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3年かけてネット小説を書いたけど誰も読んでくれないので自分でレビューするという地獄【黒い服の魔女】

1.誰も読まないもんで


タイトルの通りである。

 2019年6月15日に「小説家になろう」に拙著「黒い服の魔女」第一話を投稿してから約三年後、ようやく最終話を投稿した。ただし、三年間ずっと継続して書いたわけではなく、休み休み書いていたため、文字数は多くない。だいたい三万字程度の分量である。

https://ncode.syosetu.com/n4963fo/

https://kakuyomu.jp/works/16817139555087459047

(カクヨムにも後から投稿した)

 とはいえ、最終回を投稿したときは中々の満足感だった。自分の頭のなかのストーリーが目に見える形になっていくのは、ある種感動的と言える。こういった感覚は小説を書く醍醐味だろう。

 しかし、この小説には、ほとんど読者がついていないのである。より正確に言うなら、アクセスはあるが、ポイント、感想、レビューなどが全くない。三年間かけて書いた小説にまったく反響が無いのである

 これは中々寂しい事態である。もちろん、先述のとおり、自分で考えた物語が小説という形になる、という動機から考えれば反応を求めるというのは少し筋が違う。だが、やはり書いたものを公開したのだから、何かしらの声を求めるのは人情だろうと思う。人に語られてこその物語である。それに、物語を批評するというのは、作者の思いもよらない主題や構造を取り出して、新しい価値を作ることもある。

 また、少し変に思われるかもしれないが、僕の場合、小説を書いているときは作者であっても、書き終わったあとは一読者となってしまう。それも、自分の小説だからか、ファンになってしまうのだ。そのため、自分の小説の推しの登場人物とか、シーンとか、そんなことを誰かと語らいたいのである(※1_1)。

 しかしながら、現状では誰もこの小説に感想もレビューもない。つまり誰かと推しを語らうのは不可能である。誰かが僕の小説から思いもよらない主題や構造を取り出すということもない。

 そのようなわけで、僕は自分の小説を自分でレビューするという、何とも地獄味のある活動を試みることにする。宣伝、とも言えるかもしれないが、このアカウントのフォロワーはこの記事の執筆時点で5人であるので、宣伝という言葉は機能しない(※1_2)。

 なので読まれる皆様においては、発酵を始めた自己表現の味以外に提供できるものがないが、適当に付き合っていただければ幸いです。


<備考>
※1_1. ええ、変なやつだと笑って下さい。
※1_2. 地獄という言葉は機能する。

2.仮想レビュアーを生成する

 今から、拙著「黒い服の魔女」のレビューをするために、仮想の人格を生成しようと思う

 何を言っているか分からないかもしれないが、大丈夫である。大学数学の教科書と同じで、分からない部分は読み飛ばして、後で読み返すことにしよう。全体を通して見た時に、初めて理解できることもあるからだ。

 ちなみに、僕は線形代数の教科書で分からず読み飛ばした部分を読み返したことは、今の今まで一度もない。人生に必要なことは、いつだって自分が決める。思い切りは大切だ。

 何はともあれ、作者という立場で小説を批評することは極めて難しい。それは批評ではなく、思い出話だ、となりかねない。そうはならなくても、客観性に欠けたりする。そのような理由から、この小説をどの様に創作したか、という情報は批評の邪魔になりうる。

 優れたコンテンツであれば、作者としての創作の裏話も非常に示唆に富んだものになるのだろう。だが、ゴミの様な作品の創作秘話ほどくだらないものはない、というコメントをYoutubeで見たことがある(※2_1)。

 僕の作品が優れているか、ゴミであるかは僕には冷静な判断はできない。優れている!と声高に叫んでも、特に注目を浴びていないという事実もある。また、平凡な言い方かもしれないが、作品は子供の様なものである。まさかこの世に自分の子供をゴミだと言える人間がいるだろうか?(※2_2) 

 そのようなわけで、客観的批評を行うために、僕は今からこのレビューを書き終わるまで、「黒い服の魔女」を書いた作者から、別人となることにする。そのようなことをしたからと言って、客観性が備わるかは別の話であるが、とにかく試みようと思う。ちなみに作者である僕本人は男だが、今からレビューを書く人格は女性である(※2_3)。

