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第四の壁をぶっ壊せ!『Simhadri』の現地絶叫上映

N!T!R!!!!!!ぎゃああああああああああああああああ

日本では『RRR』で一気にその名を知られたインド・テルグ映画界のスーパースター、ナンダムリ・タラク・ラーマラオ・ジュニア様(以下タラク)の誕生日である5月20日に、記念企画としてリバイバル上映された、彼の20年前の主演作にして、ラージャマウリ監督映画『Simhadri』を鑑賞。

日本で同作を特別上映するというのを知って、いいなぁ、日本は…と何か転倒したことを考えていたが、まさかプネーの映画館でもやってくれるとはね。しかもご近所テルグさん大集合ですごかったよ…確かにプネーは他州から来たらしき人が結構多いから、テルグ人もかなり潜伏しているんだろう。

案の定、劇場はほとんど埋まり、テルグ男どもの熱狂を味わうことができて、「これが観たかったのよ…」と思った。

尚、インドではその祖父でありテルグ俳優のラスボスとも言える存在、NTR生誕100周年も祝っている模様。

こちらも『RRR』で日本でも注目され、『ランガスタラム』の公開も控えている、NTRの一族の「ライバル」的存在、コニデラ一族のラームチャランが登場で沸いている!!!

テルグ映画や他のヒンディー映画等の中で、かつて緊張関係にあった一族が和解するシーンとかが頭にちらつき、現実とフィクションがぐちゃぐちゃになる

『Simhadri』、結局字幕も無しで観たので、後でこちらのネタバレあり記事を拝読して内容を反芻した。

美味な映画だった…。字幕なしだったけど面白かった…。タラクはわずか20歳そこそこでこんな重責をさらりとこなしており、恐ろしい役者だなと思った。どういう重責かというと、4月に日本のテルグ映画ファンの間で小さくバズった衝撃的なネットの記事を読んだら(簡単に読んでって言えない長さなんだけど)分かる。

テルグ的情念を背負う現代の生ける救世主=タラク

これはテルグ映画界の歴史的展開を説明する記事で、特定のカーストグループがそのグループ出身の映画スターの文字通り支持母体となっており、スターがそのカーストグループの代表として崇められ、相互作用の中で独特の関係性とスター像ができあがっているという内容。テルグ独特の情念を感じさせる怖い記事だった。なぜ他の言語圏のように、男のスター俳優に女の子たちがため息をついたり歓声を上げるようなファンダムのありようが見えてこないのか、そしてテルグにおける映画の作風がなぜあのような感じなのか等色んなことに道筋をつけてくれた貴重な記事である。

また、私が昨年『RRR』の大道具置き場に行ったときに感じた緊張感(いつもゆるゆるのインド人が異様にきちんとしていた)を後付けで説明してもくれた。

上記の「Tollywood's Kingmaker」は超長いけど、本読むよりはずっと易しいのでお勧めです。最初に紹介してくださった方に感謝。

劇場にて

さて、劇場内で見たことを書いておきたい。ツイッターでは書いちゃったんだけど…。

劇場に入ったら、人はまばらで、まあそんなものよね…と思っていたら、続々人が集まって来た。大体が私よりは若い男性たちばかり。女性は、男性同伴で現れた人がちらほらいただけ。ここが日本のテルグ映画ファンダムとの質的な違い。黄色い声援なんかないのよ!あるのは野太い雄たけびと激しい指笛だ!!!こんなにテルグ人が隠れていたとはね!!みんなテルグ語でまくし立てていた。

率直に申し上げる。マハーラーシュトラ男は、シヴァージーという英雄がおしゃれでかっこいい人だったこともあり、髭をととのえ、服装もかっちりした感じの人が多い。対照的に、昨日来たようなNTRファンダムのテルグ男たちは、全体に髪の毛はぐちゃぐちゃ、服装は私のセンスとどっこいどっこいで、2003年撮影の『Simhadri』の中の人たちと大体同じ、垢抜けない空気をまとった、実は内気そうな人達だった。マハーラーシュトラ男って、やっぱりね、歴史的ヒンドゥーの英雄を奉じているだけあって、ちょっといかつい感じなのよね。そこがちょっと苦手なのに対し、テルグのNTRファンダム男たちの方が親しみが持てた。隣に座った人も気さくに話しかけてくれたので、私もへたくそなテルグ語で「కొంచెం తెలుగు తెలుసు」(少しテルグ語分かります)と数回言ったら喜んでくれた。もっと話したかったが…。

