バナナを盗む者はいなかったようです。 
 しかしその後戦況が悪化して食料が底をつき始めると、空腹感に堪えられず、命令に違反してこっそりとバナナの木に登ってバナナを取るものも時々出てきました。
 まさに日本軍は
   腹が減っては戦ができぬ
という状態にまで追い詰められていたのです。

 ただそういう状態でも日本軍の士気は高く、米軍との戦闘になれば相手方にも少なからず損害を与えていたというのも事実です。
 米軍もそのような日本兵に手を焼いており、こちらが腹が減ってバナナの木に登るということを知ると、そこを狙って狙撃するということも多くなって、次第にバナナの木に登る者もいなくなりました。
 というか、次第にバナナの木に登る体力も失われていったというほうが正確だったでしょう。

 島に近づく輸送船はことごとく敵飛行機の標的とされて、沈められるばかりで届けられる武器弾薬や食料もなく、島に残された兵は、トカゲやネズミ、ムカデなど動くものはなんでも取って、皮をはぎ生で食べました。
 大きいものではワニやナマケモノなどを捕まえることができたこともあり、大変な御馳走に見えたことを覚えています。
 自然界の動物は、採った獲物はそのまま口に入れるわけですが、その頃の日本兵もそれと同じ状況でした。
 なぜか「自分も自然界の動物にすぎなかった」という事実に変に感動しながら、トカゲやネズミを口にしたことを覚えております。
 それでもそのような動物で飢えをしのげる者はましなほうで、最後には死んだ戦友の肉を銃剣でそぎ落として口にしたり、疲れて横になっている自分の体にたかる蠅まで口にする者まで出るようになりました。
 しかし人肉を食べようとするに至った者は、もはや精神が侵されており、言動もおかしくなっていきました。
 そして現地では
   座ったまま小便をすれば1週間
   瞬きをしなければ明日
など、おおむね餓死直前の兆候が分かるようになったほどです。
 体重は35キロくらいまで落ち、最後はもはや戦うどころじゃない状態までになっていきました。
 おまけに熱帯地方には
   マラリア
というとても危険でやっかいな病気もありました。
 これは現地の蚊が媒介する感染症で、その蚊に刺されて発症すれば高熱を発して人間の体力を奪います。
 キニーネという特効薬があるのですが、その薬も少なくなり、餓死寸前で動けなくなった者たちは蚊の餌食となり、死期を早めてマラリアで病死する者も多いでした。

 その後この島からの撤退命令が出るまで戦い続けた者は、次第に餓死や病死で命を落としていきました。
 戦後調べたところ、この島に上陸した将兵は、全部で
   3万1000人くらい
だったそうですが、実際の戦死者は5000人くらいで、その3倍くらいの
   約1万5000人くらい
の日本兵が、飢えや病で命を落としたようです。

 我々の部隊に撤退命令が下されたのは、その年の12月の暮れも押し迫った頃でした。
 ところが不幸にも我々の所属する大隊には、その命令が届くのが遅れたため、大隊長は
   もはやこれまで
と判断され、生き残った兵等に夜間の銃剣突撃を命令しました。
 これは、命令とは言え
   生き残った者は最後は戦って死ね
と言っているようなものであることは誰にも分かりました。
 このことを「玉砕」という美しい言葉で言っておりましたが、実態はそのようなものだったのです。
 突撃に参加できない者には、それぞれ手りゅう弾を手渡されました。
 それで自決しろという意味です。
 従来日本の将兵には
   生きて虜囚の辱めを受けず
という戦陣訓があり、捕虜になるよりも自決するか、相手側に一矢報いるために反撃して戦死する者がほとんどでした。
 このため大隊長の判断はその流れに従った最後のもので、なぜか自然と受け入れられました。
 正直、心の中では
   死んで、この飢えや病の苦しみから
   解放されたい
と思った者も多かったと思います。
 私たちの部隊も全員
   もはやこれまで
と覚悟を決め、私も少尉とともに突撃して死ぬ覚悟でおりました。

