あの友は私の心に生きていて実際小田原でも生きている           柴田葵『母の愛、僕のラブ』(書肆侃侃房、2019年)

※本文中に出てくる太字の言葉はすべて柴田さんの短歌です。

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 「サンタクロース」の制度が好きではない。小さな子どもにサンタクロースがいるとわざわざ嘘を教えて、その設定で何年か生きさせる。その子どもは適当な年齢になったらどこかで「サンタクロースってフィクションだったんだな」ということを理解する。私は小学校五年生の時にその事実を理解した。そう言うと「自分もそれぐらいだったよ」と言う人や「え?結構遅いね」という人がいる。サンタクロースが実在しないことを知ったきっかけは、親の方が、私がまだ大真面目にそれを信じているということを忘れていて、クリスマスプレゼントを直接手渡してきたことだった。それまで私は教室でも頑なにサンタクロースが実存することを主張して(それだけが原因ではもちろんないが)、周囲からかなり浮いていた。
 

 もし四十歳になってまだ真面目にサンタクロースが実在することを信じている人がいたらどうするのだろう。その人は「ちょっとおかしい人」として周囲に認定されるだろうか。八十歳になってもまだ信じていたらどうだろうか。そこまで行ったら、それは美しい話に変わるだろうか。
 この話を周囲にしても、共感を得られたことがない。いや、普通自然と気づくよ。そういうもんでしょ。と皆言う。でも、私はあの日、親の勘違いがなかったら、今でも自分がサンタクロースを信じているのではないかとちょっと(自分が)怖いのだ。「私にサンタクロースを信じさせて」と自分から親に頼む子どもはいないのに、なぜ人はあえてそんな行為をするのだろう。そう尋ねると「子どもが可愛いから」と答えが返ってくる。まっとうだな、と私は思う。


 サンタクロースの話はまあ、いい。個人の自由だし、実際そうやって今年も幸福な記憶が世界のあちこちに生まれたのであれば、それはそれでいいと思う。
 でもサンタクロースのように一方でAと教えて、同時にAが真実じゃないことも飲みこんで、だからといってAが嘘でもないということも理解して上手く器用に世界や社会に溶け込んでいく必要が人間の成長過程にはあると思う。


 例えば、嘘。だいたいの人は「嘘は絶対については駄目。」と子どもの頃は教育されると思う。でも人生の途中で嘘のつき方や嘘をつくべきタイミングや嘘と自覚せずに嘘をつく方法とかそういうものも子どもはどこかで身につけざるを得ない。もしも本当に全く嘘をつかない人がいたら、その人が大人になった世界(社会)で平穏無事に生きている姿を想像することができない。


 例えば、夢。大きな夢を持ちなさいと大人が子どもに言う。でもどこかのタイミングでは現実を見て、自分から適切で安心な人生を選んでほしいと思う。いや、放っておいたって子どもは自分から安全な道を選ぶ。「それがあなたの選んだ道なら応援するよ」本心から大人はそう言う。
 今までここに挙げた話を、それが欺瞞だとか悪だとか言いたいわけではない。例外も各種あるだろうし、バランスの問題なんだろうな、と思う。でも少なくともこの世の価値にはあらゆるところに二面性が満ちていて、上手く理解することに躓く子どもがいたって、それはそれで普通だと思う。

海は必ず海だからいい目を閉じて耳を閉じても海だとわかる

 この本の感想をこんな話から始めたのは、この歌集に、この世界(だんだん構成要素がほとんど社会に取り込まれてしまう世界)の理屈に真正面から挑む主人公が登場するからだ。

この靴はわたしじゃない誰かのものかもしれないな、少しきつい
手をつないで 正しくは手袋と手袋をつないで ツナ缶を買って海へ
浅瀬には貝殻さえない冬の海このまま待てば夏になる海
ここは海 とても砂 泡 裸足だとときどきなにかが刺さって痛い

