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ネットの限界と、ペルーで泣きたい夜

  昨日無事に、チリからペルーの首都・リマに着いて、この国に住んでいた当時に利用していた常宿にチェックインした。日系の方が営んでいるペンションで、中に入るとNHKがかかっていて日本が懐かしく思えた。そんなこんなで昨日はペルーの物価の低さに浮かれつつ初日を楽しみ、今日は60時間というバス移動の疲れをいやしつつ仕事も若干しながら、こうしてnoteを書いてるわけです。現在、午後10時39分。

 今日は、ライティング夜しかはかどらない問題や、ぼくお先まっさら問題(良い意味でもある)などは置いといて、ペルー遠過ぎ問題とネットの限界についてちょっと書こうかと。

個人的に感じるネットの限界

 以前書いたnoteは編集部のおすすめにもピックアップしてもらって、そこそこ読んでもらっているのですが、その中で「ネットによって地理的制約が無くなった」という趣旨の文を書いたと思います。記憶が正しければ。これはコミュニケーションとかビジネスの分野ではかなりそう言えるかと。ただ今夜、晩飯のアンティクーチョをテイクアウトした帰り道、ペルーの夜気を感じながらふと考えた。これがネットの限界だな〜と。

 どういうことかっていうと、ネットは夜気を届けられないってこと。当たり前ですが。今日では、あらゆる情報がネット上に上がっていて、リマの夜だって誰かのブログを見れば分かるし、YouTubeの動画は圧倒的な情報を与えてくれる。でも、体で感じる街の音や雰囲気、夜気の肌触り、すれ違う人の表情、ビールに良く合う激うまアンティクーチョの歯ごたえ、それらに伴って沸き立つ懐かしさや高揚までは伝えられない。これは結構、決定的じゃないですかね。

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映画「グッド・ウィル・ハンティング」より

 ぼくの好きな映画に「グッド・ウィル・ハンティング」という作品があります。記憶力抜群で類い稀な才能を持ちながら、暗い過去やトラウマから軽犯罪を繰り返すスラム育ちの青年・ウィルと、彼を更生させんとする心理学者・ショーンの間で生まれる友情にも似た関係を描きながら、いつの時代も普遍的に大事だと感じられる要素がたくさん入った映画です。その1シーンでショーンがウィルに放つ言葉を引用しよう。

 美術について問えば、君は本から得た知識を並べ立てるだろう。ミケランジェロも、知り尽くしてる。数々の偉業、ときの支配者や法王との軋轢、性的嗜好から作品まで。だが君にシスティーナ礼拝堂の匂いは語れない。そこに立ってあの美しい天井を見上げたことがないから。現実に、女について聞いたら、愛読書からの抜粋を語るだろうな。数少ない実体験を織り交ぜて。しかし、女の横で目を覚ました朝の幸福感なんて、想像もつかんだろう。強情で・・・。戦争について聞いたら、たぶんシェイクスピアをぶつけてくるな。「友よ侵略者に立ち向かえ」。でも君は知らん。この腕の中で生き絶えた親友が、心に焼き付けていったあのすがるような目を。愛について問うたらソネットを引用するか。でも一人の女に骨抜きになったことはないだろう。見つめられるだけで卒倒しそうなくらい、神様が自分に与えてくれた天使だと思う。・・・

 このショーンの語りは、ぼくがこうして書いているようなこととは全く違う意味を作中で持っているので、気になる方は映画を見てみてください。

ネットの限界で際立つ価値

 限界の先には、価値があると思う。誰かにとって価値があるかといえば、伝わらない以上それは自分にしか価値がない。自分の中でこそ、その価値が最大化するとも言えるかも。ネットの限界の先にある、自分の目で見て耳で聞いて肌で感じた一次情報は貴重だと思いません?「コト消費」や「所有から使用へ」という風に、体験に対してお金を支払う潮流が強まっている昨今ですが、この傾向はネットがその限界とともに生活を豊かにしていけばいくほど、際立っていくんじゃないかとも思う。

 で、そんなことを考えていたら、何だか泣けてくるわけです。2014年から16年にかけて2年間暮らしたペルーは本当に素晴らしい国で、人も文化も食べ物も気候も大好き。だからこそ「何でこんなに遠いんだ!」って悪態をつきたくなる。もしこれが東南アジアくらいの近場だったら、真剣に移住を検討していたかもしれない。でもこの遠さじゃちょっと尻込みしてしまう。ほとんど地球の裏側。少なくともいまのぼくにとっては現実的じゃない。あー、悲しい。

 今回、ペルーでの滞在は資金不足や原稿の締め切りの関係で2週間。まああんまり懐かしさに浸っても良くないので、ちょうどいいっすかね。

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