 命令が下された夜、私たちはそれぞれ小銃に銃剣を取り付けて、ひそかに敵陣近く忍び寄って、先頭の工兵が敵が敷設した鉄縄網を切り始めました。
 しかしその途端、空中に目にも眩しい曳光弾が打ち上げられて、周囲は昼間のような明るさとなりました。
 おそらく敵は、我々がその夜攻撃をしかけてくることを予想していたのではないでしょうか。
 それでも突撃命令は下され、皆口々に叫び声をあげながら敵陣向けて突撃していきました。
 しかしそこに待ち受けていたのは、今までにないような機関銃弾の十字砲火でした。
 我々はみすみす敵の罠にはまって撃たれにいくようなものでした。
 瞬く間に周りは、敵に撃たれて倒れていく戦友の死体の山となりました。

 どれだけ時間が経ったか分かりませんが、私は自分の体が誰かの下敷きになっていることと、体全体がぬるぬるすることに気づき目を覚ましました。
 なんとそのぬるぬるは、戦友の誰かが死んだ時の返り血でした。
 おそらくその戦友が私の前で倒れてその返り血を全身に浴び、私はその体で守られるように下敷きになってそのまま気を失っていたのだと思います。
 そして自分が敵のジープの荷台に載せられていることに気づきました。
 体全体が血まみれだったことから負傷兵と勘違いされ、敵の捕虜になったのだと分かりました。
 私のまわりには、そのような日本兵が乗せられいましたが、その中に少尉もいました。
 少尉はあまり血はついていなかったので、大きな負傷はしていなかったと思いますが、私と同じように最初は気を失ってたので、おそらく負傷兵のひとりとして捕虜になったのだと思います。
 しかししばらくすると少尉はカッと目を見開き、自分が捕虜になったことに気づいたようでした。
 そして私が近くにいることに気づくと、敵兵の目を盗んでこっそりと私に近づいてきて
   お前は出血がひどいので
   仕方ないからこのまま捕虜になれ
   だが俺の傷は大したことない
   このまま逃げ出して友軍と合流し
   近くやってくるであろう大部隊ととも
           に必ずこの島を奪還する 
   そしてもしお前が無事に故国の土を
   踏むことがあれば、俺が元気でいる
            ことを妻や子供に知らせてくれないか
   達者でな
と小さな声で言いました。
 少尉はこの期に及んでも、まだ夢のようなことを言って、日本の勝利を信じているようでした。
 また少尉は、おそらく私が返り血で血だらけだったので重傷を負っていると勘違いしたのだと思います。
 それでなければ小隊長付きの私を一人残して逃げるはずがありません。
 しかしそれが、少尉の言葉を聞いた最後でした。

 しばらくすると少尉は、敵兵の隙を見てジープから飛び降りると、脱兎のごとく駆け出して、ジャングルの森のなかへ消えていきました。
 食べるものもなく、体力も残っていないはずなのに、どこにそんな体力が残っていたのだろうと思うくらいものすごい勢いでした。

 ジープから捕虜が逃げ出したことに気づいた敵兵は、すぐに少尉のほうへ銃を乱射しましたが、弾はあたらなかったようでした。
 彼らも、負傷した捕虜のなかに逃げ出す元気のある者がいるとは思っていなかったらしく油断していたようです。

 その後私は、敵陣の中まで連行され、中の野戦病院で手当てをしてもらって、現地の収容所に入れられました。
 そして2,3日静養させられたあと、今度は近くのジャングル内に潜んでいると思われる残敵掃討作戦に駆り出されて、投降をすすめるため日本語で呼びかける仕事に従事させられましたが、投降してくるような日本兵はいませんでした。
 しかしこの時が一番つらい時でもありました。
 投降してくる日本兵がいない代わりに我々が目にしたのは、あちこちに横たわっている日本兵の無残な死体でした。
 そのほとんどは、やせ衰え、蠅がたかって腐乱し、中には既に一部白骨化が進んできた者もあり、とてもこの世の者とは思えない光景でした。
 地獄とはこのような光景なのではないだろうかと思いました。
 そのような中にあっても、米兵は死体の中に金歯をしている者がいると、笑いながらその金歯だけを抜き取って喜んでいました。
 今では入れ歯に金を使うということはありませんが、アメリカ兵は日本人が虫歯の治療を金でしていることをなぜか知っており、それを狙っているようでした。
 日本は資源の少ない国ですが、金や銀などの鉱物資源だけは昔から豊かだったのでしょう。
 それに目をつけて死体からでさえ金歯を抜き取る米兵は、それこそ
   鬼畜米兵
という言葉そのものに見えました。