予告編で、テルグ俳優のプラバースの新作『アディプルシュ』が流れたら、後ろに座っていた地味な男がいきなり「XXXぷらばああああああああああす」と発狂した!!!あちらこちらから指笛とプラバースの名を呼ぶ声が!!!!同作は、去年予告編リリース時に、みんな「え?これ大丈夫?」っていう冷たい反応だったみたい(テルグでは分からないが)だし、プネーではあの予告編観て喜ぶなんて全然見たことなかったので新鮮だった。おおこれこそまさに、天竺のどこかにあるユートピア、絶叫上映ではないか…どうしたらゆけるのだろう、教えて欲しい(ガンダーラ)ってずっと思っていたんだけど、夢はいつも私のすぐそばにあるのだ。

国歌が流れる時間はみんな神妙にしてて、まあそこはね、普通なんだけど、終わった瞬間に誰かがいつもとは違う聞いたことのない言葉が聞こえて来て
一同が軽く笑っていた。これも初めてだったね。大体は誰かが「マーターキ!」って叫ぶと皆が「じゃーい!」と答えるんだったか、決まった言い方があって、そこで少しでも微笑ましく思って笑ったら、彼氏にすごい勢いで「ここでそれはやばいからやめて」と言われたくらいだったのにね。昨日の若きNTR主義者君は何て叫んだんだろう。

本編が始まってからはもう興奮の渦でね。冒頭はまだ幼少の頃の孤児シムハドリの様子が出て(ファンは既に絶叫始めてたけど)、その後…20年したら…?養父がシムハドリ―――!と彼の名を呼んだら…ほらー来るよ来るよきたああああああああああああああああ私も拍手した。超でかい(本当は何ていうのか知らないの)の、クリシュナ神(だったはず)の恰好をしたNTRの書割があって、そこにぴよーーーーーんと飛んで若いタラクWith100万ドルの笑顔のバストショット、横っちょに文字が!!「N!」「T!」「R!」!!!!ジュニアってついてないから、もはや祖父の遺志を受け継いだ正統な王子様なわけよ!!!!ぎゃあああああああ

まわりが「じゃーーーいNTR!!!(NTR万歳)」を連呼し始めた。最初は「じゃーいインディア―」って言ってるのかなと思ったんだけど、もう彼らの脳裏にはインディアじゃなくてNTRしかいないんだよね。つまりはテルグ地域でも更に細かいグループである自分たちの所属カーストという「身内」への帰属意識が表出しているんだと思ったら…やっぱりね、すごいなって思うよ。

またさー、ラージャマウリが上手いのは、ちゃんとそうやって、あのNTRの遺志を継いだ孫様が再びスクリーンに!(既に過去に彼はラージャマウリの映画に出ている)という興奮を分かって作ってるのが伝わって来るの。すごい作り方だと思うし、ある意味で、ラージャマウリがちょうどいいのは、自分の主張が映画に出て来ないってことね。宗教のモチーフも多用するけどそれは分かってるから自由自在にやれるけど、結構型破りなことでもあるのだと思う。

さて私が楽しみにしていたのは、ラムヤ・クリシュナンとタラクがぶつかり稽古おっすおっす連呼みたいな猥雑な歌のシーン。この物語のどこにこれが挟まるのか疑問でしかたなかったが、脇役でコミックリリーフのBrahmanandamがお酒に酔った時の幻想として描かれていた。

https://www.youtube.com/watch?v=B2jzpjlxPrg

Chinnadamme Cheekuluという歌で、歌詞はあっきらかにセックスのことだし、ベッドの上ではめちゃくちゃに乱れそうな女をラムヤ・クリシュナンがのりのりで演じているし、タラクも若いのにエロの空気を出したり引っ込めたりできる優れた役者であることが証明されている名シーンでもある。「小さいのが欲しいの~?」と女が歌い(またさ、歌手が2002年のボリウッドキラキラ映画『Devdash』で鮮烈なデビューをした直後の若いシュレヤ・ゴシャルが吹き替えてるのもショッキング。絶対いま歌わないと思う)、男がおっさんの声で「小さいのがほすぃ~」と返す。酷い!

その歌のシーンで、一部の若者達(上記のやや地味なみんな)がステージに上がって踊り始めた!!大盛り上がりだよ!!!!これこれ!!!!!わあああああああ!!!!