 一首目、普通に生活していると、間違えて人の靴を履くことは少ない。履く前に、目で見れば自分のものじゃないと分かるからだ。酔っぱらいはそういう間違いを普通にする。でも、この歌の作中主体には、酔っぱらっている感じもしない。極めて冷静だ。そして少し異様だ。自分のものじゃない靴を履いたとき、普通はもっと反射的に「間違えた!」と思って、その靴を脱いでしまうように思う。それをずっとただ感知することに徹して、「少しきつい」という事実が消えないように言葉に残す。二首目、「手をつないで」と一度認識したことを「正しくは手袋と手袋をつないで」ともう一度執念深いほど丁寧に、言い換える。この世界を正確に認知することを志向する。話は逸れるが、歌に登場するアイテムとして「ツナ缶」を選ぶということは、歌の中に存在する時間や関係性を「ツナ缶」が象徴するということだ。ツナ缶はロマンチックなものではなく、きどってなくて安っぽくて寛いでいて、いいなと思う。
 三首目、四首目にも目の前にあるものを精度を高めて認知をしようとする作中主体の姿が映る。「このまま待てば夏になる海」当たり前のことを言葉にする行為は、それが当たり前だという前提に立てない者の、この世界と自己との重なりがその部分にしか見いだせないという精一杯の呟きなのではないかと思う。

あかるくて起きる ひとりで暮らしても延々寝かせてくれない夏め

 ひとりきりの部屋に引きこもっている時は、数少ない世界のルールとは無関係でいられる時間だ。でも朝が来ると強い光が差して、目が覚めた私は今日も正気だ。この歌の中では「夏め」と一見嫌がってみせても、自分を揺り起してくれた夏を好ましく思う気持ちがあると感じる。

限りなくピクトグラムに似るひとと歩けばああああたらしい朝
教師より背が高くとも少年は少年だから短パンを履く
安全のしおりにあらゆる災難の絵がありみんな長袖でした
 

 海や夏と言った自然界のものと接する時より、より濃厚な「社会」に直面する時の方が、苦しさは増す。一首目、人間がほとんど「記号化」する社会。誰だって自分勝手なことをされるのは嫌だから、他人への思いやりをもって、協調する。摩擦を減らす。そうできない人を「変わった人」と遮断する。そうして誰と誰が入れ替わっても構わない「記号」になる。あなただけじゃない、私もとっくにそうなっている。二首目、年齢や「少年」という枠組みに反して身体の成長は誰にもコントロールできない。普通にしているのに、教室の中でうっすら異様な存在になっている者がいる。三首目、あらゆる災難が私に降りかかってきませんように。そう祈り、安全のしおりに目を通す。安全のしおりには考え得る限りの危険が全て書いてある。これを読めば、正しく、幸せに誰でもなれる。みんなで同じ服を着て、みんなで同じ選択肢を選んで。そうして出来あがるのが記号人間だとしても、自分には関係ないとしおりをゴミ箱に捨て去ることも難しい。


ババ抜きのババだけ光って見える目を持ってしまった子のさみしさだ

 普通こういう時って何て言うのが正しいの。そう聞くと、正しいとかそういうんじゃなくて、普通はそんなこと考えないよ。と困った顔で返されたことがある。ルールに沿うように、はみ出さないように、そうやって息を潜めてきたのに、それを「ルール」と認識することがもう普通ではない、らしい。
 ババ抜きのババが光って見えるなら、絶対にそのゲームに勝利することができる。最強だ。でも、その子どもにはババ抜きの楽しさが永遠に分からない。周囲の子も、その子がいるだけでババ抜きを楽しめなくなる。ゲームは楽しむことが目的だから、最強の存在は、一気に無価値な存在になる。自分が見えているということを、隠して上手く演技をしよう。そして笑っている友達の輪に混ざり合おう。私ならそう思う。楽しさが分からないのは諦めて、ただ目の前にあるものを共有したいと願って。


がんばれよ姉さん僕も熱心に生きてきみより歳上になる 
仕事仕事四日おやすみぐっすりとねむってビルより大きくなあれ 
選ぶとか選べないとかぽぽぽぽん常に何かを踏んで生きるの
きみが逃げるための舟なら僕にまかせてもらいたい藍色にする


