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横顔

 佐那は美しい子どもだった。どこにでもあるような地方都市の平凡な中流階級の家庭に生まれて、頼りがいのある父親と優しい母親から十分な愛情を注がれて、佐那は育った。


 自分が他の子どもたちと違うと気づいたのは幼稚園の時だった。担任のまあ子先生はいつもお昼寝の時間になると園児たちの周りをゆっくり歩きながら子守唄を歌った。そして皆が寝静まる頃、まあ子先生は佐那の隣に腰掛けて、ゆっくりと佐那の背中をさするのだった。まあ子先生は佐那にお遊戯会のシンデレラの役やクリスマス会で一番大きなケーキをくれたりした。佐那を特別扱いしていることをまあ子先生自身が気づいていないようだったから、佐那もまあ子先生に合わせて何も知らないふりをして、無邪気にまあ子先生に懐いてみせた。


 小学校に入っても、佐那は特別に騒いだり、勉強をがんばったりしなくても、いつも沢山の友達に囲まれていた。仲良しの由梨ちゃんと南ちゃんが佐那を取り合って喧嘩になってしまったことがあり、いつまでも口を聞かないふたりに、佐那は心を痛めたりした。その後も佐那には沢山の友達が出来て、いつの間にか由梨ちゃんとも南ちゃんともつき合いもなくなってしまった。


 小学四年生の頃、クラスに山本さんという女の子がいた。太った身体つきと何を言っても俯いて答えない気弱な性格が原因でクラスメートたちから幼稚ないじめを受けていた。休み時間になると山本さんはいつも机に向かって、熱心に何かの絵を描いていた。その様子が余計にクラスメートたちのいじめを増長させた。この頃の年齢には、子どもたちは皆、人間には価値のある人間と価値がない人間がいるということを完全に理解する。佐那は自分が価値のある側の人間だということを当然知っていた。しかしそのことに佐那はそこはかとなく苛立ちを感じていた。佐那は、価値がある人間である以上に、価値を決める人間でいたいと考えていた。
「すごく上手だね」
ある日、佐那は山本さんのノートを覗き込んで言った。教室が静まり返って、後ろを振り向かなくとも、皆が佐那の声のする方に注意を向けていることが分かった。
「アニメか何かのイラストなの」
佐那が微笑みを作ると、山本さんは驚いたように顔を上げて、佐那を見た。そしてお猿さんのような真っ赤な顔をして、うん、ともううん、とも聞き取れない声を小さく発した。佐那は山本さんのノートを手に取って、ページをパラパラ捲った。それでもそれ以上何も言わない山本さんに急に興味が失せて、佐那は山本さんの席を離れた。
 

 次の日からジャンケンで負けた子が山本さんに声をかけるという罰ゲームが男の子たちの中で流行り出した。
「うげー!」教室で輪を作った男子たちが、大げさな声を上げて、ゲームを盛り上げる。そのゲームに参加する人は日に日に増えて、何人かの女の子もその輪に加わるようになった。皆楽しそうにはしゃいでいた。山本さんは相変わらずお猿さんの顔で俯くだけで、声を発しないのだった。
 

 中学校の入学式の日、学校へ行くと、上級生たちが佐那のクラスに押しかけて人だかりを作った。佐那がそちらを振り向くと、その人だかりからひと際大きな歓声が上がった。担任の体育教師が上級生たちを大声で叱る。また歓声を上げて、上級生たちが走り去っていく。佐那が廊下を歩くとき、すれ違う女生徒が、あんな大人っぽい子はじめて見た、と小さな声で囁き合った。教科書を忘れて、隣の席の同級生に教科書を見せてほしいと頼むと、その子が喜んでいることがニキビだらけの顔から嫌でも伝わってきたので、佐那はその後も、二、三回教科書を忘れたふりをしてあげた。一学期が終わる頃、野球部のキャプテンをしている三年生の男子生徒から初めての告白を受けた。学校で一番人気の精悍な顔つきをした男子生徒だった。その告白を断ると、次の日にはその噂が学校中に広まった。告白を断ったのは大した理由ではなく、愛を告げるその男子生徒のうっすらヒゲが生えた口もとを見ていたら、何だかお猿さんに似ているように思えて、佐那の気持ちがすっかり白けてしまったからだった。教室に並ぶ子どもたちは急激に成長する身体と心を持て余して、皆アンバランスで強烈な嫌な匂いを発していた。佐那は内心の苛立ちを隠して、教室の中心で微笑み続けた。佐那の生まれ育った田舎町では、周囲にはいつも詰まらないものしかなかった。その詰まらないものから価値を与えられること。それがいつも佐那の癇に障るのだった。
 

