ナヴォイーの奇跡
捕虜になっても素晴らしかった日本人
知られざる親日国の過去
ウズベキスタン?
えっ、それってどこ?
そもそも国なの?
そういう声が聞こえてきそうだ。
サッカー好きな方ならご存知かも知れないが、この国はワールドカップのアジア予選や親善試合では、日本とそこそこいい試合をする。
しかし頻繁に世界大会に出て来るレベルではないようだ。
正式な国名は
ウズベキスタン共和国
日本からはおよそ6400キロ離れた中央アジアの国で、面積は日本のおよそ1.2倍、人口は約3000万人。
1991年のソビエト連邦崩壊により独立した国のひとつで、主たる産業は、農業、鉱業等だが、最近は観光にも力を入れており、国内にあるイスラム教の美しいモスクなどが有名だ。
敬虔なイスラム教スンニ派の国であるが、国民性は穏やかで、決して排他的ではなく、外国人にも親切に接してくれるところらしい。
ちなみにウズベキスタンの「スタン」とは「国」を意味する。
つまりウズベキスタンは、その最多民族であるウズベク人の国という意味になる。
この国は、先の大戦終了までは日本とあまり縁のない国であったが、戦後ソ連が多くの日本兵捕虜を強制的に抑留して自国に連れ帰ったことにより、当時ソ連共産圏の一国だったウズベキスタンの人々も、日本人と接することとなった。
ウズベキスタンの日本兵捕虜は、森林伐採や道路整備、建物建築といった様々な重労働に従事させられた。
そしてその頃から、なぜかウズベキスタンでは
日本人のようになりなさい
と言われるようになり、その言葉は現在も語り継がれ、知られざる親日国のひとつとなっている。
では、なぜそのような言葉が語り継がれるようになったのだろうか。
ウズベキスタンには約25000人の日本人捕虜が送られた。
雨が少なく、寒暖差の激しい国で、真夏は40度、真冬にはマイナス20度にもなる大変気候の厳しい国だ。
抑留者はそのような中でも、水力発電所や学校など多くの建設に従事させられ、ウズベキスタンのインフラ整備に貢献した。
日本人捕虜がウズベキスタンで造った建築物で
ナヴォイー劇場
という国立の劇場がある。
表題の写真はその劇場である。
地上3階建て、地下1階、客席数1400を備えた壮麗なレンガ造りの建物で、旧ソ連時代には、モスクワ、レニングラード(現サンクトペテルブルグ)、キエフのオペラハウスと並び称される四大劇場のひとつとされた。
建設に従事したのは
第四ラーゲル
という収容所に収容されていた永田行夫隊長(当時大尉)以下250名あまりの日本人部隊だった。
永田大尉の部隊は戦争中は航空機の修理を担当する部隊であったため、技術者や工兵が多かった。
このことが劇場建設にあてられた大きな理由であったようだ。
ただ、この劇場を最初から造ったのではなく、戦争で中断していたものの継続を命じられたのだが、それでも劇場建設などは初めてのことであった。
永田隊長は、各人の職歴と適正をもとに班編成を行い、測量、鉄骨組み立て、レンガ積み、電気工事など組織的に建設に従事させた。
毎日劇場建設に向かう日本人捕虜を近くで見ることになった住民は
日本人の抑留者は、朝整然と隊列
を組んで出ていき、夕方にはまた
整然と隊列を組んで帰ってくる
と、その規律正しい行動を称賛した。
またある子供が、収容所内での食事がわずかな黒パンと薄いスープだけということを母親から聞き、子供心に可哀想と思って収容所の柵の隙間からこっそりとパンと果物を差し入れたら、数日後同じ場所に手作りのおもちゃが置かれていた。
子供がそのことを母親に伝えると
日本人は勤勉で礼儀正しい
おまけに恩を忘れない
大きくなったらあなたも
日本人のようになりなさい
と言われたらしい。
ウズベキスタンの前大統領だった故カリモフ氏も生前次のようなことを語っている。
子供の頃母親に連れられて
毎週末に日本人の収容所に行った
そして、そのたびに同じことを
母親から言われた
『息子よ、ごらん
あの日本人の兵隊さんを
ロシアの兵隊が見ていなくても
働く。
おまえも大きくなったら
日本人のように
人が見ていなくても働く人間
になりなさい』
そんな言いつけを守って育ち
今では大統領にまでなった
ウズベク人は、日本人が勤勉で規律正しく、恩を忘れない国民であることを知った。