 作中主体は、ただ諦める存在ではない。それが社会からはみ出すことと知っていても、それでも体当たりして、何かを前に動かしたり、何かを守ったりする。
 一首目、弟は永遠に姉より年上にはなれないというのは、社会のルール。熱心に生きれば年齢も超えられるというのが、心のルール。実際、私は昔、小学校低学年のいとこから、僕の学校は一学年二組で、お姉ちゃんは一学年四組あるから、そのうち僕、お姉ちゃんの学年を越すね、と嬉しそうに言われて、説明に手間取ったことがあった。この「僕」は私のいとこのように本当に勘違いしているのではない。社会のルールをとっくに理解している存在だ。熱心に生きる、という率直なフレーズには立ち止まるものがある。胸が打たれる。思考を振り払うように「熱心に生きる」。生きること以外の余計なことは捨てて「熱心に生きる」。人間が、実際には熱心に生きられないのはなぜなんだろう。二句目の「姉さん」から四句目の「きみ」への言い変えにも、ふと立ち止まる感覚がある。姉さんときみは、完全に一致するのではなく、もしくは姉さん、きみと呼びかける人物もまた完全に一致するのではないように思う。姉さんと呼びかけた時は確かに年下だけど、その人を「きみ」と呼ぶときには、本当にもう年上になってしまっているんじゃないかと思い至る。例えば、私が、私自身を「きみ」と呼ぶ時のように。
 二首目、疲れ果てた現実を言葉の自由さにより救おうとする。三首目も、複雑な状況を力技で反転させる。四首目、「逃げる」という現実にとっては、舟の色よりも、その舟がどのぐらい丈夫かとかどのくらいの積載量かとかどれぐらいスピードが出てどこまで行けるかということが重要だ。そんなことは分かっている。何となく、この言葉を発した人物も「まかせてもらいたい」と言った辺りまでは、常識的に必要な情報を頭の中で全部考えた上で「まかせてもらいたい」という言葉を発したような気がする。思考そのものが、言葉と同じ速度で一首の中に定着しているからだ。だからこそ、いざ、あなたが遠くへ行けるように祈る一瞬に、「藍色にする」という思考が生れた、だから書いた。ただそれだけのことだと分かる。それは、正確さへの執念と矛盾しない。正確さを志向するからこそ、そうなるのだ。短歌に対するこの体当たり自体が、この歌の魅力だと思う。
 

落ちているものはごみだよごみ袋 きみにはきれいな恋人がいて
パンはパンでも食べられないパンなんかない大人ふたりで朝餉を分ける
呼吸してたまに無呼吸みてごらん百合が記憶の川をゆくから

 先ほどから、一首の意味内容について書いてきたが、レトリックとしても、同じ言葉の繰り返しや「A/Aではない」のように関連する単語を並列する歌が多いのも上述の特徴に繋がっていると思う。「ごみだよ」と一度言った後、もう一度最初から自分の思考に触り直して「ごみ袋」だと確かめる。「きれいな恋人」という雑さは相手をあえて遠くに置くために選ばれたフレーズだ。落ちているとして、ごみだとして、ここにいるのは、私の方だ。
「パンはパンでも」(食べられないパンはなーんだ?)という子どもが好むお決まりのクイズを途中まで思って、「食べられないパンなんかない」とツッコミを入れるように分断する。「呼吸して」と言った途端に「たまに無呼吸」とその反対側まで言及せずにはいられない。その粘りが思わぬ詩的飛躍を呼ぶ。

おい、ごみを捨てんじゃねえよとサーファーが言い捨ててゆく わたしらのこと
あの友は私の心に生きていて実際小田原でも生きている
産むことと死ぬこと生きることぜんぶ眩しい回転寿司かもしれず

 意識の飛躍/分断は、次のような歌では、さらに面白い効果を生んでいる。一首目、四句目までは、主体が言われた台詞だ。その台詞を受けて、主体は真面目に考えたのだと思う。一字空けがあって「わたしらのこと」と言われると、わたしらに言ったということとわたしらがごみそのものかもしれないという可能性が二重写しになる。「わたしら」がどういう存在か、わたしら自体が「わたしら」をどう認識しているかがふっと反射する。わたし、個人ではなく「わたしら」と呼ぶなんかしらの関係性がそこにあることもこの像を補強する。
 二首目は、個人的に歌集の中で一番好きな歌だ。こういう一首が詠めたら、本当にいいだろうなあと羨ましくなる一首だ。まず、心がある。時の流れの中で遠くなった人間関係でも、心の中には確実にあの友がいる。生きている。それから、はたと気づく。実際問題、小田原でも、あの友は生きている。いくらでも会おうと思えば会える友達と、なぜかお互い会おうとはしない不思議がこの世にはあると思う。小田原でもの「も」がいい。小田原で生きている友と直接会ったとしても、心の友はそれとは別に心の中でやっぱり生きている。実際、という提示の仕方にはユーモアもある、真面目さもある、それが一首を魅力的にさせている。
 三首目は、関連する単語を並列する短歌の一首だが、産むこと、というその瞬間の思考の起点があり、対義語の死ぬこと、と来て、それはもう生きること全部!と認識を総括して、「まぶしい回転寿司かもしれず」という直観の規定を提示する。まぶしいには肯定的なイメージを感じる。回転寿司については、後でこの歌集の中で飲食に関する意味合いを考えたいと思うが、くるくる回るところが輪廻に重なり、でも寿司は全部既に死んでいて、安価な商業主義の象徴的な存在でもあるから、分かる、という気持ちと何だか怖い、という気持ちが同時に湧く。回転寿司という具体物の選択が、全部言葉で説明するのでは追いつけない意味を生む。


