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シオリザクラの髪留め(ショートショート)

 久しぶりに遠出した際に立ち寄った道の駅。桜の咲き乱れる、とても綺麗な場所だ。その中にあるお土産売り場を回っている時、ふと、気になる商品があったので、店員さんに声を掛けてみた。
「シオリザクラという名前の桜があるんですよ」
 カウンター越しに店員さんはそう切り出した。
「シオリザクラ、ですか? あの六月に花を咲かせる……」
 シオリザクラ。別の呼び名で、シウリザクラともいう、白い花を咲かせる植物。
「よくご存じですね。けれど、今話した桜はまた別のものです」
 そんなふうに前置きしながら、店員さんは一つの髪留めを見せてくれる。
「この髪留めには、そのシオリザクラの花弁が使われているんです」
 髪留めは光を反射してきらりと光る。
「これはバレッタというタイプの髪留めです。大きなクリップの形なので、パッと簡単に髪をまとめられます」
 ちょうど、両手の指を交互にからめたような形状をしている。たまに見かけるこの髪留めはバレッタという名前だったのか、と一人で納得する。
「女性へのプレゼントですか?」
 店員さんは自然な笑顔を崩さぬまま、そう問いかけてきた。
「はい、そうです。彼女、髪が長いので、こういうのを使ってくれたらなって思って」
「素敵ですね。彼女さんもきっと喜んでくれると思いますよ」
 店員さんは声のトーンを一つ上げてそう言った。
「はい、そうだとうれしいです。もう少し、色々見てみることにします」
「そうですか。では、また何かご用があればお申しつけくださいね。ごゆっくりどうぞ」
 僕は、会釈をしながら店内の散策を再開する。

 ***

 それからしばらく、何種類か髪留めを見てみた。どれも凝った細工が施されていて、どれがいいだろうと迷った。けれど結局、一番最初のもののところまで戻ってきた。
「こちらになさるんですね。包装はプレゼント用にされますか?」
「はい、プレゼント用でお願いします」
「かしこまりました。では、お会計ですが……」

 店員さんはお会計が終わった後、包装に必要なものをカウンターの裏から取り出して、髪留めをあっという間に包み始めた。
 その最中、こんな話をした。

 この髪留めに使われているシオリザクラなんですけど、ありとあらゆる記憶を、様々な場所にとどめておくことができるらしいんですよ。
 どういうことか分からない、といった表情ですね。ご説明しますね。
 例えばこの桜の花びらを家の壁紙の材料に混ぜれば、そうして出来上がった壁紙の中に記憶をとどめておけますし、建物の壁に混ぜ込めば、壁に記憶をとどめることもできます。
 本に挟むしおりも、読み返したい場所に挿しておけば、いつでもそこを読み返せるようになります。この桜の名前の由来は、そのしおりから来ています。
 なので例えば、この髪留めを使えば、いつか年を重ねて、色んな記憶が曖昧になる日が来たとしても、大切な思い出や記憶を忘れずにとどめておけるかもしれませんよ。
 ……まあ、実際にそうなったことがないので分かりませんけどね。そうだったらいいなという、私の願望です。

 店員さんはそう締めくくったタイミングで、最後のリボンを結んだ。
「お待たせしました。こちら、お品物になります。彼女さん、喜んでくれるといいですね」
 受け取りながら答える。
「はい、ありがとうございます」
 僕はそうしながらも、頭の中はとても混乱していた。

 ***

 彼女の待つ家に帰宅した。リビングの扉を開けると、おかえり、と声がした。
 僕はその声に、ただいま。と返す。続けて言う。
「おみやげ~」先ほど包んでもらったものを、背中のほうからわざとらしく取り出すと、彼女は嬉しそうに身を乗りだす。
「え! 何それ? 気になる」
 僕がもったいぶっていると、彼女はより身を乗りだして
「くれ~」と手を伸ばす。僕はしゃがみこんで、彼女にそれを渡す。
 彼女は受け取ったそれをためつすがめつしながら、慎重に開封していく。
 その姿を眺めながら、過去のことを思い返す。

 彼女と僕は、結婚する予定だった。する直前だった。
 けれどそんな僕らのことを、彼女の両親は良く思っていなかった。
 あまり詳しく本人から聞いたことはなかったのだけれど、同棲していた彼女との会話の端々に、それらしき気配は感じていた。
 もともと彼女自身が、あまりよく思われていなかったらしい。きっかけは、両親が望んだ進学先に行かなかったからかも、とか、もしかしたらそれ以前にもちょくちょく思うところがあったのかも、とか。明確な理由は分からないけれど、それらしいきっかけ、と言われると、ぼちぼちあるかもしれないと彼女は話していた。そんな形でお茶を濁されてはいたけれど、きっと何とかなるだろう、と思っていた。
 現実はそう甘くなかった。
 僕と彼女が結婚しようとしていると知ってからの彼らは、今まで以上に人が変わってしまったみたいだ。と、彼女は話していた。
 通話後に、「実家からだった」と彼女が話した電話では、毎回、スマートフォンの向こうから凄まじい声量の罵声が聞こえてきた。もちろん、彼女は通話中の設定をスピーカーに変えたわけではなかったし、ましてや通話中の音量を上げるようなこともしてはいなかった。
 それでもこちらに聞こえる声というのは、一体どれほどのものなのかと思わざるを得なかった。
 加えて、彼女のスマートフォンには絶えず実家からの連絡が来るようになった。時間は問わない。電話に出ないと、何度も繰り返し呼び出し音が鳴る。出たら出たで、何時間にも及ぶ罵倒。かといって、電源を切っておくこともできない。
 着信拒否とかブロックしてもいいのでは? と持ち掛けたけれど、それはさすがに出来ないと苦々しい笑みを浮かべるばかり。
 僕からもやめるようにと話してみたけれど、「他人の家のことに首を突っ込むな」と、"他人"の部分を強調した言い方をされ、電話を切られた。
 そんな日々を繰り返すごとに、彼女の表情はみるみる変化していった。
 瞳の輝きは薄くぼやけていき、髪のつやも失せていった。食欲も減っていき、喉の骨がくっきり見えるようにまでなった。
 僕は首を突っ込むなと言われて以降も、何度か話し合いを試みたが、全て失敗に終わった。
 むしろ、相手に触れれば触れるほど、反発が強くなっていくようで、手が付けられなかった。
 そんなある日、異変は起こった。
 いつものようにリビングに向かうと、彼女は鼻歌を歌っている。
 ここ数日、ろくに笑えていなかったはずの彼女が、鼻歌を歌っている。
 体調は大丈夫なのだろうか。そっと、おはようと言いかけて、息が詰まった。全身が粟立つ。急に、心臓に向けてナイフを突きつけられたような感覚に襲われた。
 おかしい。なにかが、おかしい。
 強烈な違和感が、部屋全体を支配している。肩が震えているのに、それ以外の体の部位がどれも一切動かない。
 僕に気づいた彼女が振り返って言う。
「おはよう」
 晴れ渡った空のような笑顔。疲れ切っているはずの彼女の現状に、あまりにもそぐわない明るさを持った声。うまく噛み合っていない、線の細い声。