 佐那は東京に出たいと強く望むようになった。東京に出てモデルやタレントの仕事がしたい。お気に入りのファッション雑誌やテレビの歌番組を食い入るように観るようになった。しかし佐那の平凡な幸せを望む両親が、断固として反対の姿勢を崩さなかった。佐那はせめて東京の大学に進学したいと主張した。しかし取り立てて勉強が得意ではなく受験勉強に身も入らなかった佐那は受験にことごとく失敗し、東京の大学ではなく、地元の短期大学に入学することになった。

 その短期大学を卒業すると、佐那は都心に本社のある大企業に一般職として就職した。佐那の大学からその企業に就職することは難しいと学生課の担当者は言っていた。それでも佐那が面接に行くとするすると話は進み、あっさりと佐那はその会社に就職が決まった。就職が決まった会社名を聞いた両親は、さすがに佐那が上京することを了承せざるを得なかった。佐那の夢が叶ったのである。就職してすぐに、佐那は職場で知り合った三歳年上の男性社員と恋に落ちた。一年後には夜景の見えるレストランでプロポーズを受けて、とんとん拍子で会社は寿退することになった。抱えきれないほどの花束と祝福を受けて、佐那はその会社を去った。そして、その後すぐに妊娠をして、入籍のちょうど一年後に子どもを産んだ。

 男は、佐那の夫となるにふさわしい美しく有能な男だった。何事にもアグレッシブで営業成績はいつもトップ。よく働き、よく遊び、よく笑う。先輩から信頼され後輩からは慕われていた。男は、社会を上手く渡っていく知性と敵を作らない可愛げを身につけていた。その男が笑うといつも、白い歯と決して誇示するのではなく彼の身の内から自然と湧き出るような自信がきらきらと輝いて見えた。趣味はヨットとゴルフ。実家は実業家の家系の二男で、両親と家族を大切にし、何よりも妻である佐那を大切にしてくれた。男の頼りがいのある背中が佐那は何よりも好きだった。こうしていることが何よりも私たちにふさわしい、という思いを男は佐那にくれた。男は佐那を心から愛していた。愛されることが余計に佐那を輝かせてくれた。沢山のものから選ばれて選んで私たちは一緒になった。そして愛の結晶である我が子を授かった。息子を初めてこの手に抱いた時、佐那は誇らしい気持ちでいっぱいになった。
 

 三人の幸福な生活は、長続きはしなかった。後から考えると、少しずつ佐那の家庭は壊れていったのだと思う。しかし、佐那はそのことに全く気付いていなかった。馴れない子育てに追われて、生活に追われて、佐那は毎日必死だった。ある日、いつものように些細な小言を言いながら、男との間に全く会話がなくなっていることに唐突に気がついた。声をかけても、男は壊れたおもちゃのようにうんともすんとも反応しない。気がつけば、男の顔からは以前のような自信に満ちた表情は消えていた。永遠に続いていく平凡な日常にすっかり飽きてしまった男が、ただ目の前に座り込んでいた。佐那は男に何度も語りかけた。何度も泣いて訴えた。男は多くを語らなかった。佐那を責めることもなかった。ただ押し黙って沈鬱な表情を浮かべるだけだった。浮気を疑って素行調査を依頼したが、その事実はどこにもなかった。淀んだ男の目に映る自分を思うと、佐那は心の底から惨めな気持ちになった。息子が小学校に上がる年に、二人の離婚が正式に成立し、佐那は息子を連れて実家に帰ることになった。
 