 朝山少尉の変わり果てた姿は、そのような地獄のような光景のなかにありました。
 少尉は逃げ出したあと、どこで合流したのか分かりませんが、私も顔を知っている少尉の部下の下士官・兵数名とともに、一本のバナナの木の下で亡くなっておられました。
 皆やせ衰えた姿だったので餓死だと思います。
 そして残酷なことに、そのバナナの木には高いところにバナナがたくさんなっていました。
 誰もその木に登ろうとしたり、バナナを盗もうとしたような形跡はありませんでした。
 もうそのような体力もなかったのだと思います。
 ただ最後は、本能的に食べられるバナナの木の下にたどり着いたのだと思います。
 本当はバナナが食べたくて仕方なかったのだと思います。
 私はその姿を見て、涙があふれ出て止まりませんでした。
 彼らは最後の最後まで、日本の軍人らしく軍律を守って死んでいったのかと思うとなんともやるせない気持ちでいっぱいになりました。
 
 幸いその後私は、終戦までニュージーランドの収容所で過ごし、戦後復員しました。
 ですから、少尉が最後に私に託した
   元気で戦っているということを
   妻子に知らせてほしい
という思いを今さら伝えても仕方がないという思いで暮らしてきました。
 戦争のことは忘れて、早く新しい生き方を探さなければならないと思い、戦後は必死になってこの年まで生きてきました。

 しかし戦後、日本はあまりにも変わりました。
 戦前の価値観は全て悪と決めつけ、新聞やテレビはひたすら先の大戦の悪口ばかり言うようになり、さもその戦争に従事した将兵は悪者で、中国や東南アジアで現地の人を苦しめることばかりしてきたと、戦争に行ったこともない人が、まるでその現場を見たかのような口ぶりで批判するようになりました。
 このため、本来は国のために戦った将兵たちが一番つらい思いをするようになり、あまり戦争のことを話さなくなりました。

 しかし現場の戦場は、そんな批判だけで済まされるようなものではありませんでした。
 我々が行ったガダルカナル島でさえ、多くの将兵は最後の最後まで現地の部隊本部や上官の命を守り、現地の人の食料や財産を奪ったりすることはありませんでした。
 当時我々は、ガダルカナル島のことを
   餓島
と読んだほど、戦闘そのものよりも飢えと病に苦しめられた島でした。
 けれども本当は食べようと思えば食べられるものもあったのです。
 現地の人のバナナなどに手を出せば生きられ、戦い続けることもできたはずです。
 しかし、日本の軍隊は最後の最後まで、現地の人に迷惑をかけたりしたことはありませんでした。
 規律を守った立派な軍隊でした。

 また、戦後南方方面の戦史を調べたら、北上する米軍から攻撃を受けて玉砕した島では、ほとんどが事前に島民を安全な他の島へ避難させたほどでした。
 このような戦争をする国がほかにあったでしょうか。
 ところが戦後これらの話が日本人に知れ渡ることはありませんでした。
 戦後これらのことが全く無視されていることが残念でなりません。
 
 確かに沖縄では多数の民間人が犠牲になりましたが、逆にその沖縄を救おうと多くの若者が特攻攻撃で命を落としたり、地元の中学生までが「鉄血勤皇隊」という組織を作って米軍と戦ったり、ひめゆり部隊など多くの女学生が日本軍の負傷兵のために昼夜の別なく戦場を駆け巡ったりして命をおとしたことなども忘れてはならないと思います。

 歴史に対する検証というものは、多元的な見方をしなければならないはずなのに、こと先の大戦のこととなると何か偏った考えばかりが流布されているように感じて仕方ありません。
 まだ我々のように戦争の体験を語る世代が生きているうちはいいですが、そのような者が死に絶えれば、あの国運を賭けた大戦争に従事した本当の意味はわからなくなってくると思います。
 新聞・テレビが報じる「反戦・平和」という言葉だけが一人歩きするようになって、本当の戦争と平和のありがたさを知らない人だけになってしまいます。

