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手鎖心中(著:井上ひさし) 読書感想文

手鎖心中(文春文庫、1975)より

手鎖心中

時は江戸。売れない絵草紙の作者・戯作者志望の者たちの話。自然と仲間になった与七、清右衛門、太助、そして栄次郎。

「……戯作をやっていては喰えない。生業に励もう。しかし、戯作をやりたい。しかし、家の者がいい顔をしない、やはり生業に精を出そう。……しかし、なんとなくつまらん、やはり、戯作だ。……しかし、しかし、しかし……この〈しかし〉の間からなにか生れてくる。心が、正と負、本気と茶気、しかめっ面と笑い顔の間を往来するーー、そこから、いや、そこからだけ、戯作の味わいみたいなものが湧いてくるんじゃないか。ところが、栄次郎、おまえさんには〈しかし〉がない、心の両極を往来する正のものと負のものがない。つまりさ、おまえさんは仕合せすぎるのさ」

p.36 清右衛門の台詞より

栄次郎はこの清右衛門の言葉を聞いて一念発起する。
先輩戯作者の辿った破天荒な道をわざと無理くりでも真似していけば世間の人気者になれるのではと。

図に乗った栄次郎はわざと自分を親から勘当させるような茶番をしたり、愛妻とわざと大喧嘩の真似の茶番をしたり、どんどん絵草紙の作者として名をあげるための茶番を実行していく。

しかし、それを見ていた文七は思い悩む。
「文名を得るには、まず、先輩戯作者の生きた通りに生きてみるがいいと、栄次郎を茶番に乗せたことへの心の咎め」。
それと、机の上も地獄、座る座布団も地獄、ものを書く才などあるものかと頭のどこかで笑う閻魔大王の声を聞きながら脂汗を流しつつ、「これ以上は自分にはできない、という作を仕上げるほかに、王道がない」ということは栄次郎だって承知しているはず。それでも栄次郎が先輩のうわべのところだけを真似し続けるのは、「こっちの道も地獄へ通じていると、信じているからではないのか」と。
「他人をどこまでも笑わせようとするとどっちみち地獄へ行きつくのだろう」が、同じ戯作者の道を志している与七は、栄次郎を見ていると、喰うための仕事に精いっぱいとかこつけて地獄から逃げていることを思い知らされ辛くなっていく。

この話は悲喜劇だが、物書きになりたいと思った人、あるいはなるための努力をしたことがある人にとっては耳が痛いであろう。そして他人事と笑えず悲しいだろう。かくいう自分もその一人であり、戯作者志望の彼らの誰ものやること言うことに共感した。

こっちの道も地獄へ通じていると、信じているからではないのか。

この一文を読んだ時ゾクっとした。自分の中の栄次郎を批評された気がしたからである。
それと、

〈しかし〉の間からなにかが、戯作の味わいみたいなものが生まれてくる。

という言葉からは井上ひさし先生の強い実感のこもったものであり、後進への叱咤激励でもあるようにも思えた。

戯作者を目指す以上あるべきものを持っていない栄次郎。それを金の力による茶番でどうにかしたいのだが、そんな「仕合せすぎる」彼がどうなってしまうか……。その結末は是非読んでほしい。

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