 父親の知り合いのツテを頼って、佐那は地元の中堅企業の事務職として働き出した。その時期を佐那はひどく落ち込み、ほとんど鬱病に近い状態で過ごした。しかし、生活は相変わらず続き、佐那は子どものために生きなければならなかった。自分がいなければ生きていけない存在がいる。そのことが壊れそうな佐那の心を支えてくれた。
 新しい生活の中で、佐那にはもうひとつ大切なものが出来た。馴れない仕事をこなす日々の中で、初めて親友と呼べる女友達ができたのだ。彼女は佐那より四つ年上で、女性ながら営業の仕事をバリバリとこなすキャリアウーマンだった。彼女には公務員の旦那さんと佐那の息子と同じ年になるひとり娘がいた。おにぎりのような形の顔に、いつも人の良い笑みを浮かべている。彼女の名前は真鍋、と言ったが、誰もが親しみを込めて、鍋ちゃん、鍋ちゃんと彼女を呼んだ。会社で佐那を囲んでささやかな歓迎会が開かれたとき、隣り合った彼女が、
「私、頻尿で。」
と急に言い出し、真面目な口調で自分の頻尿エピソードを語り出した。本人は面白いことを言おうとしているわけではないのだが、その真面目な口調が余計に笑いを誘い、周囲の皆は、大爆笑をしながら彼女の話を聞いていた。馴れない職場で何かと緊張することが多かった佐那は、その時、彼女のあまりにも自然体の雰囲気につられて、心から笑ってしまった。笑う佐那を見て、彼女は本当に嬉しそうに微笑んだ。それは今まで佐那が散々周囲の人から向けられていた、佐那の気を引こうとしてこびへつらうための笑顔とは全く違っていた。佐那はその時、自分自身の変化に気がついた。それはつらい経験をしたことで、人の心の痛みを分かるようになった自分自身だった。佐那は彼女に自然と心を開いて、これまでのこと、これからの生活への不安も打ち明けるようになった。

 仕事も子育ても上手く行かないことも多かった。彼女は子どものいる佐那をいつも気にかけてくれた。分からないことを教えてくれて、佐那が残業をせずに帰れるように細やかな気づかいをいつもしてくれた。三十歳になるのに社会人経験の浅い佐那を、時には叱り時には諭し、決して身捨てずに真摯に付き合ってくれた。内勤でアシスタント業務が主の佐那は、少しでも営業職の彼女が働きやすいように自分にできることを心がけて仕事に励んだ。そうすることで周囲からも「気が利く」と褒められるようになった。努力すればするだけ成果が返ってくる仕事を、佐那は面白く感じはじめていた。
金曜日の夜は時々、彼女や会社の人たちと誘い合って飲みに出かけることがあった。お互い子育て中ではあるが、彼女は大の酒飲みで、旦那さんに子どもを預けて飲み明かすのがたまの息抜きなのだといつも言った。
「それが私たち夫婦の円満の秘訣だって、旦那もよく分かっているの」
 そう言って、彼女は豪快に笑った。彼女が声をかければ、職場の誰もが喜んで居酒屋について来た。そんな時は佐那も両親に子どもを預けて、彼女と一緒にお酒を飲んだ。佐那は彼女に鍛えられて、ずいぶんとお酒が強くなった。佐那がお酒を飲むと、誰もが歓声を上げてそれを喜んだ。会社の人ともずいぶん仲良くなった。昔はこんな風に人と打ち解けることなどなかった佐那だ。失うものがあれば得るものがある。人生は人と人との繋がりなのだと佐那は思った。