 私は、戦後国が主導して行った
   遺骨収集団
の一員に加えていただき、ガダルカナル島へ足を運んだこともあります。
 そして当時の土地勘を頼りに、朝山少尉が亡くなられたバナナの木の下あたりに行ってみると、なんとそこには現地の人が建ててくれたらしい粗末な墓まであり、花がそむけられていました。
 少尉等がバナナを盗んだのであれば、墓など建てるでしょうか。
 彼らの財産とも言えるバナナには最後まで手を出さなかったからこそ、その死を悼んでくれたのではないでしょうか。
 朝山少尉等は公的な記録では「玉砕」とされていますが、あれは玉砕よりも価値ある「餓死」だったと思います。
 誤解を恐れずに言わせてもらえば、あのような極限状況におかれれば、戦死するほうが餓死の苦しみよりはるかに楽だったかもしれません。
 私も何度敵陣に突っ込んででも死のうと思ったことか。
 でも、最後はもうそんな気力も体力も失われていきました。
 あの飢えの苦しみだけは体験した者にしか絶対に分かりません。
 その苦しみを抱えながらも、現地の人のことを思って絶対にバナナに手を出さなかった少尉のことは、ご家族の方にだけでも伝えねばならないと思って、いや本当は全ての日本人に伝えねばならないと思って、筆をとった次第でした。
 
 願わくば、この手紙があなた様の子供さんやお孫さんなど多くの方に読まれ、朝山少尉の高潔な人格を知っていただくことができれば少尉のよき供養になるかと思います。
 私もそんなに先の長い人生ではありません。
 幸い今は、足腰が弱ってきたことを感じながらも、妻とふたり細々と暮らしながら、たまに訪ねてくる子や孫・ひ孫の成長を唯一の楽しみとする平凡な老人となりました。
 ただ、そのような家族にさえ、朝山少尉のことだけは話したことありませんでした。
 戦争の話も、興味を持って聞いてくれたこともありますが、それは最初のうちだけで
「また、戦争の話~」
と言われるようになれば、もう話す気力もなくなります。
 こうやってだんだん歴史は風化するのだなあと身内のなかでさえ感じるところです。
 でもささやかなことかもしれませんが、私が体験したことをしたためることによって、朝山さまご家族の目に触れ、少しでも日本の未来のために役立てればと思ったところであります。

 拙い長々とした文章におつきあいいただきありがとうございました。
 最後になりましたが、あなた様の残りの人生に幸多きことを願いつつ筆をおきます。 

        7

 涙が自然と、出て頬を伝わった。
 そしてその涙が手紙に落ちて数滴の染みになった。
 慌てて拭こうとしたが、インクが滲んではいけないと思い、そのままにした。
 こんな手紙を読んだら、おばあちゃんバナナが食べられないはずだ。
 でも、この手紙を出した中川さんは悪くない。
 まさかおばあちゃんがバナナ好きだったなんて知らなかっただろうし。

 本当に我々の祖先はこんなに苦しい思いをしたのだろうか。
 日本の軍隊って、こんなに立派だったのだろうか。
 学校で習ったことと全然違うじゃないか。
 どっちが本当なんだろう。
 だけど実際に戦争に行った人からの手紙だから、嘘など書くはずないし。
 それが正直な感想だった。

 これまで学校でも日本の過去の戦争のことについて習ったが
   昔日本は軍国主義で
   太平洋戦争という大きな戦争をして
   中国や東名アジア諸国を占領して
   たくさん迷惑をかけたが、最終的に
   アメリカ軍と戦争になり、原爆を
   投下されて負けた
   そして戦後は民主主義が広がり
   今の日本は平和で豊かな時代になった
という程度しか教えてもらっていない。
 おまけに世界史や日本史は、単に年号を覚えるという感じで、あまり好きな科目でもなかった。

 日本史の先生は、まるで原爆が落とされたことで日本が平和になったかのような口ぶりで話していた。
 そういえば、小学校の修学旅行で広島に行った時、原爆記念館というところに行ったが、そこの広場にあった石碑みたいなものに
   安らかにお眠りください
   過ちは二度と繰り返しませんから
と書いてあり、それを見ながらバスガイドのお姉さんも平和の大切さを話していたっけ。
 その石碑からすれば、日本が過ちを犯したから原爆を落とされたのだろうか?    