劇場は約2年の歳月をかけて、1947年9月に落成した。
出来上がった劇場を見て、ソ連軍の将校は感激し、永田隊長に
日本人は本当によくやってくれた
落成式の公演でバレエが上演される
ぜひあなた方にも見てもらいたい
と言ったという。
当時の捕虜の処遇からすれば考えられない厚遇だった。
抑留者たちは招待された公演の時、劇場内を見学し、後世に残るものを造り上げたことに誇りを感じ、涙を禁じえなかった。
この時永田隊長も胸にこみ上げるものを呑み込みながら、部下たちに次のように述べた。
日本はアメリカの爆撃で廃墟に
なっていると聞いている
諸君らは帰国したら今度は日本
のために頑張って欲しい
ここウズベキスタンの地で培っ
たものを今度は祖国再建のため
に発揮して欲しい
そして世界中から敬意を集める
ような復興を成し遂げようでは
ないか
永田隊長の言葉どおり、戦後日本は世界が驚愕する驚異的な復興を成し遂げた。
その後ウズベキスタンに抑留されていた日本人も復員することが決まり、ナヴォイー劇場の建設に従事した部隊も、永田隊長を先頭に舞鶴港に引き揚げて来られ、再び日本の土を踏むことができた。
1966年4月26日早朝、ウズベキタンの首都タシケントは直下型の大地震に見舞われ、およそ70パーセントの建築物が倒壊した。
その中で、ナヴォイー劇場をはじめ、かつて日本人抑留者が建築に携わった建物の多くがその大地震に耐えほぼ無傷で残った。
現地では「ナヴォイーの奇跡」と称賛された。
それらは家を失った人達の避難所として活用された。
現在でもナヴォイー劇場をはじめ、日本人が作った発電所や建物が現役で使われており
地震がきたら昔日本人が作った
建物に逃げろ
と語り継がれるようになった。
大地震にも耐えたナブォイー劇場のことは、ウズベキスタン国内だけでなく、瞬く間に隣接するキルギス、カザフスタン、トルクメニスタン、タジキスタンなどの中央アジア各国に広がった。
日本人は優秀で真面目な民族だという「日本人伝説」が広まって、1991年のソ連崩壊で各国が独立する際、国家目標として日本人を見習った国造りを模索する国が多かった。
では、なぜそのような頑丈な建物が作られたのであろうか。
強制収容所に入れられて、粗末な食事しか与えられずに他国のために重労働に課せられる。
そのような劣悪な環境であれば、最低限の仕事しかしない。
そう考えても当然のように思われる。
しかしそんな考えで造られたものが、倒壊率70パーセントを越える大地震で生き残れるはずがない。
ところが、ナヴォイー劇場は無傷で倒れなかった。
先人たちが、いかにその建築に情熱をもって真剣に取り組んだかという証でもある。
そこには、日本人の誇りと労働に対する価値観があったからこそ成しえたものだと思える逸話がある。
前述の永田隊長は、ナヴォイー劇場建設を命令された時に、ラーゲル収容収容所で部下にこう訓示した。
我々は不幸にも敵の捕虜となり
収容所生活を送っている
しかし捕虜となった現在でも
できることがある
それは、今回建設を命じられた
国立劇場(ナヴォイー劇場)だ
完成後そこではバレエやオペラ
の公演がなされる
ロシアはバレエの本家とも言える
国柄を表す文化のひとつだろう
日本で言えば能や歌舞伎が上演さ
れる場所のようなものだ
であれば、その国柄を表す舞台に
ふさわしい立派なものを我々の手
で作り上げようではないか
地震などの災害にも耐える頑丈な
ものを作って後世に残し日本人と
しての名誉を長くこの地に残そう
ではないか
部下たちは隊長の訓示に奮い立ち、その劇場の建設を生きがいに変えた。
いかなる環境にあろうとも日本人としての誇りを失わず、置かれた場所で自らの生き方に価値を見出そうとする気概に深い感動を覚える。
また、故カリモフ氏が母親から言われたように
人が見ていようがいまいが関係ない
お天道様が見ている
という、日本人の労働に対する思いも見られるが、それは共産圏下だった当時のウズベキスタンにはない価値観だった。
当時の共産主義圏においては、マルクスの唱えた
労働価値説
が主流だった。
つまり
労働によって生み出される物は
その対価として労働者に支払わ
れる賃金と対等になる
というものだった。