 そしてもうひとつ気付いたことがあった。佐那がそこにいるだけで、会社は明るく華やいだ雰囲気になる。それを誰もが喜んでいる。そして、今の佐那には人が心を開く隙があった。佐那の関心を引きたい人が大勢いることが、振り向かなくとも分かった。
佐那は、いまも変わらず、美しかった。
「あー、直射日光は絶対に受けらんない」
 佐那はわざとおどけた口調で、職場の大きな窓のブラインドを閉める。そうすると佐那の声に顔を上げた人々が、楽しそうに声をあげて笑う。
「佐那さん、全然そんなこと気にする必要ないですよ」
 隣の席の男性社員が大きな声で佐那に向かって言う。佐那は心から嬉しいという表情を作って「そんなことないですよー」と顔の前で手を振る。
 それから瞬く間に、四年ほどの時間が経過した。いつの間にか佐那は職場でもベテランの扱いを受けるようになってきた。若いアルバイトやパートの子たちに仕事を教えることも増えた。課長職に昇進した彼女は本当に忙しいようで、中々飲みに行く機会が持てなくなった。しかし社内で会えば立ち話をし、お互いの近況を伝え合った。事務職員として会社に就職した佐那は、これから長くこの会社で働いても、彼女のような出世はしないし、同じ仕事をずっと繰り返していくだけだった。このままでいいのだろうかと考えることはなかった。子どもの世話と目の前の仕事。佐那の生活は十分に充実していた。
 

 四年間の間に、佐那はふたりの男性から告白を受けた。ひとりは取引先の営業マンで、仕事上のやり取りをしているうちに食事に誘われるようになり、何度かご飯を食べた後に結婚を前提にと交際を申し込まれた。もう一人は息子が通っているプールのコーチだった。十歳ほど年下のその男性が佐那のことを特別に気にしていることは分かっていたが、出会って一年ほど経った頃に、高校生のように思いを伝えられた。
 その手の男性と会うと、佐那はどこかで怒りを感じるようになっていた。特別に思われることは悪い気はしない。会うと楽しく、佐那には大人の会話ができる機会も貴重だった。職場ではわざとおどけるような素振りまでして、周囲の人間たちの関心を自分に向けるように仕向けることもあった。しかし、いざ一対一の関係性の中で、彼らが盲目に佐那に愛を囁くとき、佐那には彼らが何も考えていない人間に思えた。彼らが佐那の人生への責任をどのように取ってくれるのだろうか。気安く佐那におもねってくる男性たちに、佐那は嫌悪感を抱いた。
「今日も係長の口癖でたね」
 更衣室で佐那は同僚の女の子に声をかける。その子が、
「俺が悪いんかー、ですね」
 大げさに顔を歪めて、係長の物まねをする。それを見て、佐那は笑う。職場には良い人も多いが、変わり者や独善的な考え方の人や仕事のできない人も一定数いる。そんな人たちに巻き込まれるのが佐那は何より嫌だった。
 