 ある意味僕は、この手紙を読めて幸せだった。
 昔の人の苦労を目のあたりにしたようで、本当の日本の歴史の一部に触れた気がしたからだ。
 でも学校では、こんな残酷な内容の手紙のことなど友達に言えないなあ。
 どちらかというと、いやな顔をするだろうなあ。
 だけど、もっと多くの人に知って欲しいという気持ちも芽生えた。
 どうしたらいいのだろう。
 これはもう死んでいくおばあちゃんに身に着けさせて一緒に燃やしたほうがいいのだろうか。
 だけどそうしたらこの手紙に書かれたことは、私たち家族以外は永久に誰も知らないことになる。
 おまけに母は
   この手紙はおばあちゃんに持たせて
   おじいちゃんやひいおじいちゃんの
            そばに行かせてやりましょう
と言いだした。
 でも本当にそれでいいのだろうか? 
 中川さんは、手紙の最後に
   日本の未来のために役立ててほしい
   本当は全ての日本人に伝えたい
というようなことも書いてあった。
 だったら、手紙は燃やさずに取っておいたほうがいいのではないだろうか。
 だけどそれは僕が決められることではないし・・・

 色々な思いを抱えたまま、僕はその施設をあとにした。

 そして、その夜僕たちは母の妹である柳川明子さんの家に泊めてもらうことになったが、その夜僕は夢を見た。
 それは南国の島国の夢だった。
 青い空の下、エメラルドグリーンのような色の海にぽつんと浮かぶ小さな島だった。
 僕はその島の波打ち際で、なぜかひとりで寝ていた。
 そしてそこで目を覚ました。
 周りには誰もいない。
「ここは、どこだろう?」
 立ち上がって緑生い茂る森の中へ入って行く。
 森の中はうっそうと茂っている。
 甲高い鳥の鳴き声が聞こえる。
 腹が減ってきた。
 どうしよう?
 ふと目を前にすると大きな木葉っぱがたくさん生えている木があり、上のほうには黄色いものが見える。
「バナナだ!あれなら食べられる」
そう思ってその木に近づいて行った。
 ところが、その木に近づけば近づくほど木が遠ざかっていく。
「おや?どうしたんだ?何かの錯覚か?どうして木が遠くなる?」
 しかしその木を追いかければ追いかけるほど遠ざかっていく。
「お~い、待ってくれ、バナナ逃げないでくれ」
 泣きながらそう叫んだが、次第にバナナの木は遠ざかって行き、見えなくなってしまった。
「どうしよう、何も食べるものがない、ここからどうやって脱出できるのだろうか・・・」
 
 途方に暮れたところで目が覚めた。
 ビッショリと寝汗をかいていた。
 よほど昼間施設で読んだ手紙のことが頭に残ったのだと思った。
    

        8

 良光苑でおばあちゃんの手紙を発見した翌日は通夜で、その翌日は告別式という本当のお葬式だった。
 告別式に向かう時、母から
「今日がおばあちゃんと顔を合わせられる最後よ
 高志、あの手紙はあなた持っているでしょう?
 あれはお葬式の最後で、棺桶の蓋を閉める時にあなたがおばあちゃんにさしあげなさいね
 そうすれば、きっと天国でひいおじいちゃんもあの手紙を読んで喜ぶと思うわ」
と言われた。
 この時、妹の美香から
「手紙って?」
と言われたが黙っていた。
 今さら妹に話すことでもないと思った。
 もう僕の心のなかでは、簡単に手紙とかたずけられるものではなくなっていた。 

 葬式には通夜などよりたくさんの人が来てくれていた。
 前にはおばあちゃんの遺影が飾られており、その前でお坊さんがお経を読む間に、たくさんの人が棺桶の前で頭を下げて手を合わせ、棺桶の中のおばあちゃんの顔を覗き込んでいた。
 なかには目頭を押さえる人もいた。
 そして棺桶の前から後ろに下がる時に、僕たちのほうに頭を下げて行き、そのたびに両親も頭を下げていた。
 それを見て、僕と妹も両親をまねて自然と頭を下げていたが、正直だんだん面倒くさくなってきた。
 
