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春光ケトル(ショートショート)

 春の朝というのはどうしてか、すぐに起きることができない。
 布団の中の温度があまりに心地いいことと、肌に触れる日差しが柔らかいせいだろう。よって原因は私ではなく、春の気候にあるのだ。
 そんな風に言い訳はするけれど、結局、心地よく目覚めることは私にとって重要事項であり、そのためならなんでもしてやろうという心構えだ。
 実際に私自身がなんでもしてくれるか考えてみると、正直微妙なところはあるけれど。あくまで心構えはそう、というだけである。

 そんな私が、最近見つけたアイテムがこれである。
 春光ケトル。春の柔らかい日差しを集めてお湯を沸かしてくれるケトルである。上部に付いている、太陽電池みたいなところで日差しを集める。
 この部分がまた、綺麗なのだ。光を反射すると、ピンクや水色、うす紫といった様々な色がキラキラと輝く。
 子どもの頃に買ってもらった万華鏡のことを思い出す。ちょうど晴れた空に向けて覗いていたときの景色に似ている。小さな筒の中に、こことは別の世界を空想していたものだ。

 そんなことをぼんやりと考えながら眺めているだけで、ケトルの中の水はゆっくりとお湯になっていく。
 こぽこぽと転がっていくように部屋へ充満していく沸騰の音。マグカップに注ぐと溢れる湯気の粒の一つひとつが、私の脳みそを刺激する。
 このケトルで入れたお湯は、とても口当たりが優しい。まるで飲んでいないのではと錯覚してしまうくらいに優しい。
 温度も、火傷しないけれど体全体がしっかりと温まって、頭に充分な量の酸素が供給されていくような、というか。
 あ、なんか目がすっきりしてきたな、と思う絶妙な塩梅なのである。

 私はそのお湯で桜茶を淹れる。白が充満したマグカップの中で開く、塩漬けした桜の花びらの美しさたるや、それを眺めているだけでも幸福に包まれる。
 品性の欠片もない話ではあるが、それをずずずと音を立てて啜り、プハー、とするまでがワンセットである。目覚めの一杯のはずなのに、一仕事終えた後の居酒屋サラリーマンのようである。
 この時に漏れるため息だけは、普段の濁った灰色なんかではなく、もうちょっと風情のある色になっているような気がするのだ。

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