 その頃、ささやかな出来事がふたつあった。ひとつは前の夫が再婚したこと。息子の養育の件で時々連絡を取り合う夫から、電話口で直接報告を受けた。相手は佐那と同期入社の女性社員だそうだ。その名前を聞いて、何度も思い出そうとしたが、そんな女がいたことも、顔も名前も佐那には思い出すことができなかった。あの壊れてしまった男が、どうしてまた家庭を持つことができるだろう。おもしろい冗談を聞いた気がして、佐那は電話口で声をたてて笑った。
 もうひとつは、山本さんのことだった。昼休みに更衣室で若い同僚たちが何人かで雑誌を読んでいた。「それ、何?」と後ろから佐那も雑誌を覗き込んだ。
「こっちが地元の人らしいんですよ。こんな田舎からここまで成功するなんて、すごいですよねえ」
 同僚ははしゃいだ声を上げて言った。
 自信に満ち溢れた笑顔で雑誌に写っている女の人を、佐那は初め、自分の知っている人とは思えなかった。新進気鋭の人気CMプランナーとして、数ページに渡る特集記事が組まれている。そこに挙げられた複数のCMはどれも佐那が毎日目にしているものだった。そのうちのひとつは優れたCM作品に贈られる海外の権威ある賞を受賞したと書かれている。芸大を出て、ひょんなことからCM制作の道に入ったというエピソードが記事の中でおもしろおかしく語られていた。「どんな子ども時代でしたか」という問いかけに、「学校に馴染めない子どもでしたよ(笑)」とその女は答えていた。写真の中の満ち足りて笑う女と小学校の教室で猿のような顔をして俯いていた山本さんが急激に結びついた。意味不明な絵を描いて、みんなに馬鹿にされていた山本さん。海外の権威ある賞を受賞した山本さん。言われてみれば写真の女にはどことなく当時の面影が残っていたが、垢ぬけて洗練された格好と内から滲み出るような自信が、ふたりを全く別人のように見せていた。「学校に馴染めない子どもでしたよ(笑)」という言葉も、こうなると彼女の特別な才能を証明するエピソードのひとつになっているのが何とも不思議だった。
 佐那はその雑誌を奪い取ると、力任せに写真の女の顔を破った。雑誌を見ていた同僚はあっけに取られて、口をあけて佐那を見ていた。佐那は更衣室から出ると、トイレの個室にこもって、スマートフォンで山本さんのことを検索した。山本さんのSNSがすぐに出てくる。芸能人と一緒に写真に納まったり、華やかな場所を行き来する山本さんの生活がそこにある。さらに検索を重ねて山本さんの事務所のメールアドレスに行きついた佐那は、そこへ一通のメールを送った。「同級生として、あなたの活躍が誇りです。一言応援したくてメールを送ります」自分の名前と出身校名を添えた。
 いくら待っても、山本さんからは何の返信もなかった。
 

 その後も、時間は驚くべき速度で過ぎて行ったが、不思議と佐那の容姿は衰えないどころか益々美しさを増していった。「どんなケアをしてるんですか」と若い女性たちからは繰り返し聞かれたが、「化粧を落とすのを忘れて寝ることもあるのよ」と佐那は笑って返した。「本当の美人は年を取るごとに美しさを増すものなんだよ」酒の席で会社の上役が訳知り顔で佐那を見て頷いていた。
 

 この世界では、理不尽なことがいつも起こる。価値のない人や間違った人が誰からも罰を受けず平然と生きている。真面目に努力する人が損をする。
 佐那は正しい人間でありたかった。例えば、そう、佐那の親友である鍋ちゃんのような人間に。弱い人に寄り添い、責任感を持って働き、周囲に優しくできる人間でありたい。
 

 気がつけば事務職では、佐那は一番の古株になっていた。社交的で社内に知り合いも多い。特に会社の上役たちには気に入られていて、会合にわざわざ佐那が呼ばれることもあった。顔を出した会では、皆佐那がいるだけで場が華やぐと喜び、佐那の存在は上役たちを喜ばせた。
 人間関係さえよければ、どんな大変な仕事でも乗り越えられるのだ。長い時間働いて、佐那はつくづくそのことを痛感した。しかし必ずその空気を破る存在が会社にはいた。無責任な言動を繰り返す上司や、我関せずの新入社員。仕事量の不公平が是正されなかったり、不当な指示が急に入ったり。佐那は正義感が強く、真っすぐな気性のせいで、それらのことを見逃すことができなかった。
 これって少しおかしいよね。佐那がそう言うと、佐那の周囲にいる同僚たちはこぞって佐那の話に頷いた。皆同じように思ってはいたが、口に出せずにいたのだと口ぐちに言う。あの人、ひとりだけ仕事量が少ないよね。入社して半年のパート職員について佐那が言う。
「こないだ、仕事を頼んだら、きつい顔して断られたのよ」
佐那の話に同調して、同僚がおどけた口調で話を引き継ぐ。
「へー、裏表のある子なんだね」
 次から次へと彼女に対する不満が口ぐちに溢れでてくる。
 空気というものは伝染する速度が極めて速い。あっと言う間にそれは広がって、彼女が何か発言するたびに、皆顔を見合わせて笑いを噛み殺したり、おどけて茶化すようになった。彼女はその空気に急におどおどするようになり、失敗を繰り返すようになった。失敗をすると皆の前で長時間係長に叱られた。それを見て、皆はまた笑いを噛み殺した。
 しばらくして、彼女は会社に来なくなった。原因不明の体調不良で退職することになったと係長から説明があった。急な欠員により、佐那や同僚たちはそのフォローを余議なくされた。はじめからいい加減な子だったもんね。皆は口ぐちに言った。長い目で見たら、辞めてよかったんだよ。
 