 それより僕の心は、おばあちゃんの手紙のことで一杯だった。
 母から言われたとおり、このあと棺桶の蓋が閉じられる前におばあちゃんに持たせることになっている。
 だけど僕は
   本当におばあちゃんに持たせて
   いいのだろうか?
と、まだ思っている。
 確かにあの手紙は中川さんがおばあちゃんに出したものだから、おばあちゃんのものなので、母が言うこともよく分かる。
 よく分かるが、燃やしてしまえば誰の目にも触れないことになる。
 でもあの手紙に書かれてあったことは、僕がこれまで全然知らなかったことだし、中川さんも最後に
   できれば多くの日本人に
   知ってほしい
と書いてあった。
 中川さんのように戦争を生き抜いた人はほかにもいるだろうが、全ての人があのような手紙や記録を残しているとは限らない。
 だとしたら、できれば将来のために残して、過去の日本にこんなことがあり、そして僕たちの祖先は必死になって戦い、または生き抜いて、僕たちに未来をつなごうとしたというような思いを多くの人に知ってもらったほうがいいのではないだろうか?
 よくテレビなどで
   平和が大切だ
と言っているが、それだけでいいのだろうか。
 正直言って戦争を知らない僕たちにはあまりピンとこない。
 平和な毎日が当たり前なので、今さら大切だと言われても実感がない。
 けれども、こんな手紙を見れば、本当に平和のありがたさが身に染みるとともに、その頃生きていた僕たちの祖先のありがたさや素晴らしさが分かるのではないだろうか・・・

 そんなことを葬式の場で悶々と考えていた。
 その時、隣に座っていた母から
「高志、時間よ
 さあ前に行って、皆でおばあちゃんに最後のお別れをするわよ」
と言われた。
   えっ?
   もうそんな時間になったの?
 手紙のことを考えているうちにかなり時間が経ったようだった。

 葬儀場の人の案内で、まず僕たち家族が一番先に棺桶のまわりに行って、手渡された花を一輪ずつおばあちゃんのまわりに並べた。
 この時母は
   お母さん
   天国でお父さんと一緒に
   たくさんバナナを食べてね
と言って、また泣きだした。
 手紙のことを知らない人は、何のことかさっぱり分からなかっただろう。
 ただ単にお婆ちゃんがバナナ好きだったと思っただけかもしれない。
 母は涙を拭きながら、小さな声で
「高志、おばあちゃんに手紙を持たせてやって」
と言った。
 僕は、用意した封筒をおばあちゃんの胸元に置いた・・・

 その後僕たちは親族の人と一緒に、火葬場までバスで移動した。
 母は、おばあちゃんと一緒に、前を走っている霊柩車に乗っている。
 僕は、バスの中で隣に座っている父に
「ねえ、お父さんだったらどうする?」
と聞いた。
「うん?何のことだ?」
「おばあちゃんの手紙だよ」
「そうだなあ、お父さんとしては戦争中の貴重な体験談としての価値があるから残してほしかったなあ
 でもおばあちゃんにきた手紙だし・・・
 お母さんもああ言っていたし・・・
 それにお前、お母さんから言われて手紙を棺桶の中にいれていたじゃないか、もう今さらしょうがないよ」
 僕は黙って前を向いていた・・・

 約30分ほど経って、僕たちは火葬場に着いた。
 そこで待合室みたいなところでしばらく待っていると、僕たち家族を呼ぶアナウンスが流れて、皆でおばあちゃんを火葬するところまで案内された。
 そこには火葬場の職員の男性がおり、いろいろ説明があったあと、おばあちゃんの入った棺桶が焼却炉みたいな中へ入れられた。
 そして職員の説明を受けた母が、泣きながらボタンのようなものを押すと、おばあちゃんの棺桶はその中に入って行き、前の蓋が閉じられた。
 僕にはその蓋が、この世とあの世を分ける境界のように見えた。
 1時間半くらい待合室で待ってもらうよう説明があり、僕たちはまた待合室に帰り、そこで出された弁当を食べた。
 大人はビールを飲んでいろいろ話していた。
 なかには酔って笑い声を出す人までおり
   よく人が亡くなった席で
   酔っぱらえるなあ
と大人の行動を不思議に思った。
 そのことを父に伝えると
「こうやってまだ生きている人は、亡くなった人との縁を切っていくのだ、葬式の席にはお酒も大切なのものなのだ」
とお坊さんのようなことを言っていた。
 だけどおばあちゃんは、親戚の人や葬式に来た人などたくさんの人に見送られてある意味幸せだったかもなあ。
 ガダルカナルという島で亡くなったひいおじいちゃんやほかの日本の兵隊さんたちは可哀想だなあと思った。
 そう思えたのもあの手紙を読んだからだ。
 もしあの手紙がなかったら、おばあちゃんの死もそこまで深刻に受け止めなかったかもしれない。
 バナナを食べなくなった本当の理由や、そのバナナを食べたくても食べられずに死んでいった多くの日本兵のことなど知らずに終わっていたかもしれない。
 やはり、大切なのは昔のことをちゃんと知ることではないだろうか。
 そうしないと昔の人の苦労をだんだん知らなくなってしまうのではないだろうか。
 本当にそれでいいのだろうか?
 