しかしナブォイー劇場の建設に従事した者は強制労働というほぼ無価値の重労働に従事させられたにもかかわらず、その労働価値をはるかに上回る建築物を生み出した。
労働価値説では説明ができなかった。
それは資本主義でも共産主義でもない、日本独自の労働価値観だった。
当時のウズベキスタン人の驚愕が余りあるものであったことは想像に難くない。
過酷な環境の中での強制労働、帰国の見込みのない抑留という絶望的な状況のなかでさえ、先人たちは日本人として勤勉・実直に仕事に励み、たとえ日本に帰ることができなくてもウズベキスタン国民の手本とされるような行動をとり、地震にも耐える頑丈な建物を作ることで、未来に自分たちの名誉を残そうとした。
戦後、この地で強制労働に従事させられた先人たちひとりひとりの行動がウズベキスタンの人々に深い感銘を残して日本人のイメージとして定着し、親日国としての感情が醸成されたのだろう。
ナボイ劇場の横には、建設に携わった日本人抑留者を讃えるプレートが設置された。
そしてそこには日本語でこう書かれ、先人たちの偉業を讃えている。
1945年から1946年にかけて強制移送
されて来た数百名の「日本国民」が
このアリシェル・ナブォイー名称劇場
の建設に参加し、その完成に貢献した
そこには、「捕虜」という文言は使われていない。
設置にあたり、故カリモフ大統領が
絶対に「捕虜」という言葉を使うな
と指示したためらしい。
またウズベキスタン国内には、抑留中に亡くなった日本人の墓が13か所あったが、カリモフ氏は、生前ソ連時代の中央政府から
日本人の墓地をひとつにまとめろ
という命令を受けた。
ソ連としては、国際法違反で抑留した日本人捕虜の痕跡を少しでもなくしたかったのだろう。
当時のソ連にあって、中央政府からの命令は絶対的なものだったが、氏はこれを拒否した。
その理由は
それぞれの墓地に眠っている日本人
は、それぞれの地でウズベキスタン
の国造りに貢献した恩人である
それを一緒のまとめるということは
できない
それは、遠い異国の地で眠っている
日本人に礼を失することになる
恩人には、礼を尽くす
というものだった。
その後も日本人の墓地は、それぞれの地でしっかり守られ、今でも現地の方々の献花が絶えない。
ウズベク人も恩には恩で報いた。
日本ではあまり知られていない美談である。
しかし共産主義圏下にありながらも、個人でその偉業を讃えて日本人抑留者の博物館を運営していたウズベク人がいた。
ジャリル・スルタノフ氏である。
日本政府は、平成27年になって彼を日本との友好親善関係へ貢献したとして外務大臣表彰したほか、日本へ招待した。
平成28年1月に日本を訪れたスルタノフ氏は、ナヴォイー劇場生みの親とも言える永田行夫氏が復員した舞鶴市を訪れ、舞鶴引揚祈念館を訪問した。
そして小中高校生約120名を前にナブォイー劇場のことを紹介した後に最後にこう述べた。
ウズベキスタンを知らない日本人は
多いと思うが、我々は日本に対して
大変親しみを感じています
私の国には、日本人が造った建物や
施設が多く残っています
抑留の苦しみに負けずに自分の仕事
に向かっていった彼らの姿は、若い
皆さんが生きていく良い参考になる
と思います
その公演を聞いた生徒たちにとって、まさに目から鱗の話だっただろう。
なにせ学校で自虐史観に染まった考えしか刷り込まれていない世代だ。
自分たちの祖先にそんなに素晴らしい
人たちがいたのか
なんでこんなことを学校で教えない
のだろうか
そう思った生徒も少なからずいたことだろう。
歴史から学ぶとはこういうことである。
かつて日本人はこのような誇り高い民族だった。
資本主義とも共産主義とも違う日本独自の労働価値観を持った人たちで溢れていた。
お天道様のもとで働く人たちだった。
そしてそれが称賛され、今でも親日でいてくれる人たちがいる。
多くの日本人が知らないだけだ。
これこそ時代を越えた真の「国際貢献」と言えるのではないだろうか。
さあ、世界に目を向けて先人たちの歩んできた苦難の道を学び、日本人としての「自尊史観」を取り戻そうではないか。
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