 久しぶりに鍋ちゃんからランチのお誘いのメールが入った。佐那はすぐに了解と返信をした。ふたりは社外のカフェで待ち合わせをした。課長職がすっかり板についた鍋ちゃんは、相変わらず親しみのある笑顔で佐那に手を振ってくれた。
「四月にうちの課に異動してきた原さんっているでしょう」
 鍋ちゃんはにこにこしながら言った。「ほら、佐那ちゃんのところに前にいた」
 原さんは三年ほど前に新入社員として佐那の部署に配属された子だった。明るくて素直でつき合いもいい原さんは、佐那もお気に入りでずいぶん可愛がった後輩だった。
「いつも話しているんだよ。入社当初は本当に佐那ちゃんにお世話になったって。いつも助けてもらって、時々は叱ってもくれて、今の仕事が出来ているのは全部佐那ちゃんのおかげだって、原さんいつも言っているよ。佐那ちゃんの話を聞くと、私も本当に嬉しくなるの。私もがんばろうって思えるよ」
 鍋ちゃんの言葉に、佐那はゆっくり微笑んだ。
「みんな鍋ちゃんが私にしてくれたことじゃん。私は自分がしてもらったことを、ただ後輩にもしているだけだよ。自分にできる小さな範囲でね」
 ふたりはしばらくお互いの近況を話し合った。話したいことは次から次へと湧いて出てくる。
「佐那ちゃんの部署に、半年で辞めちゃった子がいるんだってね」
 しばらくして鍋ちゃんが静かな声で言った。人事に関する根も葉もない噂話は会社でも広まるのが早い。鍋ちゃんも何か聞いているのかもしれない。
「面接で振り落とすのは難しいんだろうね。時々おかしい子が入ってくるよ」
 佐那は笑顔で続けた。
 鍋ちゃんは一瞬迷ったように言葉を飲んだ。それから優しい声で、
「佐那ちゃん、好きな人に優しくするのは子どもだってできるんだよ。大切なのは自分の価値観が全てじゃないってことじゃないかな」
 と言った。ちょうどその時、デザートのプレートが運ばれてきて、繊細に飾られたアップルパイとアイスクリームにふたりは小さな歓声をあげた。二口ほどそれを口にしたところで、「もうひとつ話があるの」と鍋ちゃんが言った。
「私会社を辞めることになったの。旦那が転勤で県外に行くことになって。子どもも大きくなってきたし、単身赴任でもいいんだけどね。ずいぶん仕事も忙しくしてすれ違いも多かったから、ここらで大切なものを選ぼうと思ってね」
 順調に昇進を重ねていた鍋ちゃんの言葉に佐那は心底驚いた。鍋ちゃんが何よりも仕事が好きなことを佐那は知っていた。
「旦那さんが大切なんだね」佐那は言った。
「うーん、仲がいいのかどうか、よく分からないけどねえ」鍋ちゃんは真面目くさった顔で言った。佐那は思わず噴き出した。
「旦那さんとはどんな会話をするの」佐那は聞いた。「私には無いものだったからさ」
 佐那の言葉を聞いて、鍋ちゃんはハッとした表情になる。それからおにぎりの形の顔を傾げて、
「くだらないことばっかりお喋りするよ。友達同士みたいなもんだね」と答えた。
 それから二人はこれからも連絡を取り合うことを約束して手を振って別れた。佐那はこれからの鍋ちゃんの人生が彼女にふさわしい明るいものであるように心から祈った。
 