お母さんには嘘をついてしまったけど、今回「僕が取った行動」は正しかったのだろうか?


 
 説明があったとおり、ほぼ約1時間半後にアナウンスがあり、僕たちはまた別なところへ案内された。
 そしてそこで焼かれて骨になったおばあちゃんを目にすることとなった。
 骨になったおばあちゃんを目の前にすると、誰も涙する人はいなかったのが不思議だった。
 その骨を見ながら、また僕は別なことを考えていた。
 遺骨ってみんな大切にするけど、ガダルカナルで亡くなった日本の兵隊さんたちは、その後どうなったのたろう。
 中川さんは、戦後遺骨収集団とかいう団体としてガダルカナルに行ったみたいだけど、全部死んだ人の骨を持って帰れたのだろうか。
 それだったらひいおじいちゃんの遺骨もおばあちゃんの家にあってもおかしくないはずだが、今まで気づかなったなあ・・・
 
 おばあちゃんの遺骨の一部を白い壺に入れてもらい、その日僕たちは火葬場をあとにした。

        9

 一週間後、僕は学校に戻り、まず職員室に行って担任の堀口先生のところへ行った。
「先生、昨日福島から帰ってきました」
「そう、大変だったわね
 でもおばあちゃんの顔を見てお別れできてよかつたね
 ところで何歳だったの?おばあちゃん」
「93歳とか言ってました」
「だったらほぼ天寿を全うしたようなものね
 ところで先週あった模試の件はまた改めて連絡するね」

 天寿か・・・
 ガダルカナルで亡くなった人は、全員天寿どころじゃなかったんだよなあ
 可哀想だなあ、飢え死になんて・・・
 でもおばあちゃんの葬式のことで帰ったので、ひいおじいちゃんのことはほかの人には関係ないことだよなあ。
 またひいおじいちゃんのことを考えてしまった。

 教室へ行って、口の悪い友達から
「おう、お帰り
 どうだった福島?
 まさかお前放射能に汚染して帰ってきてないよなあ」
などとからかわれた。
 そうか、そういえば確か10年くらい前に東北で大震災があり、原子力発電所の放射能漏れ事故があったことを父から聞いたことがある。
 でも、それっていまだに何か影響があるだろうか。

 しかし僕は、心のなかではそんな友達を馬鹿にした。
 君たち、どうせそんな10数年前のことくらいしか知らないじゃないか。
 僕なんか、ひいおじいちゃんがどんな素晴らしい人だったかということまで知ったんだぞ。
 おそらく自分のひいおじいちゃんのことなんて、みんな知らないだろうなあ。

 ちなみに後ろの席を振り返って高田というクラスメイトに聞いてみた。
「ねぇ高田君、自分のひいおじいちゃんのことって何か知っている?」
「ひいおじいちゃん?、何、突然、高志君の親戚で亡くなった人っておばあちゃんじゃなかったの?、堀口先生が確かそう言っていたけど・・・」
「いや知っているかなあと思って・・・
 ちょっと聞いてみただけ」
「ひいおじいちゃんて言ったら、じいちゃんのその前の世代になるんだよね
 知らない、そんな昔のこと
 みんな知らないんじゃない
 どれぐらい前になるのかなあ」
「昭和という時代になるはずだよ」
「昭和って?」
「元号の昭和だよ、今は令和だけど、その前の平成のもうひとつ前になるのかな」
「そもそもその元号っていうのがよく分からないよ」
「天皇陛下が変わるたびに変わるやつだよ、その昭和という時代の初め頃に日本はアメリカと大きな戦争をして負けたらしいけど、その頃生きていた人たちだと思う」
「ふーん、そうなんだ、でも僕あまり歴史とか興味ないし・・・」
「でも日本史の授業で出てきたじゃない」
「そういえば、なんかそんなこと書いてあったかな
 でもそれって昔日本が回りのアジアの国々を侵略して迷惑をかけたので、アメリカが代わりに日本をうち負かしたってやつじゃなかったっけ
 だから日本が悪かったんじゃないの
 先生もそんなふうに言ってなかったっけ
 それにその頃のことってあんまり試験に出ないと思うよ
 歴史なんてさあ、年号と事件名さえ覚えとけばいいんだよ
 あまり余計なこと考えると授業に身がはいらなくなっちゃうよ」
 えっ!
 それって余計なことなの?