湯気のなか開花する貝それはもう正しく降参して勝ち抜くの

 全体を通して、作中主体は、世界の姿を見通す目を持ってしまった子どものようで、そのためにこそ世界から疎外されることもあり、だからこそその世界を正確に把握しようという志向性を持っている。でも、ただ外側から納得できないとそれを眺めるだけじゃなくて、時には二重性を持つ社会のルールを受け入れる柔軟さやユーモア、それでもはみ出すものを守ろうとする強かさ、正しく降参して勝ち抜くという意思と知恵を備え持っている。つまり、主体は、正しい大人、なのかもしれないと思う。


てづくりをする信念のママの子に産まれて着色されない僕ら
僕らはママの健全なスヌーピーできるだけ死なないから撫でて
外食はおいしい だって産業になるほどおいしい 外食がすき 
【山芋をほのほの痒がる子の口を拭うわたしはいつでも味方】
僕はもう他に女ができたから男もできたから母さんの余地はないから 
ハムを切る この薄桃の正円はただしい食品でしょうか でしょう 
汚れから私を護るエプロンをラブと名付けてラブが汚れる

 ここまでずっと「世界」とか「社会」とか曖昧に言葉を使っていた。改めて考えると、人を疎外する、そのかたまりを何と呼ぶのがいいのか、正確な定義付けに困る。かたまりは人の集合体で、いつでもひとりひとりバラバラにすることもできる。ルールと言っても、明文化されているわけでもなく、はじかれていると思っているのも自分だけで、実はそうでもないのかもしれない。中心にいると私が感じる人だって本人の内心では同じようにはじかれていると感じていのかもしれない。かたまりには主語がない。


 ただ、このかたまりの真逆にいる存在は「お母さん」なのかもしれないと私はこの歌集を読みながら考えた。家庭というのは最小限の人間のかたまりだ。お母さんというのは、私にサンタクロースを正しく信じさせてくれた人のことだ。私に本気で嘘をついてはいけないと教えてくれた人だ。いつも味方でいてくれた人だ。いつだって一番正しい人のことだ。皮肉で言っているのではない。皮肉なら、簡単なのだけど、愛は本物で、【いつでも味方】でいてくれるのも本当で、母というある人間の価値観を丸ごと受け止めて、人は社会への一歩を踏み出さなければいけない。お母さんが「嘘をついてはいけません」と言う。でも、現実に嘘をつかなきゃいけない場面に直面する。「嘘をついてはいけない」と言ったお母さんを嘘つきだと思うか、嘘をつくという罪を犯すか、子どもには二択しかない。
 「母の愛、僕のラブ」の連作の中には、食品にまつわる歌が複数登場する。何を食べるかということは家庭内の根源的ルール、母の愛そのものなのだとこの歌集を読んで気がついた。「手づくりをする信念」が子どもに「できるだけ死なないから撫でて」という言葉を呟かせる。「外食」(=毒を持つ社会とバランスを取ること)は身体には悪い。でも、外食で人は死にはしない。そのチープさが、人の心を軽くすることもある。【いつでも味方】と囁く母は、外食がすきという子のつぶやきに耳を傾けてくれるだろうか。五首目、字余りの切迫感。六首目、口に入れるものに「正しさ」を求める。そのこと自体が、母という存在への、反射であるようにも思う。その食品を、今度は自分の子どもが口にすることもあるだろう。自分の選択が絶対的に正しいと思えば、(手づくりを選ぼうが外食を選ぼうが)それは母と同じ行為を選んだことになる。
 近年「毒親」という言葉も一般化したが、言葉を定義付けすると、そこから洩れる個々の現実や感情が必ず生じる。家族のくだりについて、私は自分に引きつけ過ぎた読みをしているかもしれない。

汚れから私を護るエプロンをラブと名付けてラブが汚れる

 最後の歌、自分をわずかに守ってくれる一枚の布に名前をつける。主体にとって本当に大切なことはエプロンではなく、それを名づけること、言葉を発することそのものではないかと感じる(つまり短歌をつくること)。一番大切なことを選んでも、そうすることがその大切なものを汚してしまうことも知っている。でも、それを、言葉にするのだ。何を選んでも、汚れてしまう日々を、その汚れを引きうける覚悟を持って、軽くしぶとく生き抜くために。

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