Vol.32 最適とは?

教師は子どもの学びのパートナー
 子どもが綴った言葉,その表現にはその子の個性が表れます。それを教師がどのように読み,どのように子どもに返していくのかを考えることが重要です。子どもが自分の学びをどう解釈しているのか,その子のこだわりは何なのか,子どもの表現からさぐるようにします。
 「個」をさぐろうとする行為こそが,教師自身の変革にもなります。記録すれば見えることが出てきます。私たちは,子どもの事実から学び,それを子どもに還元していくことを考えなければいけません。子どもが最適な学びを見つけるための助言者(パートナー)であることが求められます。

宗實直樹(2023),社会科「個別最適な学び」授業デザイン 理論編 P56•57

 昨日は、目的や目標に立ち還ることの大切さについて書きました。

 それはそれで大切なのですが、子どもが自ら目的に立ち還っているのかどうかも考えていかないといけないなと思いました。結局、教師が目的や目標を示すことによってその子の意見を間接的に否定してしまってはいけないと思いました。もしかしたら、絶対的な目的・目標であればあるほど、強い否定になってしまうおそれもあります。

 『今すぐにできるようになる』ということを求めすぎると、即時反応してしまいます。ある子のある発言を聴いたとき、ある子のある様子をみたとき、なにがその子の中で起きていて、今、教師としてどうすることがいいのかを考えることが大切なんだろうなと思っています。

構成主義が学校教育に与える示唆は,「教えなくても学べる」ということではなく,「教えたからといってそのまま受容されるとは限らない」ということです。したがって「よりよく教えるための手立てが必要である」ということだと考えたほうがよいわけです。

市川伸一(2004),「科学知は授業実践とどう関わるか」

 例えば、国語科でも社会科でも、なんでもそうですが、単元1時間目に多く見られる認識のズレをどう扱うかだろうなと思っています。ある子は2時間目以降自分で追究を進めていくことで認識のズレに気づき、ある子は本質を理解している友達と考えを聴き合うことで気づく。ですが、最後の時間まで右往左往している子もいる。

 認識のズレに教師として一人ひとりにどんなアプローチをしていくのかを考えることが大切だと感じています。

 僕は、1時間目に間違っていることを修正するみたいなことをしてしまったことがあります。「それは違うでしょ」と一方的に伝えました。ですが、そうやって教師が伝えることで理解度が100%になるなんてことは難しいです。一人ひとりには一人ひとりの見つける、気づく過程があり、その過程に寄り添いながら教師としてできることを考えることが大切なんだろうなと思っています。

 すぐに、すぐに、を意識しすぎてしまうと間違った判断をしてしまいそうです。だからといって「なにもしない」というわけではありません。「なにもしない」ではなく「その子を見取っている」ということ。その上で『ここじゃない』と判断し、次の指導に生かす。こんな感じかなと思っています。

 「子ども主体」について突き詰めていくと、まだまだできていないことが見えてきます。まだまだ考えたいことがたくさんあります。

 その子をそのままみることは大切です。ですが、教師としての様々な経験が想定・想像する力を高めていくんじゃないかなとか、思っています。

 「見取りと経験」についてはまたどこかで一緒に考えてください。

学習は児童生徒がするのであるが、教師の職能はすこぶる重大であって学習においても活殺の機は教師が握っているというても差しつかえはない。教師は学習者の活動を直観しその性能を診断しかれらの立場と方向とを誤りなく指導せねばならぬ。これを誤ると学習者がせっかく持っている能力を発揮させることはできない。教師は学習者に霊感を鼓吹する人であり、鼓舞奨励する人であり、忠告者であり、案内者でなくてはならぬ。また教師は、実にかれらの共学者であることを要する。実に教師と児童生徒とは人類永遠の進歩を築き上げる親密なる同行である。あいともに伸びていこうの態度を取る伴侶である。学習者は学習によって伸びる。教師は学習指導によって伸びる。教師がかくのごとき態度を取ることによってきわめて気楽に学習者の長所を讃歎しつつつねに若々しい精神で充実した生活をすることができる。ほんとうに教師は生徒や児童のために真に生きれるのである。教師はために教育に無限の味を感じ児童生徒に対して感謝することができる。どうしてかれらに恩に被せたりすることができよう。学習者もこれによって十分に成長発展することができる。

木下竹次(1972),学習原論 P162


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