彼女が好きなものは
私は…多分若いゲイの恋愛模様を描く映画について共感するセンスを完全に欠いている上、元々自分本位な感想しか言えない。自分の体験に照らし合わせてもうまく言えた気がしないときの言い換えが『普遍的な云々』なのではあるまいか。確かに、そんなの言葉が足りてないとか、思慮が浅いのかもしれない。でも反対に、
普遍的な感情というのは、僕らの視点であって、彼らの中にはある意味存在していない
という言い方だって、彼らと僕らが何を意味しているのか問いたがる人ならば、サベツ的だと思うだろうな。一体我々は、彼らでいたいのか、僕らでいたいのか!特別でありたいのと同時にその特別さをそのまんますべての人に承認されなければ不安になるのだという。殊更現時点の日本のことだけを考えるならば、そこで不安になるのはそうした考え方に踊らされているんじゃないか…と、クソ逆張りオバジにしかなれなかった私は、どうしても思ってしまう。近しい人に受け入れてもらうことは、社会全体に受け入れさせることとはすこーし違うと感じるようになったんだな。私が…。
世界には、日本みたいな薄ぼんやりとした空気の場所から、あらゆる自由に対して非常に厳しい空気を持つ場所まで色々だが、こういうふうに思ってしまうのも男性同性愛者だからなのかなーと思う。そして私は、やはり自分本位だから、自分の思ったことしか言えない。
さて次は、他人の人生を消費する、とはどういうことなのかと考えさせられたツイート←残念ながら削除された。
ウィル・スミスとクリス・ロックが公然と繰り広げたビンタシーンについては、私は実感が湧かないから完全に忘れていた。すると時折教えてくれるわけね。ツイッターが。
こちらの方は、クリス・ロックが、ウィル・スミスについて、三十年間いい人のふりをしていた、と発言したことにいたく何かを刺激されたらしい。激怒していた。削除したということは気持ちが落ち着いたのだろう。
見出しで虫唾が走って読んでないが、クリス・ロックがウィル・スミスのことを『三十年間も完璧な人のフリをしていた』ってやつ、何で三十年間も完璧な人のフリをしなきゃいけなかったか考えたこともないのかよ。そこが人種差別の激しいハリウッドの世界だからだよ
と怒っていた。
クリス・ロックだって黒人だし、彼なりのやり方で生き抜いてきたんだろうな、と逆張りオバジの私は思うのだが、今回はこのアカウントの怒りに耳を傾けてみよう。
赤の他人で大金持ちの人たちのことで、なぜここまで怒ることができるのか。義憤というやつだ。私だって義憤に駆られることがあるから、想像すると、これは、人種差別というトピックを媒介に他人の人生を消費している、と言える。かなり悪意的に言えばね。私は義憤自体は悪いことと思ってないんだけど、義憤はOK、それ以外の感想はだめって考え方にはついていけないだけ。人間らしさの一つを否定し抑圧したってモンスターになって戻ってくるだけだと思うのよ。
所詮は他人同士の話、しかもハリウッド俳優の話だ。クリス・ロック側のやり方が汚いという趣旨は分かるのだけど、彼は嫌われものになることで生き残ることを選んだんじゃないかとも思う。まして、黒人だしね。ならば最期までやるしかないだろう。
ウィル・スミスはいい人なんだと思う。頑張るしかなかった善良な人が精神的に追い詰められていたところで、クリス・ロックのあれは何だと。あのことをネタに金儲けなんて許せん。あー私も段々腹立ってきたぞ、デモンズ!デモンズ!
