Vol.28 授業を終えて

 言葉は経験と対応するからこそ解釈できるのである。そして経験は言葉より広いのである。
 なぜ、教師は、子どもが何を経験し、何を知っているのかを、きちんと確かめようとしないのだろうか。なぜ、国語教育(学)者は、学習者の〈言葉ー経験〉の関連構造を推測する方法を研究してこなかったのだろうか。また、実際に経験させるという教授方法が、なぜろくに研究されてこなかったのだろうか。不思議である。

宇佐美寛(1986),国語科授業批判 P126

 昨日、「想像力のスイッチを入れよう」の最後の時間でした。一人ひとりがこれまでずっと読み深めてきて「考えたこと」「感じたこと」を全体で聴き合いました。たくさんの子たちが自分の考えを出してくれました。

 ですが、なにか、ずっとこの前時(単元5時間目)から違和感がありました。本時もその違和感がずっと自分にまとわりついている感じがありました。授業を終え、板書を見ながら、一人ひとりの学習のまとめを読み、これまでの授業をふり返ってみると、少しその違和感を言語化できそうな気がしてきたのでここに書き残しておきます。

 違和感の正体は「経験との結びつき」です。

 子どもたちとともに、「構造と内容の把握」・「精査・解釈」までは意識して取り組んできました。ですが、「考えの形成」で教師としての自分の意識が弱く、自分の中でも曖昧になっていたので、うろうろさせてしまった感じがあります。

 単元後半から「考えの形成の考えって何についての考えなんだろう?」という問いが自分の中で浮かんでいました。一応自分の中でも答えを出そうと考えていましたが、しっくりこなくて、結局子どもたちに一方的に聴いてみるという手段をとってしまいました。そうすると、いろいろな考えが出てきてしまい、フワッとした感じになってしまいました。 

 言葉は、言葉以外の事態(事物)を指し示す。「雨が降っている。」という言葉は、雨が降っているという事態を、この言葉の解釈者に対して、指し示す。
 もちろん、教科書の文章も、ある事態を指し示している。だから、文章を読む学習は、その文章が指し示している事態がどのようなものであるかを知る学習である。正確に言えば、指し示されている事態を知ることによって、言葉の指し示し方を知る学習である。〈言葉ー事態〉の結びつき方を知る学習である。
 事態とは、学習者の経験において知られるものである。だから、右を「〈言葉ー経験〉の結びつき方を知る学習である。」と言いかえてもいい。

宇佐美寛(1986),国語科授業批判 P132

 教科書にも「たいせつ」というところに

  自分の知識や経験と重ねながら読む

とあります。さらに、「考えをまとめる観点の例」というところには、

 ・本文を読んで、共感したこと、疑問に思ったこと。
 ・自分の知識や経験などをもとにした考え。
 ・今後、メディアとどのように関わっていくか。

とあります。教材研究の段階では、ここにしっくりこなくてなんだか違うような気がしていました。ここに向かってしまうと教材文から離れてしまう気がしていました。

 ですが、自分自身の学びをふり返ってみたときに、「経験」ってすごく大切だなと思います。「経験」していないことを理解することって難しいですよね。
 特に、今回の「想像力のスイッチを入れよう」って一人ひとりの経験とつなげて考えるときっともっとおもしろかったです。「うわさ話」「SNS」「社会科の学習」「放送」「コロナ」…いろいろなこととつなげて考えることができます。

 もちろん、全く経験と結びつけて考えていなかったわけではありません。子どもたちの考えを支えているものの1つに経験もあったと思います。

 筆者の考えと自分の考えをつなぐために「経験」というものが必要だったのではないかなと思っています。ただ、「経験」だけを引っ張り出して単元を進めてしまうとおかしくなります。きちんと教材文を「精査・解釈」した上で、「考えの形成」に向かう。「考えの形成」には「自分の経験」がかかわってくるという意識をもつ。違和感の正体はこんな感じかなと思っています。

 でも、まだまだモヤモヤしています。誰かとじっくり対話したいです。自分自身、まだまだ「学ぶ」ということをもっと深く追究していく必要がありそうです。

1 〈言葉ー経験〉の関係は、文学には限らない。言表はすべて、自己(self)のこの関係において解釈される。
2 教材文の解釈をさせるために何を学習者にさせるべきかは、教材文によって、また解釈者の情報の蓄積構造によって、様々である。ある場合には、直接経験が要る。ある場合には、いわゆる視聴覚教材が適している。また、ある場合は、より具体的な記録文を併せて読ませることになる。また、言い換え、補助的説明によって、すでに自己内部に蓄積されている経験的情報を引き出すこともある。

宇佐美寛(1986),国語科授業批判 P137

 「精査・解釈」する時にも、「これって自分が経験したあれとつながるな」とか、「こうしたらあのときうまくいったのかもしれないな」とか考えながら読み深めていきますね。そうすると、「精査・解釈」にも「自分の経験」がかかわっていますね。このあたり複雑ですけど、ちゃんと立ち止まって考えていきたいです。

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