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箱崎みつ子は恋をした

 箱崎みつ子は恋をした。そしてそれよりも、家に帰りたかった。


 箱崎みつ子は地方都市の中堅企業で経理事務の仕事をしている二十六歳のOLである。学生時代から周囲からは真面目、真面目と言われ、まあどちらかと言えば分類的にはそうなるのかなあ、いやそうでもないかなあと考えるのだが、特に他人に反論することでもないかいうと結論に至り、なんとなくうす笑いを浮かべてやり過ごしている。


 みつ子は今の仕事を気に入っている。仕事って、やれば終わるところがいいよねえと思っている。なぜならみつ子は、いつでも家に帰りたかったからだ。中学、高校、大学とみつ子は生粋の帰宅部だった。


 そんなみつ子が恋をしたのは、隣の係の主任である糸島先輩である。詳細は以下のとおり。先週、職場の送別会があった。家に帰りたいみつ子にとって、会社の飲み会というものは障害である。でも、働く上で人間関係は大切だし、お世話になった人への礼儀も持ち合わせているみつ子であるので、歓送迎会や忘年会については出席するようにしている。その日も二時間ほどを穏やかに過ごし、場がお開きになったところで、みつ子は鍛え抜かれた忍者顔負けのすばやさで風のようにその場を抜け出した。「飲み会終わりすり抜けの術~さりげなく、そして大胆に~」は、みつ子の特技だ。一日の終わった充実感を感じながら、みつ子は駅までの道を歩き出した。その時、みつ子は気がついた。みつ子の遙か前を、顔見知りの人物が人波をするするとすり抜けながら駅の方へ消えていった。それが糸島先輩だった。みつ子の熟練の技であるすり抜けの術を大きく上回って飲み会会場を後にした糸島先輩に、みつ子は畏怖の念を抱いた。そして、その日から糸島先輩はみつ子の頭から離れなくなった。


 いくつかの偶然が重なった。みつ子と糸島先輩は通勤電車が一緒で、みつ子が乗る駅の三つ先で糸島先輩はいつも同じ車両に乗り込んできた。意識する前は気付きもしなかったが、そうとなると息が詰まるほどに胸の高まるみつ子であった。目が合うと、糸島先輩は軽く会釈をしてくれた。同じ頃に一緒に仕事をする機会も何度かあり、ふたりは仲良くなっていった。糸島先輩は、「ぼくは朝の電車が好きで、帰りの電車が嫌いだ」と言った。「家に帰りたい気持ちがつよいから」みつ子にはそれがよく分かった。朝の電車の時間は最後の自由という感じできらきらと切ない夢心地を味わう。帰りの電車の時間は、家へと帰り着くまでの最後の障害であるので、石になった気持ちで耐える。行きと帰り、逆の感情を持つ人も多いと思うが、本当に家に帰りたい人間にとってはこちらの感覚を持つことが自然なようにみつ子は思っていた。糸島先輩も家に帰りたい人なんだ。みつ子の予感は確信に変わった。「私も、家に帰りたいです」みつ子は言った。その言葉を聞いたときの糸島先輩の笑顔を、みつ子は忘れない。


 みつ子と糸島先輩は休日に一緒に出かけるようになった。ふたりとも映画に行くのが好きだった。映画館は暗くしずかで、時々うっかり眠ってしまったりする。はっと気付いて横を見ると糸島先輩もだいたい眠っている。映画館の帰りには、ふたりで寂れた商店街を歩いて布団屋さんに立ち寄った。季節は夏の終わりで、布団屋にはふかふかの羽毛の冬布団が所狭しと並べられていた。まだだれにも使われていない布団は、さわると冷たい感触がした。みつ子と糸島先輩は目を閉じてその感触を楽しんだ。帰り道、肌寒い風が吹いて、すぐそこに秋が来ていることにみつ子は気付いた。心地よい風に吹かれながら、みつ子はかすかに嫌な予感を感じた。


 秋は、とても家に帰りたくなるのだった。みつ子には糸島先輩の気持ちが分かり、糸島先輩にはみつ子の気持ちが分かった。
 

 ふたりの会える時間はどんどん短くなっていった。夕飯の時間には会うことができなくなったので、ランチデートをするようになった。糸島先輩おすすめのイタリア料理屋できのこたっぷりパスタを食べた。おなかがいっぱいになる頃には満ち足りた気持ちで、家に帰りたいと思うのだった。みつ子は糸島先輩の目をみた。糸島先輩の目がまっすぐにみつ子を見返した。「家に帰って何をしているんですか。」というような質問をみつ子や糸島先輩のような人種は、しない。「なぜ家に帰りたいのですか」もちろん、この問いかけも存在しない。会う時間が短くなることは、みつ子と糸島先輩の気持ちが重なっていく過程でもあった。ふたりは小さく手を振り合って別れた。
秋は冬へと深まっていき、みつ子と糸島先輩の会う時間はさらに短いものになっていった。休日はもう難しかった。仕事帰りの電車の中で、ふたりは他愛ないお喋りをした。耳かきはどのようにするか、と言う話になった。綿棒です。分かります、木のやつは、こわいですよね。なんか最新の、コイルのやつを知っていますか。ええ、知りません。耳かきの仕方は意外と広がる話題であることをみつ子は知った。


 電車が駅へ着く。糸島先輩が降りる駅だった。糸島先輩は切なそうにホームにそっと目を向けた。その瞬間、糸島先輩の家に帰りたいきもちとみつ子の家に帰りたいきもちは、時計の長針と短針が重なり合うようにきれいに釣り合った。みつ子は、ほほえんだ。
 私たちの家なんてどこにも存在しないのかもしれない。それでも、みつ子は家に帰りたいのだった。 

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