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水を吸った本の話(ショートショート)
深く冷たい水の底に長い間浸かっていた本は、やがて波の色が染み込み、表紙だけを見ると本物の水と見分けがつかなくなる。
ごく稀に街の古い雑貨店でそれが置かれていることがあるが、たいてい店主はそれを売りたがらない。
むしろ大切に保管していて、例えば店に有名人がやってきたときのサイン色紙のような扱いをしていることが常である。
その本の中の文字一つひとつには意思が宿り、本の中でだけ自由に泳ぎ回ることができる。
その昔、本の中を泳いでいる文字を、ある一人の少年が海に逃がしたことがあった。
文字たちは幸いなことに、もともと海水の中で生まれたため、本から飛び出しても生きていくことができた。
けれど、文字たちは少しずつ、海の生き物たちに食べられていった。その後には一粒の泡だけが残り、海面まで昇って弾けた。
その泡を、ひとりの人魚が眺めていた。
彼女は、かつて人間に憧れ、彼らと同じ言葉を得、海を飛び出した仲間がいたことを知っていた。
どうにか自分も、人間と同じように話すことができないだろうかと考えていた。
海面まで昇って消える泡。それは、海中では聞いたことのない音をしていた。そしてその音は、かつてこっそり家を抜け出して、人間の住む港まで出かけたときに、人間が発していたものと同じ響きをしていた。
あれが人間の言葉なのだろうか。
人魚は次に昇ってきた泡を食べようと決意した。
そうすれば、もしかしたら人間と同じように、言葉を使うことができるようになるかもしれないから。
そうして日々を過ごしていた人魚は、ついに文字の泡を見つけ食べることができた。
泡は六つ、食べた。
あ、い、し、す、て、ま
愛する者にそれを伝えるのには十分すぎる文字を手にしたが、人魚にはまだ、その言葉の使い方や意味を理解することができなかった。
きっと、その人魚がかつて聞いた、泡になった仲間が同じようにその言葉を扱えたなら、彼女の結末も変わっていたかもしれなかった。
ときどき耳を澄ますと、海の中から声が聞こえてくる。
ころころとふざけるような、楽しんでいるような声。意味はわからないことがほとんどだけれど、ときどき知った言葉が聞こえてくる。
まだ理解しきっていないような、あいしています、という声が。
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