 鍋ちゃんと別れて職場の部屋に戻る途中、佐那は給湯室の前を通りかかった。顔は見えないが、男性社員が何やら喋っている声が聞こえてくる。ほんと、怖かったよなあ。ああいうのに、目をつけられたら終わりだよ。大した仕事をしているわけでもないのにさ。ほら、部課長連中とつるんで、自分が偉くなったつもりでいるんだよな。めんどくさいから誰も言わないだけだろ。真鍋さんもなんでああいう人間に甘いのかな。取り居るのがうまいんだろう。親友だって言ってたよ。ええ、全然真逆の性格じゃん。
 佐那は何も言わずにその前を通り過ぎた。自分の価値観が全てじゃないという言葉を彼らこそが知るべきだ。
 

 それからも佐那は真面目に働き続けた。忙しく過ぎる日々の中で、佐那は時々、鍋ちゃんの忠告を思い出した。鍋ちゃんが言うように、社会には色んな価値観の人がいる。下手に関わって損をする必要はない。今どきは、遅刻を注意した上司がパワハラで訴えられるようなこともあるらしい。佐那は以前よりも慎重に周囲の人と接するようになった。佐那は、あからさまに佐那の機嫌を取る人間は信用できず、初めから打ち解けようという気が起こらなかった。特別に佐那が彼女らに何かをするわけではない。佐那がただ興味を示さないでいれば、自ずと周囲の人間が彼らに居場所を与えないように振る舞ってくれた。さらに佐那の癇に障るのは、佐那を怖れて怯えた目をする人間だった。被害者意識が高い人間と関わると、こちらが一方的に加害者にされてしまう。そういった人間も佐那は遮断した。佐那は気が合う人間はどこまでも可愛がり世話を焼いた。そして常に、自分の味方でいてくれる人間の分量を適度に調整することを忘れなかった。
 

 さらに佐那の怒りに触れる人種がいた。佐那とその周囲の関係に興味を示さない人間だった。そういう人間は、社会で上手くやっていくための協調性が決定的に欠けていた。そういう人種は、遅かれ早かれ、何か大きな問題を起こす可能性が高かった。彼らは「学校には馴染めない子どもでしたよ(笑)」と微笑む山本さんの顔を佐那に思い出させた。
 周囲の人たちは皆、佐那の気持ちを理解してくれて、佐那の嫌がる誰かを一緒に排除してくれた。ただ、楽しそうにはしゃぐ彼らは皆一様に醜く歪んだお猿さんの顔をしていた。佐那は鍋ちゃんに感じたような友情を、その人たちに感じることは一度もなかった。
 

 佐那の息子が、十八歳になった。人生には乗り越えられないほどの困難が次々に降りかかるものだ。佐那の息子は、高校一年生の夏に学校に行かなくなり、ほどなく高校を中退した。それからは家に引きこもりがちになり、ほとんど部屋から出てこなくなった。佐那は何度も彼にカウンセリングを進め、新しい学校のパンフレットを集め、彼をなだめ、怒り、泣いて訴えては息子を部屋から出そうとした。そして疲れ果てて、途方に暮れた頃、息子は唐突に部屋から出てきた。
「父さんと相談して、海外に留学することに決めた」
 しばらく顔を合わせないうちに別人のように大人びた息子が、きっぱりとそう言った。父親と連絡を取り合っていることさえ、その時まで知らなかった。再婚をした時点で援助を断り、一切連絡を取っていない相手だった。
「父さんも早苗さんも応援してくれているよ」息子は言った。
 彼の再婚相手の名前など、耳にも入れたくなかった。佐那は激昂した。しかし息子は静まり返った沼のような目で佐那を見返すだけだった。その目に映ることは、とても惨めだった。少しずつ壊れていっていたものに、また佐那は気がつかずにいたのだった。
 神様は佐那に答えを与えてくれはしない。気がつけば佐那は五十歳になっていた。佐那を支え続けてくれた両親はともに年老い、幸い大きな病気は抱えていないが、近い未来に佐那の手助けなしには生活ができなくなる日が来るだろうと思われた。
 

