漕日#10|島にへばり付く森、森にへばり付く人
無人島に一人住む木こりのソトと、島の頂を目指して歩き始めた。微小な藻類のせいでつるつるすべる磯を少し歩いたあと、海岸線に対して直角の方向へ折れるようにして森に入った。オレンジ色の分厚い雨がっぱを着たソトの足取りは軽い。このときすでに、東京にはじめていった田舎者が人々の足取りの速さに驚く程度にソトの歩調を感じていたが、一方でこの分なら本当に頂上まで20分だなーー、とたかをくくっていた。
森に入ってほどなくして、急斜面にさしかかる。ソトが木を切り出した痕跡をいくつも通りながら、ぎりぎり道と呼べる地面を踏み締めて歩いた。履いていった方がいいと勧められた長靴は、爪先に鉄板が入っている安全靴だった。最初こそ何とも感じられなかったが、次第にその1kg程度の重さがこたえてくるようになった。それでも、ソトは東京人的な歩行速度で野生の森の中をゆく。
20分はゆうに経過した。多分、1時間弱は経過してたんじゃないだろうか。少し遅れて休憩場所にたどり着くと、オレンジ色の分厚い雨がっぱを着たソトがオランウータンスタイルで佇むように座っていた。伐採の跡があるちょっとしたスペースで、いつも休憩場所として使っているようだった。
「誰だよ、20分で着くって言ったのは」
悪態をついた。
「一人で登るときはいつも20分だ」
「そういうことね、きょうは俺がいるからね」
冗談ではなく、常に彼は先をどんどん進み、すぐに見えなくなる。こちらが「どこーーーー!?」と叫ばなければ、とっくに島の頂に到達して、こっちは急斜面の森で迷っていたはず。休憩場所からは美しい群島の一部を望めた。ソトはもう歩き出している。
「ここからは道がない」そう彼が言ってから、本当に道がなくなってきた。森は急斜に張り付くように形成されていた。ときには、崖の亀裂から木が伸びているような場所を、その木をよじ登りながら、地なき道なき道を進んだ。ぼやっとしていると踏み抜いて、何mも下まで滑落してしまう。カヤックから眺める島は、いかにも土をたたえた森林に覆われているように見えたが、実際に登ってみると全くそうではない。「枝は必ず2本掴む」「コケが繁っているところに足をつく」ソトに言いつけられたこの2点を遵守しながら、4足歩行で島を登った。森は人を寄せ付けないようにできていたが、必死にしがみついて、一体化した。
長靴の先の鉄板が、いよいよ足かせになってきた。きこりにとって、この重さは安全とトレードオフで、メリットとして重たい木が万が一爪先に落下しても問題ないのだろうけれど、登山というか、ほぼ四足歩行で森をよじり上がっていくという行為に対しては、デメリットしかない。それはだんだん腹が立ってくる重さで、ときおり悪態をつきながら、両腕で足を抱えて苔だらけの木に引きずり上げたりしながら、一歩一歩、高度を稼いだ。雨具の下は汗だくでほぼ雨に濡れた状態と変わらなく不快だったが、そうも言ってられない。
時折り目にする綿花のような地衣類の美しさが、疲れを癒した。パタゴニアでは本当にいろいろな地衣類を見たが、その地衣類は初めて見かける種類だった。特に発光しているというわけではないが、森の中で一際白いその地衣類は、そこ此処に自生していて、思わずカメラを向け、そうしているうちにまたソトとの距離が開いた。
こっちが息を切らせて、四肢を振り回して悶えている間に、ソトはどんどん先にいってしまう。道がないので、オレンジ色のカッパが見えなくなると、目の前は森の壁のように進むべき方向が全くと言っていいほど定まらない状態になった。下手に進むとソトとはぐれてしまうので、終始「どこーーーーー!?」と叫びながら修行のような山行というか島行を続けた。
岩だらけの急斜面に張り付いた薄い森に包まれながら必死にソトを追う。島から流れ出る滝が見えた。このあたりの島々には、こんな風に無数の滝が流れている。登り途中に時折見える眼下のフィヨルドは、だんだんと島々の重なりから地図で見るのに近い群島の様相を呈し、そのことが確実に山頂に近づいていることを示していた。
島にじりじりと根を張った森で四苦八苦していると、なんとも不快で、心地よかった。圧倒的な存在の小ささを実感できることに対して、どういうわけか喜びを感じていたように思う。そして足元に目を落とせば、物質のスケールで言えばもっと小さい、例えば白い地衣類のような存在が、可愛らしげに森をつくっていた。私が感じた森との一体感は、自然物と自分に見てとった共通の小ささが理由かもしれない。
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