 もうそれ以上、高田君と話す気持ちがなくなった。
 ほかの友達に聞いても似たような感じだろうなあ。
 誰も真剣に聞いてくれないだろうな。

 その日夕方、寮に帰って夕食が終わり部屋に戻ってから、相部屋の田中良平君にも聞いてみた。
「良平、ガダルカナルって島のこと知っている?」
と聞いてみた。
「はあ?何それ?
 どこにあるの?
 昔、お笑いタレントでさあ、ガダルカナルなんとかという名前の人がいたらしいことは知っているけど・・・」
 話はそこで終わってしまつた。
 昔といっても、その程度の昔か・・・
 彼に話す気力も失せてしまった。

 僕は、自分机の引き出しの鍵を開けて、その奥にしまっておいた白い封筒を出した。
 そのなかには「中川三郎さんが朝山のおばあちゃんに出した手紙」が入っている。
 そうなのだ。
 僕は葬式のあったあの日、母からおばあちゃんの棺桶に入れるように言われた中川さんからの手紙を入れなかっのだ。
 そして、似たような感じの封筒に新聞紙の切れ端等をつめてふくらませてそれらしく見せ、棺桶に入れたのだ。
    そして本物の手紙はこっそり持ち帰り、こうして僕の手元にある。
 父や母も、まさか僕がそこまでして手紙を残したかったとは思っていなかったようで、そのことに気づかなかった。
 僕自身、なぜ自分がそこまでしてその手紙を残したかったか、当日はよく両親に説明できなかった。
 おまけに、葬儀の場で母を裏切ったことになるので、そのことは誰にも言えずにきた。
 でも手紙を読ませてもらい、なぜか
   これはこの世に残すべきだ
   そしてほかの人にも見せたい
と考えた。 
 それが手紙を見たあとの僕の正直な気持ちだった。
 確かに残酷な、そして悲惨な内容だった。
 でも、実際にあったことだ。
 大人が「平和が大切だ」とよく言うけれど、だったら、なおさらこんな手紙を公開するなどして、多くの人に見てもらうべきではないか。
 そうしたほうがよっぽど平和の大切さやありがたさが分かるのではないだろうかと思った。

 しかし、同級生等の口ぶりなどから、今僕がこの手紙のことを話しても、若い人は興味をもたず、あまり聞いてもらえないかもしれない。
 それに今、僕らにとって大切なのは受験勉強だ。
 でも将来ぼくたちがちゃんとした大人になって、自分たちが子供を持つようになった時、その子供に日本の歴史をちゃんと教えられるだろうか。
 教科書には書いていないことをどれだけ知っているだろうか
 確かにネットやスマホを使えば、いろいろな情報がとれる時代なので、必要であればそれで調べて教えればいいかもしれない。
 でも中川さんの体験した本当の戦争のことなどは、こんな手紙を見なければ絶対に分からない。
 だったら、今すぐ役に立たなくても、将来僕がもっと大人になった時にこの手紙を世の中の人に見せてあげることもできる。
 そのためには、僕自身がもっと歴史を勉強しなければならない。
 学校で習う歴史じゃなくて、もっと本当のことが知りたいと思う。
 ひいおじいちゃんの手紙を見たことで、日本の歴史に興味を持てるようになった。

 自分でも、なぜこんな気持ちになったのが不思議だ。
 僕はあまり神様とか信用するほうではないが、死んだひいおじいちゃんが中川さんの手紙を通して
   高志
   もっと勉強して、ひいおじいちゃんの
            時代のことをお前たちの世代の人にも
            きちんと教えてくれないか
と言ったのかもしれない。
 何せ夢にまでバナナが出てきたほどだ。

 僕はその手紙をもう一度読み直してから封筒にしまい、大切に引き出しの奥に直してから参考書を広げた。
 いつの日かその手紙が役に立てる日を願いながら・・・(了)
             
 

 


   
  


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