テルグ映画節よ永遠なれ

しかし本作、これもラージャマウリのセンスじゃないかと思うんだけど、歌のシーンはタラクと女たちが絡むセクシーダンスのシーンにもかかわらず、全て女の側の妄想として描いているところね。今回はダブルヒロインで、カストゥリは雌豹タイプ、インドゥは純真タイプなんだけど、その妄想の中でどんなにタラクがエロおやじの顔をして見せたとしても、祖父NTRへのオマージュで済まされるうえ、作中のタラク=シムハドリは硬派な若者であることが強調されている(実はラストにおいてすら彼はヒロインを獲得しようとしていない)ので、タラクのイメージは一切傷ついていないこと。恐らくファン層があの様子の、内気で地味な男子たちの集団であるというところから類推するに、20年前の製作時点でもやっぱり同じようなエートスをもった若者たちにとっては受け入れたい姿だったんじゃないかと思う。また、初代NTRを慕う人々にとっても、品行方正で慈善事業にも積極的なテルグの救世主のイメージを壊してほしくなかったであろう。作中何度もタラクの頼もしい姿に重なって元祖NTRの幻影が見えているシーンがある。あれはまさに、NTRのファン層の心象風景だろう。タラクはシムハドリという架空の人物を演じているが、彼が演じているかどうか分からないような、所謂第四の壁をぶっ壊してぐっちゃぐちゃにするような効果を感じた。

作中後半、シムハドリは病院で意識不明に陥るのだが、それを知った群衆が病院にわあああああっと押し寄せて来るシーンがあったが、これもまた、現実に政治家にまでなったNTRに対する感情と重なっていて、これ本当にあったことを描いてるんじゃないかって思わせるすさまじさを感じた。更に、シムハドリが目を覚まし、病院の屋上から皆を見降ろしたときのあの謙虚な顔は、結構本心からやっていた顔なんじゃないかとも思った。そういう距離で見えるようにカメラを据えたんじゃないかな。

悪役が性懲りもせず何度もシムハドリに立ち向かい毎回ぼこられる様に笑ってしまったが、なんかもう、極悪非道ぶりが観ててきついなと思ったわ。庶民は為す術も無く暴力に晒されたり爆死したりでヒーローの到来を祈っている。ヒーローはなんかもうわけわからない強さで、ケララ州のギャングを200人くらい抹殺していた(作中は25人くらいだったらしいけど、体感では200人は死んでる)。とにかく血なまぐさいという意味では、テルグ赤色映画と共通しているのね。その救世主に何を・誰を置くかの違いはあるにせよ。

掘れば掘る程どんどん全体像が見えにくくなるインド。

昨日見たファンたちは恐らくは父親や祖父たちの代から熱狂と情念を受け継いでファンをやっているのだと思う。全員がばらばらに絶叫しているのに、集合意識によって皆が同じ方向を向いて、同じ程度の深いドはまり具合で、全員でタラクしか見ないという、バラバラだけど結果は同じっていうすごみがあった。

日本で絶叫上映やってもうまく行かないのも当然だよね。日本人はバラバラが嫌いなわりに、個人個人のこだわりが強く(日本人に個性がないというのは正しくない)それぞれの方法で対象と繋がろうとするところがある。結果、同じ方向を向いてないっていう「違い」が目立ってしまう。私は一回だけ発声OK上映で『バーフバリ2』を観たけど、家の中でポテチぼりぼり喰いながら友達とだべる映画上映というつもりでいたんだけどさ、それは間違いだったのね。公式さんから翌日苦情みたいなのが出ており、ああ私は行っちゃいけないなって思った。それからあれの名前が「応援上映」と変わったのは適切だったと思う。高校野球みたいに、皆で練習してって応援上映の場を作り上げる。日本的だと思うよ。インドだったら、すきじゃなかったら普通の上映のときですら皆自由気ままだもんねー。そういう芸能消費を東京下町の日本人が今でもやってるってのは知ってるんだけど、それはあくまで「そういう場所で」ってことだからなあ。

まあそれはさておき、よくあることとも言えるが、「NTRファンダム」というものが成立し最高潮に達したと思われる瞬間から、変化が始まっているはずである。日本における女性ファンダムのパワーは、タラクやラームチャラン、スッバラージュなどのテルグ俳優の心に新しいファンとの関係性を感じさせたのではないかと思う。また、インドの社会経済状態が急激に変化していく中で、スターの役割も変わっていくだろうし、ファンダムがスターに求めるものも変わっていくかもしれない。

自分の崇拝する俳優の出演映画が世界的にヒットし、みんなに愛され、彼らが「汎インド俳優」になるということは非常にめでたい一方で、テルグ特有の情念から成立した「我々のNTR」「我々のラームチャラン」の虚構性を目の当たりにすることでもあろう。

インドと言っても広くて全然統一的なイメージがつかめないものだなあと感服した次第。いい体験になった。

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