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赤い家

 美術館の通路を歩いていると、一角に真っ赤な家が建っているのを見つけた。玄関の前に、ご自由にどうぞ、と書かれている。
 ご自由にどうぞ、というのは、自由に休憩してもいい、という事だろうか? そのアメリカのお菓子にありそうなビビットな赤に圧倒されながらも扉を開けてみる。
 どこからかぐるる、と音がした。一体何の音だろう、と思いながら後ろ手で扉を閉める。何だか空気全体がうっすら甘い匂いがする。
 部屋の中には、家の外観に合わせたみたいに、それはそれは真っ赤な家具が並んでいる。まるで子供部屋の中みたいな。大きなテディベア。それも真っ赤で、いくつか浮かんでいる風船も同じ。机も、鉛筆も、消しゴムも。クレヨンも、本棚も。すべてが赤い。これが芸術というやつなのだろうか。分からない。
 部屋の中にはもう一つ扉がある。もしかしたらこの先にカフェみたいな場所があって、そこで一息つくことができるのかもしれない。
 ウキウキしながら、もう一枚の扉を開く。

「……なんだこれ」
 声が漏れた。恐怖から出た一言だった。
 部屋の中は先ほどと打って変わって、恐ろしいものだった。
 そこらじゅうに骨が転がっている。その形と大きさから推測するに、これは人間の──。
 ばくん。背後の扉が閉まる。ふり返ったときにはすでに手遅れだった。確かに先ほどまであったはずの扉が、ドアノブが、無くなっている。
「……い」
 再び声が漏れ、何かがぐちゃりと潰れる音。同時に視界が一気に暗く。

 その建物は、ゆっくりと大きな音を立てながら軋む。いただきます、と呟くような音。

***

 美術館の中を歩いていると、通路の隅に真っ赤な家が建っていた。
 ご自由にどうぞ、と、玄関先に書かれている。僕はそこに近づく。微かに甘い匂いがした。不思議に思って、その壁に触れてみる。
 ぬるり、と表面が剥がれた。手の表面についたそれの匂いを嗅いでみると、やはり甘い匂いがする。思い切ってなめてみる。
 あまい。何だこれ。クリームみたいな味がする。
 昔、絵本の読み聞かせで知った童話みたいだな、と思った。お菓子で出来た家。それを作品にしたみたいな感じなのだろうか? じゃあ、この玄関に書かれているご自由にどうぞ、というのは、自由に食べてもいいですよ、という事だろうか。
 ちょっと小腹がすいていたところだったから、ちょうどよかった。外壁をむしり取り、食べる。うん、悪くない。砕いたアーモンドが入っているのだろうか、食感が面白い。
 窓ガラスは飴細工。歪み一つない、素晴らしい技術。それをぺきょんと折って一口サイズにし、口に含む。あまい。おいしい。

 かなり食べてしまった。あとから来た人がこの作品を楽しめなくなるのは申し訳ない。このくらいにしておこう。最後に柱を飾るクリームを指先につけ、ひとなめしてから歩き出す。
 美術館をひとまわりして、休憩スペースへとやってきた。
 先程のお菓子の家の甘さが今になってずっしりと胃に来た。口の中の甘さも未だに取れない。
 休憩スペースでは軽食も楽しめるようになっていて、僕はメニューの中からコーヒーを注文する。口中の甘味を中和したい。

***

「お待たせしましたこちら、ブラックコーヒーのホットですね」
「ありがとうございます」
 お礼を言って受け取る。せっかくなので、先ほど見た展示のことを話してみることにした。
「お菓子の家の展示、すごかったですね。あれって毎日作り直してるんですかね?」
 僕の言葉を聞いて、店員さんは首を傾げる。一体何のことを言っているんだろう、という表情。
「えっと……?」
「そんな展示、ありましたか?」
 二人とも、それぞれ別の理由でえ? という表情になる。
 さっき見たはずのものが、急に現実かどうか分からなくなって、存在が揺らぎ始める。いや、ありましたよね? と言おうとして、急に悪寒がした。
 コーヒーを早めに飲み干し、先ほどお菓子の家があったはずの場所に行ってみた。

 そこには確かにあったはずのものが無くなっており、かわりに立入禁止の看板”だけ”が残っていた。看板の奥は何もない、ただの壁。
 館内において立入禁止の看板はここだけ。他の場所は大抵、スタッフオンリーと英語で書かれた看板が通路を遮っている。
 じゃあ、なんでここだけ立入禁止と書かれているんだろう。通路が続いているわけでもないのに。なんのために?
 考え込んでいると、どこからともなく声が聞こえてきた。立入禁止の看板のその奥? いや、違った。この声は自分の中から。腹の中から。何度も、何度も聞こえる。

 たすけて。助けて、ねえ。たすけて。

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