 ***

 解離性健忘症と診断された。分かりやすく言えば、強いストレスによって記憶の一部が抜け落ちてしまっている状態、という事らしい。さらにそのなかでも、持続性健忘。新しい記憶も忘れてしまうという事が分かった。
 彼女の場合、新しい記憶を忘れてしまう周期や、タイミングというのはよく分かっていない。けれどともかく、彼女から両親は引き離しておくべきだと判断した。彼女のスマートフォンは必要な連絡先だけ入ったものに変更した。もちろん、それは彼女自身に選んでもらった。当人も何が何だかよく分からないといった表情だったが、僕から滲んでいる、ただならぬ気配で察したのかもしれない。今の状況を映像で残して、私が忘れたときに見せて欲しいと言った。
 それ以来、僕と彼女は今日までふたりで生活を続けてきた。彼女の勤め先には連絡し、休養させてもらえることになった。幸い、日常生活を送るのに必要な記憶は無くなっていなかったため、身の回りのことは自分でできるようだった。
 同棲し始めて間もない頃の彼女の姿。記憶の中のそれが、今の彼女と重なる。
 今、胸の中にあるものは、桜の花が散った後、次の季節に切り替わるほんの数日のあいだに襲ってくる、空虚な感情に似ている。

 いつしか、そのぽっかりと空いた穴のような感情を塞ぐように、僕は彼女へプレゼントを贈るようになった。
 初めは花。花瓶も買ってきて食卓を彩る。
 毎朝、それを見るたびに喜んでくれる。
 ぬいぐるみ。
 入浴剤。
 キャンドル。
 アクセサリー。
 そうしているうち、もはや、何が正解なのか分からなくなってしまった。このまま、プレゼントを渡し続けることが、僕にとって、彼女にとって正しいことなのか。
 部屋の中に、澱のようにたまっていくプレゼント。本当は理解している。こんなことをしても意味は無いし、きっと彼女も喜びはしない。
 それでも僕はすがってしまう。そうしないと、僕が生きている意味が分からなくなってしまいそうだからだ。

 ***

 道の駅へ到着する前に遠出をしていたのは、日常から逃げ出してしまいたくなったからだ。世間一般の日常ではなくて、僕の目の前にある日常から。
 人間というのは、案外脆いものだ。
 この例え方だってそう。
 "人間というのは"ではなく、"僕は、案外脆い"という方が正しいはずなのに、"人間"と、大きな括りで話を進めようとしている時点で、僕は弱い。
 直接的に自分が死ぬ可能性がある出来事には、死に物狂いで対応するだろう。けれど、自分に直接影響のない出来事からは逃げてしまう。
 そういった日々の行動が、自分はそんな人間なのだと責め立ててくる。
 そんな中、いつもの癖で道の駅のお土産売り場に入った。普段は見かけないようなものがたくさん置いてあった。彼女へのプレゼントを探すために体が動く。
 それはあくまで消極的な理由からだった。

 ***

「綺麗な髪留め」
 彼女はそっと、それを光に透かしたりしながら眺めている。
「気に入った?」
 僕は尋ねる。ずっと欲しかったおもちゃに見とれているみたいな、純粋な瞳を眺めながら。
 彼女はこちらに向き直り、うん、めっちゃきれい。と言った。
 ああ、と頭の中に声が響く。
 やっぱり僕は、彼女のそばに居たいみたいだ。
 プレゼントをあげていたのは、それによって、何かしてあげているという気持ちになれるからだと、ずっと思っていた。
 けれど、本当はただ、こんな笑顔を見たかっただけだったのかもしれない。記憶が残らないのなら、せめて何か形に残るものをあげて喜んでもらえたらと。
 彼女はさっそく、髪留めで髪をまとめ始める。ずっとニコニコしている。
 綺麗にまとまった髪を左右に振りながら、どう? と尋ねてくる。
 シオリザクラの話を思い出す。
 この髪留めに、記憶をとどめておける力がなくても構わない。
 これから先、どんなふうになるか、僕自身分からないけれど、
 それでもいいと思える理由が今、目の前にある。
 僕は微笑んでから、彼女の質問に答える。
 ひとつ、息を吸い込んで──。

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