 皆様にとってはこの記事の文章の主語が僕から私になるだけの違いであるので、気にしないでいただければ幸いである。

<備考>
※2_1. 厳しすぎる。
※2_2. もちろん反語であるが、現実には往々にしてそういう人間がいる、というのは悲しい事実である。
※2_3. 変に思う方もいるかもしれないが、自分と全く別の人格を生成するという遊びは、多かれ少なかれ、小説を書くという行為の動機にもなっていると思う。

3.「黒い服の魔女」のレビュー

終焉した日常モノのライトノベル

 物語には終わりがあるけれど、登場人物たちの人生は続く。ハッピーエンドの後には彼らのエピソードは語られない。けれど、彼らはきっと、新しい問題に立ち向かったりして、決して安穏なだけの人生を送ってはいないと思う。そういえば、ディズニープリンセスのその後を語る作品もある。彼らの人生は私達に見えなくても続いている。

 ライトノベル、特に学園モノに分類される作品は、ずっと変わらない日常に、変わらない関係を描いている(私はあんまりライトノベルを読む方ではないから、偏見だったら許してほしい)。個性的なキャラクター達がクスリとさせてくれる軽妙なやり取りをして、事件が起きても最後には元通りの関係。幼なじみとも、気になる女の子とも、親友とも、ずっと変わらない関係を保ち続ける。きっと彼らは、本の最後のページに「了」の文字が打たれた後も、変わらぬ日常を過ごし続けるだろう。

 もちろん、それは非難されることではない。現実は無常である。イデオロギーは崩壊し、敵対国は変わり、伝染病は流行り、大国は戦争し、穀物の値段は上がり、消費税も上がる。現実は大忙しだ。ならば、フィクションの世界くらい、変わらない日常が存在してほしい。例え幾許かの退屈がそこにあろうとも、それは許されてもいいと思う。

 だけれど、この「黒い服の魔女」は変わらないはずの日常に、変わらないはずの関係が、消えてしまった後の物語だ。

”僕”の幼馴染のカルは昔公平で思慮深く、集団への帰属意識が薄かった。僕はそんなカルにあこがれていたけれど、カルは大学に入ってから変わってしまった。僕は後輩のアキと、大学に入ってから修めた心理学の知識を使った探偵業を始めていた。そしてカルに昔の自分を取り戻してもらおうと、その探偵業に誘う。彼女を事件に巻き込んでしまうとは知らずに……
「黒い服の魔女」あらすじ

 多分、作者はライトノベル的日常の終焉という構造を意識した訳ではないと思う。しかし、いくつかの点で日常モノに近似できると思う。例えば、過去エピソードで、登場人物たちが高校の文化部に所属していること。男の主人公と女の子が二人という構図。主人公が普遍的な人間関係を信じていたところ。あるいは少しピーキーな性格の登場人物を理解し合っているような関係性。これらの特徴はどこかライトノベルのテンプレートを連想させる。

 物語はそういった決まり事を壊すために動いていく。その変化はほんの少し。だけれど、かくあるべき、と当然顔した誰かの表情が曇るとき、そこには人の心を動かす何かがあると思う。

 とはいえ、変わらない日常に対するアンチテーゼは珍しくはない。例えば、安定した人間関係の茶番を演じながらもそれを厭う「俺の青春ラブコメは間違っている」。あるいは、ライトノベルではないけれど、繰り返す日常を不自然に強調する「スカイクロラ」。物語において、普遍性に対する戦いはずっと続いてきた。

誰かのありのままを受け入れる為の心理学

 変わらない日常へのアンチテーゼ、それが珍しくないのならば、この小説の特筆点は何処なのだろうか?それは誰かの変化(そしてその人との関係の変化)を受け入れるという主題を心理学的知見という要素を使って強調した点にある。

 最初に断っておきたい。心理学的知見、と言ったが、この小説ではさほど高度な心理学の知識は出てこない。心理学を題材にするのであれば、この作者はもう少しこの分野の調査をするべきだと思う。ちょっとサーベイが甘い。

 ともあれ、この小説では心理学を使って、一体何を強調したいのか?先述の通り、「誰かのありのままを受け入れること」である。より正確に言うなら、「誰かを変えようとしない、そして誰かが変わるのを止めようとしない」というところだろうか?例えば、誰かが変わったことを受け入れる為には、まずその変化を観察しなければならない。そして、観察で得られた結果を解釈して、ようやく、その人がどのように変わったかを受け入れることができる。誰かの観察と解釈のプロセスに反証可能性を加えれば、心理学の分野に足を踏み入れることになる。ある種、当たり前のことかもしれないが、心理学は誰か(ヒト)のありのままの性質を知り、その事実を受け入れる学問である(「受け入れる」という言葉の範囲は人によって違うかもしれないが、「理解して否定しない」というニュアンスがこの場合近いだろうか)。

 誰かのありのままを受け入れる為の心理学。その心理学を学んだ主人公が、幼なじみのカルの変化を受け入れられない。それがこの小説の骨組みであり、特筆点であると思う。

カルは本当に変わったのか?