って物語を私らが勝手に憶測して燃え上がること、これこそ他人の人生の消費以外の何ものでもない。
アメリカ人でもなければひどい人種差別にあったこともない私があの件に怒るとき、そのパワーはどこから来るのだろう。何かしら自分の中にある傷を媒介にしているのではないだろうか。そうでないなら、うだつの上がらない自分のつまんねー日常につかの間の意味を付与したいというロマン欲ではないか。今回義憤というロマンを与えてくれているのはウィル・スミスの高潔な生き方と抑圧された感情であり、それを引き立たせるのはクリス・ロックの悪役っぷりのよさだ。
私は、他人の人生をそのように消費するということが悪いことだとは思っていない。消費しながら、不謹慎だな、と思うこともあるけれど、不謹慎さこそが私の背中を押してきた。自分で考えて、うううう…と悩んで言葉を考え出す土台をくれた。この手の不謹慎さは、ここ最近世界の状況の中では極めて分が悪い。クリス・ロックには正義はないのであるからして、笑いや不謹慎さは慎まれるべきである。それが今の先進国世界だ。節操のない私はその空気に反応して、不謹慎さが後退してしまったと思う。誠に情けない。
不謹慎さを脱するには悔改めなければならない。悔改めるには基準が欲しい。では、この消費はいい消費、これは悪い消費、って一体誰がどんな基準で決めるのか。学問ならば一応ルールというものがある…はずだが最近は少し違うらしい。学問の話はしないよ。分かんないから。
あなたの行動から勇気をもらいました、って言葉にすら嫌悪感を持つ人もいる。薄っぺらい理解なんかしてくれるなって気持ちならば分かる。私もやだもん。じゃあ、薄っぺらくない理解ってやつを誰が決めるのか。それはもう、端的に本人の気持ちだ。つまりは最初からは分からないのだ。その上、人の判断はときにより状況によりどんどん変わる。そういうものだ。だから客観的基準は存在しない。
これが正しい理解だ、これが基準だ、とあたかも正解を分かっているかのように言う学者もいるし、それをそのまんま受け止める人も多い。そのモノサシの中身を検討したとは思えないような、それこそ薄っぺらい言葉もよく見かける。劣化した学問の残り滓の匂いがする。悲しい香りである。それを弄することは『私はこれ以上この問題について思考を深めませんよ、だから聞かれても答えません。しつこく聞くのはあなたがサベツ主義者だからです』という宣言をしているのと変わりない。OK、後半は盛ったよ。
私は薄っぺらい理解でも何でもいいと思う。私のこうありたいという好みはあるものの、いいじゃないか。それに対して、それは違う、と反論したり怒る権利はあるべき。実際みんなやってるし、反論の方が義憤ロマン欲からして支持しやすい。
もう少し広げると、性的消費についても、実在の人物の身体と精神に直接害がない限り、私はこれも容認せざるを得ない。私の好きなツイッターアカウントの中には、『この人はゲイに生まれ、しかも特殊な体型の男性を性的に求める人でホントによかったな』と思う人もいる。彼が実生活で何しているかは知らない。でも無害な人だろう。しかしもし彼が女子高生を愛好する人で、それを発信していたら世間の目は全く違ったものだっただろう。その性欲は歪んだ欲望の転化されたものであるとか、社会によって刷り込まれたものである、と精神的エクソシズムが始まる。私だって加担しそうだ。そこには義憤ロマンもあるしな。
ところで、性的な消費や他人の人生の消費ということに極めて厳格な基準を持つ人が、BTSに癒やされている様子を見るとひどく矛盾を感じる。まあ私はそのほうが人間らしいと思うから、苦しく生きているその人にも癒やしがあってよかったな、と思う一方で、その人は自分の採用した基準を一切疑っていないという現れとして私は読みとる。BTSはちゃんとしているじゃないか。そういうかもしれない。でも考えてみて。非実在の未成年女性の表象に傷つく感性のある人が、BTSを生み出した韓国エンタメ業界の過酷さに心を傷めないはずがない。BTSを愛し金を払うということは、何かしら韓国の若者搾取システムを延命し支持していることになる。皆がBTSにはなれない。屍の累々と横たわる中ですっくと立ち上がったBTSのメンバーの覚悟は壮絶だと思うよ…というふうに、私まで彼らを消費し始めているね。
このように、よって立つモノサシによって世の中の切り口も色々、誰の何にどう共感したり反発するかなんて最初からはわかりっこないし、ホントの気持ちなんてものもその都度周囲からの刺激によって浮かんでくる心象風景を元にした頼りないもの。それでも我々はなんかそういう感動モーメントを他人に求めてしまうじゃないか。
こう考えてみると、もうねぇ、文化コンテンツやエンタメ関連の現象や作品についてはいっくらでも消費すべきだと思う。胸が痛むようなものもあるし、頼むからそんなもんそこに置いとかないで!という他人の反応があることを承知で、できるだけ人から見えないところで大いに消費すべきかと思う。実生活にそれがどう出てくるのかは、もう作品やパフォーマーの責任外のことだと思う。数々の犯罪解説動画やホラーを観てて、そして自分自身のことを顧みて悟ったが、アレは湧いてきてしまうのだ。どうしたらアレが無くなるのかと問うことを止めてしまったよ。それはもう人権を侵害してでも人の脳をロボトミーする以外なかろう。PSYCHO-PASSの世界である。
そして、いくら表面上表現を規制したところで、地下に潜るだけだ。我々の心には何かしら不謹慎なものや加害的で危険なものが浮かんでくるのだ。それは否定しないほうがいい。捕まえておけるなら注意深く飼いならすのだ。その存在を否定し続けると…それらはモンスターとなって我々の平穏な日常を脅かしにやってくる。そう、ソファに横たわってポテチ食って屁ぇこいてるあなたの真後ろで、それは待ってる。あなたがバランスを崩すときを。
というわけでいつのあれを唱えましょう。
デモンズ!デモンズ!
あなたが求めるとき、エンタメがそこにありますように。