見出し画像

山紫水明の国

水がそのまま飲める幸せ


 日本であれば、山や川のある風景というものは、どこでも目にすることができる。
    そしてその恩恵ともいえる水に不自由することはなく
   水と安全はタダ
と言われるほど水資源に恵まれた国だ。

   人間というものは身勝手なもので、自分の回りにごくありふれたものであればその恩恵を感じにくいが、実は世界的にみてもこれほど水資源に恵まれた国は世界中探してもないらしい。
 蛇口をひねって出てくる水がそのまま飲める国などないのだ。

 そしてその豊富な水資源が生まれるもととなっているのが、国土の70パーセントちかくを占める山林であり、そこから流れ出る雨水は山林が本来もつ保水力で自然にろ過されて綺麗な水を生みだしている。
 またそれらの水は、山中の土壌にある栄養分をたっぷり含んでいることから、四方の海に流れ出てプランクトンを生み、豊富な海産資源を育むもとともなっている。

 もともとは中国の言葉らしいが
   山紫水明の国
とはまさに日本のことであり、その景観こそが日本の財産でもある。

 イギリス人が紅茶を愛飲するのは、水がそのままではまずくて飲めないからであり、アメリカ人がコーヒーを愛飲するのは、その昔イギリスから独立する際にその紅茶で本国のイギリスに膨大な外貨を稼がれていたことが分かって激怒したことが背景にあるらしい。
 いずれにせよ、どちらの国も水そのものを飲む習慣はなかったことになるのである。
 ある意味、水だけではとてもまずくて飲めなかったことが、紅茶やコーヒーの文化を育てたのだ。

 ところが日本のお茶文化は、清水で入れることが前提であり、これは日本酒も同じで
   清らかな水あるところ
   銘酒あり
ということになるが、いずれも我が国土の山林が育んだ水のおかげであり、そのことからも日本の水は日本人の貴重な財産と言える。

 ところが最近は日本人自身がその貴重な財産の価値を分からずに、欧米に迎合するかのように加速化する脱炭素化云々という気風に乗って山地を乱開発して中国製のソーラーパネルを設置しまくったり、宅地造成などにより熊など山中に生息する動物の生き場を奪っておきながら、挙句の果ては
   街に熊が出る
などと大騒ぎしている。

 しかし世界的に見れば、それでもまだまだ日本の山川は捨てたものではなく、古来から日本人の文化の形成にもこの水が大きくかかわってきた。

 水を口にすることをあまりにもごく自然に受け入れているため、それが自分たちの文化にも深く根を下ろしていることに気づかない。
 
 たとえば、会社でミスをした場合など(ミスの程度にもよるだろうが)
   君の過ちは「水」に流そう
という表現をよく使うと思う。

 また日本人には、伝統的に
   けがれ(穢れ)
という精神構造がある。
 この穢れについては、今や多くの日本人が意識しないと思うが、実はこの穢れこそが日本人特有の精神のひとつともいえる。
 穢れを汚れと同一視する人もいるが、簡単に言えばその違いは目に見えるかどうかにある。
 すなわち、服についたシミなどは典型的な汚れであるが、穢れは
   過ち、恨み、罪、死
など、目に見えないものである。
 ちなみに「死」を穢れとする考えは、神道から来る日本人特有のものでもある。
            えー私そんな気持ち悪い
            発想しないよー
という人も少なからずいると思うが、では日本の病院やホテルに
             4
という数字が入った部屋がないのはなぜだろうか?
    それは日本人が「4」という数字から「死」を連想するからだ。
    4のつく部屋だと患者や客が嫌うためで、それはひとえに日本人が心の奥深くで、自然と死を穢れたものと思っているからだ。
    日本人は、ことのほかこの穢れを忌み嫌っており、それをなくす手段として
   水に流す
という発想をしてきた。
 これは水がきれいでないと思いつかない日本人特有の発想であり、その最たるものが
   禊(みそぎ)
である。
     よく修験者などが滝にうたれる行をするシーンなどを時々テレビなどで目にすると思う。
     またそこまでいかなくても、政治的不正などで職を辞した議員が、しばらくして再選を果たした時など、必ずといっていいいほど使うのが
   これで「みそぎ」が済んだ
という表現である。

 そのほか、一般的に人をほめる場合など
   あの人は潔い(いさぎよい)人だ
という表現を使うが、この表現も
   水が清い
ということが前提であり、日本では「きれい」ということと「正しい」ということが等価値になっていることが分かる。

 しかしこの日本人的発想が世界に通用するかと言えば、実はそうはいかない。
 お隣韓国では
   「恨(ハン)の文化」
が根底にあり、彼らはそれをあえて否定せずに、むしろ「恨」つまり他人への恨み・妬みこそが自分たちを元気にする、鼓舞するという発想になる。

 ロシアは先の大戦時に千島列島を奪ったばかりでなく、あわよくば北海道まで狙っていた節もあるが、その根底にあった思いは、当時のソ連の指導者であったスターリンの
   北海道をとって初めて日露戦争
            の屈辱を晴らせる
と述べた言葉に表れている。

 中国だって、未だに反日教育を繰り返しているが、その根底にあるのは、先の日中戦争や中華思想、つまり日本より自分たちが上だという傲慢な態度が背景にある。(他人の技術や発想を盗むことには長けているが・・)

 このように日本のまわりには、決して過去のことを水に流してくれない国が多くあり、それが今でも尾を引いていることは現状を見ればよく分かる。

 ただ日本の良いところは、この
   水に流す
という発想だ。
 これは、見方を変えれば
   過去にはこだわらない
   前を向いて歩く
という発想につながっているとも言える。

 だからこそ、あれほど先の大戦で国土を焼野原にされながらも、国民は前を向いて歩いたのだ。
 欧米に対して言いたいことは山ほどあっただろうが、決して過去にとらわれず前を向いて歩いたからこそ、今の日本の繁栄があるのだ。
 そこが過去にこだわる国々との決定的な違いであり、その根底にあるのは、祖先が山紫水明の国で豊かに育まれてきた水を文化的に継承してきたおかげといえる。

 水をただ同然で、しかも安心して飲める幸せを感じながら、たまにはその水が日本人のDNAにも深く染みこんでいることに思いをはせるのもいいかもしれない。

山紫水明があったからこその日本

  

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?