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トコナッツオイル(ショートショート)

 料理に使われる油にはココナッツオイルというのがある。
 ココナッツの胚乳から採れるオイルなのだが、それに似た名前のちょっと変わったオイルがある。
「とこなっつおいる」
 私はその名前を聞いて、思わず聞き返してしまった。近所のカフェ。私はカフェラテ、その話をした彼女はカプチーノを飲んでいる。
 私はオールドファッションで乾いた喉をカフェラテで潤しながら、聞いた。
「なにそれ、ダジャレ?」
 テーブル席の向かい側に座る彼女の名前はあや。私の友達。
 今日は大学が休みなので、二人で出かけることにした。その途中で立ち寄ったカフェがここ。
 私の質問に対して、あーね。と返ってくる。
「確かにそうだわ」トコナッツオイルとやらに、いかにもなダジャレが使われていることに今気づいたのか、もともと分かっていたのかは定かではない。
 けれど、何とも言えない、低空飛行するみたいな声のトーンで彼女はしゃべった。
 この間、気になっている男子とやらに声を掛けられていたときとは比べものにならないくらいの声の低さだな、と思いながら、話の続きを促す。
「ともかく、トコナッツオイルっていうのがあるんだけど」
 話はそんな一言から始まる。
「もちろん気づいてる通り、ココナッツオイルをもじってるらしいんだけど、常夏とココナッツを掛け合わせてトコナッツ。このオイルが何だかすごいんだって、話題になってるんだよ」
「どんなふうに?」
「そのオイルを使うと、目の前の景色が、まるで常夏のリゾートにいるみたいに見えるんだって」
「ちょっとまって。それなんかアブない成分とか含まれてない? 大丈夫なの?」
「うーん、どうなんだろ。なんていうか、料理で使ったりすると、そのオイルの一部が気化して、それが空気中でモニターみたいな役割をするんだって」
「モニター……」
 私は頭の中で、霧状に噴射した水に映像を映す技術のことを思い浮かべた。あんな感じだろうか。最近何かのニュースで見た気がする。フォグディスプレイとかなんとか。
「でも、なんでリゾートの景色が映るんだろう。そこがよく分からないけど、まあ、ちょっと面白そうかも」
「ね、何でかは知らないけど」二人ともそう言いながら、少しずれたタイミングでそれぞれの飲み物を飲む。あやは一人で頷いている。音楽を聴きながらリズムをとっているかのような、軽快な動き。
「もし今度、どこかで見つけたら買ってみようかな」
「うん、私もちょっと気にしてみよう。案外あっさりその辺に売ってるかもしれないし」
「そうだね」

***

カフェでの時間も一段落し、外に出る。日差しが丁度よい、心地いい温度を作ってくれている。髪がぐちゃぐちゃに崩れないくらいの涼しい風が吹いているのもうれしい。
「それじゃ、また連絡するね」
 私はいつもの別れ際のセリフを言う。あやは、うん、それじゃ。と手をひらひらさせる。
 それぞれの帰路につく。街の景色はまだ明るく、午後の緩やかな空気が頬を撫でる。
 ふと、その風の中に、あまり嗅いだことのない香りがした。爽やかな、というか軽やかな、というか。少し果物の酸味を帯びたような。
 何だろうと思って、辺りを見渡す。それはすぐに分かった。街中の一角。いつもは灰色をした交差点。それが今は。
 信号機がヤシの木のようになっている。生い茂る葉の隙間から信号機の色が変わるのが見える。信号機の変化が分かりづらい。非常に危ないな、と思う。
 よく見ると、横断歩道は水上コテージの通路みたいに、木製の板っぽくなっている。その隙間からは海の青色が見える。そこではなんと、イルカが泳いでいる。
 歩行者用信号機は赤と青それぞれ浮き輪の形になっていて、通行可能の時は青色の、通れないときは赤色の浮き輪が光っている。
 街路の植木はすべてハイビスカス。
 ……ちょっと、ちょっと待って。これってもしかして。
 街中の一角だけがリゾート地になっているその光景に、思わず写真を撮らずにはいられなかった。
 まさか、話をしていたほんの数分後に、この景色を見ることができるなんて。この写真、後であやに送ろう。
 そんなことを考えながら、再び帰路についた。
 横断歩道は足を踏み外さないように、気を付けながら。

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