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人が変わるのは全部、出逢いからか

今回は雑なエッセイです。人が変わる切っ掛けについて — 人ってどんなときに変わるものなのでしょうか。「変わる」ということの定義は、長大な話になりそうだから、ここでは置いておいて;人が変化するときって、どういうときなのかっていうことを、少しだけ考えてみたい。ここでいう「変化」とは、便宜的に「考え方や立居振舞に以前と比べて違いが生まれること」とでも定めておきます。

私は人が変わる切っ掛けって、本当に多様だと思います。だけど、それらのことは結局のところ、ある一つのことに集約できると感じます。それは,「であい」です。これを平仮名を以て表すことについては,(暗に示すようにして)後述します。

人は「であい」を通じて変化する。これは、私の経験則から導き出した、世事における原則です。人は人との「であい」によって変わる:この場合,「であい」は「出逢い」です。(まさに、巡り逢いであり、縁である。)また人は、物との「であい」によっても変わる:この場合,「であい」は「出合い」です。さらに人は、出来事によっても変わる:この場合,「であい」は「出遭い」です。

この原則に基付けば、人は他者が変えることができると言える。「出逢い」によって人が変わるとは、まさに他者によって人が変えられることです。極論においては、ある(危ない)人に出逢って、洗脳を受ければ、幾らでも人は変えられ得る……。よく「人のことは変えられない、変えられるのは自分だけだ」などと聞きますが、本当にそうなのでしょうか。純粋に顧慮すれば、他者の影響が当人を劇的に変える事例も世には数多く生じている、ということはすぐに判る。文脈によって意味が異なるので、一概には反駁を差し入れることはできませんが……。

本題から逸れましたが、何れにせよ、人は三種の「であい」によって変わるのだと思います:人との「出逢い」、物との「出合い」、出来事との「出遭い」。ここで面白いことは、中者と後者とは、前者と弱い正の相関を持っているのでないか、ということです。つまり、物と出合うのも、出来事と出遭うのも、何らかの人とのつながりがあるからこそでないか、ということです。

もちろん例えば、一人で森で散策しているときに偶然見付けた貴石や、知らない街をブラブラしながら目にとまった雑貨屋さんでこれまた偶然見付けたブローチとか、一人の行動から偶然見付けた物は、いくらでもあり得る。けれど、よく思い返してみると、一人で森を散策したのは、自分の尊敬する人が「一人で森のなかを歩くときが、一番気持がスッキリするときだし、アイディアが潤沢に浮かんでくるときなのです」といっていたのを聞いていたからかも知れないし、雑貨屋がある通りをブラブラしたのは、家族旅行でそのとき来ていた街が素敵で、家族がホテルで昼寝をして一人出掛ける隙があったからかも知れない。

この例は少し無理矢理かも知れなくても、やはりそれらはどこかで”人”が絡んでいる。人との出逢いが、新たな異種の「であい」を誘引している — 偶然の出合いをした貴石やブローチが、一生の宝物になることもあるでしょうが、したがって「であい」といってもすべては、ひょっとしたら「出逢い」というところに帰していくのかも知れないのです。

物でも出来事でも人でも、新たな何かに「であう」ことは、私たちにとり大いなる刺激です。そこからまた新たなものが、内的に生まれてくる(ことがあります)。そんな素晴らしいことってあるでしょうか、ある種の神秘のような気もします。それが無数に繰り返され、今ある世界が存在しているのだとすると、この世が愛おしくも思えます。人が変わるのは、すべて何かとの「であい」から — それが真実だとすれば、これから訪れるであろう全種の「であい」に、逐一胸は踊ってしまうに違いありません。


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