 作中では、主人公のモノローグを地の文としており、主人公から見たカルの変化が語られている。物語は主人公と彼女(カル)の高校時代から始まるのだけれど、過去の彼女が本当に主人公が述べているような性質を持っているのか、分からない。主人公はカルが変わったということを繰り返し述べているが、それがエピソードとして表現されていないのだ。

 この主人公が語る彼女と、読者が見る彼女のズレは何を示すのだろうか?もちろん単に作者のエピソード力が弱いという可能性もある。だが、私は、このズレは高校時代の主人公もカルに幻想を見ていたということの証なのでは、と考えている。

 つまり、主人公はカルの変化を受け入れられないのではなく、そもそもカルを理解していなかったということだ。高校時代の主人公はカルを憧れと捉えていた。もちろん否定はしていない。しかし主人公はカルへの賞賛により彼女を的確に理解することができていなかったのだ。

すなわち、否定だけでなく、賞賛も誰かを受け入れる枷となる。

 彼女はもしかすると、そこまで変わってなかったのかもしれない。主人公の憧れとのズレが、目立ってきた、ただそれだけのことなのだろう。

他人に期待しない、そうして初めて誰かを愛せる


 誰かを変えようとしない、そして誰かが変わるのを止めようとしない。それはすなわち他人に期待しないということだ。自分が考える、「その人のあるべき姿」などというものを全て取り払うことだ。「あるべき姿」というのを押し付けないことだ。そして逆のことについても同じことが言える。誰かの期待に沿って生きてはいけない。そんな生き方は人を幸せにはしない。

 数年前にアドラー心理学が流行って以来、他人に期待しない、という考え方も少しずつ浸透している。しかし、他人に期待を押し付ける、あるいは他人の期待に応えようとすることは、形を変えてさまざまな所に残っているように思う。自意識を取り払って、周りをフラットに見るのは大変なことだ。他人の期待を振り切るのは大変なことだ。

 生物としての人間は、理性や倫理で動けるほど強い存在ではない。例えば、同調と呼ばれる個々の行動や信念が所属集団の基準に一致する方向へと変化する現象が知られている(※3_1)。これは他人の期待に応えてしまうという人間の性質を良く表していると思う。生物として、我々にはそのような形質が備わっている。

 だからこそ、他人の期待を振り切ることや期待しないことは難しい。それには賢さや冷静さ、そして自意識を脱する勇気も必要だろうと思う。でも、そうやって「あるがままの姿」を見ることが出来たなら、それは誰かを受け入れることになる。愛の要件に、人を受け入れること、があるのなら、きっと他人に期待しないことは、誰かを愛することの第一歩になる。

 主人公がカルを受け入れられることを願うばかりだ。

私の推し


 急に戯言を言うが、私の推しはアキちゃんである。あの天真爛漫さと、賢さやと、後ろめたさを募らせた大人っぽさが大好きである。是非彼女と友達になりたい。

 今回のレビューでは選んだテーマの関係上、アキちゃんのことに触れることが出来なかったが、今度もこの小説のレビューがあれば、彼女に是非フィーチャーしたい。

<備考>
※3_1. 鹿取廣人ら編「心理学 第5版 補訂版」東京大学出版会より引用

4.まとめ

 さて、レビュアーと人格を交換して作者の僕にもどることにする。レビューについて、若干調査不足とエピソードの弱さをディスられていたが、概ね良いレビューをもらったと思う。

 作者として百も承知の部分もあったが、ライトノベルとの比較は新しい視点だった。ラノベ感あったのかぁ、となった。完璧な客観性ではないにしろ、中々面白い体験だった。

 それにしても、レビュアーのアキちゃん推しは納得である。僕はカルちゃん推しである。姉さんっぽさが良いし、一緒に屋台とかに飲みに行きたい(※4_1)。

 ともあれ、レビューをしてもらった彼女に感謝して、とりあえず、この小説を書いた三年間の集大成ということで。

 ではまた。

<備考>
※4_1. ちなみに主人公はまったく推せない。あいつは身勝手。

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