 過ぎてゆく時間は、何故か佐那の美しさをさらに際立たせるようだった。この頃は、自分の年齢を言うだけで、周囲の人が驚いて息を飲むことが度々あった。「美の秘訣は?」と度々聞いてくる同僚に、
「年を取り損ねちゃったのかもしれない」
 冗談でそう答えたが、その言葉は佐那自身の耳にいつまでも残った。
 佐那は正しい人間でありたかった。
「あの人に嫌われたら終わりだよ」
「ただの事務員ですよね」
「そのうち分かるよ」
 社内で自分がそう噂されているのを佐那は耳にした。ほら、鍋ちゃん。気持ちを分かってもらえないのは、いつも佐那の方だよ。


 真夜中に電話が鳴った。こんな時間に電話がかかってくるなんて、初めから嫌な予感がした。電話の相手は鍋ちゃんの旦那さんだった。若い頃にお互いの子どもを連れてピクニックをしたことがあり、そのような機会に何度か旦那さんとも顔を合わせていた。鍋ちゃんの旦那さんは突然の電話の非礼を詫びた後、鍋ちゃんが病気で入院していることを告げた。その様子から病状はかなり重いものだと思われた。あいつから、あなたの話はよく聞かされています。一番の親友だって。一度、あいつの顔を見に来てやってくれませんか、と押し殺した声で旦那さんは言った。
 思えばずいぶん鍋ちゃんとも連絡を取っていなかった。慌ただしくしているうちにこんなことがあるなんて、佐那は足元から地面が崩れていくような不安に襲われた。病院の名前と住所を聞いて、震える手で佐那は電話を切った。
 次の日には、電車とバスを乗り継いで、病院に駆け付けた。国道沿いの街のはずれにある大きな病院だった。少し行くと海水浴場に出るらしく、海水浴目的の家族とバスで隣り合わせに座った。
鍋ちゃんがいる個室のドアを開けると、病室特有の匂いが佐那の鼻をついた。鍋ちゃん、と佐那は小さな声を出した。自分の声が震えないように、佐那は十分注意した。
「どちら様ですか」
 佐那の背後から声がした。振り向くと、鍋ちゃんにそっくりな若い女が背筋をまっすぐに伸ばして、そこに立っていた。
「鍋ちゃんの娘さん?」佐那は聞いた。
 小さな時に会ったきりだったが、その子があの時の鍋ちゃんの娘であることがすぐに分かった。鍋ちゃんの娘も、あ、という顔になり、
「佐那さんですね。お久しぶりです。父から聞いています」と笑顔になった。「母のために、来てくれてありがとうございます」
「ううん、連絡をもらえて良かったわ」佐那は答えた。
「すみません、母は今、眠ってしまって」
 カーテンを開けながら、鍋ちゃんの娘が申し訳なさそうに言った。
 ベットに眠る鍋ちゃんは、はっと息を飲むほど痩せた身体を静かに横たえていた。佐那は久しぶりに会う鍋ちゃんをゆっくりと覗き込んだ。痩せてはいるが、おだやかな微笑みを湛えて眠る鍋ちゃんはあの頃のまま何も変わらないやさしい鍋ちゃんだった。佐那は、鍋ちゃんの手にそっと自分の手を重ねた。「顔を見ることができて、うれしいわ」佐那は言った。鍋ちゃんの手は温かかった。
「佐那さんの話は母からよく聞いていました」
 娘は佐那の顔をまっすぐに見た。「本当にこんなに美しい方なんて」そう言いながら、佐那から目線をわずかに逸らす。
 佐那は娘の方に改めて向き直った。そして彼女を労わるように、いとおしむように、背中を撫でた。娘はしばらく黙って俯いていたが、
「あなたのような人が母の友達でいてくれることを誇りに思います」
 静かにそう言った。
 佐那はハッと息を飲んだ。長い時間動けないまま、懐かしい人によく似た、若く美しい横顔を見つめ続けた。

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