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竹美映画評101 同性愛を治しましょう! 『ある少年の告白』(2018年、アメリカ・オーストラリア)

同性愛は治るのか?私の体験と直感は「治りません」という結論が出したが、他方に「治って欲しい」という祈りがあり、その受け皿となるものがある…今回の映画は考えれば考える程大変アメリカ的な現象である同性愛矯正施設についてのお話。

あらすじ

2000年代アメリカ。敬虔なクリスチャンで裕福な家に育った少年ジャレッド(ルーカス・ヘッジズ)は18歳、大学生のときに、同性愛矯正施設に入れられてしまう。施設の指導者サイクス(ジョエル・エドガートン/監督も兼ねる)は集められてきた若者達に色々な活動をさせていく。ジャレッドと一緒に施設近くのホテルに滞在する母(ニコール・キッドマン)は、彼を矯正施設に入れることを一方的に決めた夫(ラッセル・クロウ)には遠慮して何も言わず、息子を支えている。次第に疑問が膨らんで来たジャレッドは次第に反抗的な態度をとるようになる。それを見とがめたサイクスは父親への憎しみをぶつけろと命じるが、ジャレッドは反発する:「父さんを憎んでなんかない!誰のことも憎みたくない!今憎いのはあんただよ!」

マーケットで取引される同性愛の矯正

今回の映画は、宗教VS同性愛者というGoodとEvilを巡るアメリカ人の果てしない戦いを象徴する同性愛矯正施設を舞台にしている。故に物語がどちらに進んでいくかは最初から予見できるのだが、本作は意外にも俯瞰的で、皆本当はよく分からないまま生きているただの人間なんだという感想を持った。オーストラリア人の監督ジョエル・エドガートンの優れた手腕によるものと思う。

同性愛矯正施設については、もはや往年のと言った方がいいのか、コメディ映画『Go!Go!チアーズ』を思い出す。「あんたはレズビアンよ!」と周りに言われたチアリーダーのメーガン(ナターシャ・リオン)は同性愛矯正施設に送り込まれる(「あ、あたしレズなんだァ…あはははは」とよだれ垂らして泣き笑いする演技が光っている)。そこでは「同性愛が治った」とするスタッフたち(あのル・ポールが男装して登場!)と、強烈なキャラの院長(キャシー・モリアーティ)のもと、若い同性愛者男女が日々指導を受けるもあまり効果は無く…というお話。先輩ゲイが「あなた方をドアのところまで連れて来ることはできる。でも、そこから先は自分で選ばなきゃ」と背中を押す、笑いながらも泣けるお話だった。

本作では、施設は9時から5時までで通い形式になっており、各自近所のホテルから通っている。母親がホテルで待っており、毎日車で送り迎え…ある種の牢獄だ。しかし、はたと気がついたのだが、こんなところに通えるのはお金持ちだけだ。主人公ジャレッドは大学に入学してからここに放り込まれている。父は人望篤い牧師であり、自動車ディーラーを経営する地元の名士だ。息子に仕事を継いでほしいとも思っていることが後で分かる。

ここがアビゲイル・シュライアー著『トランスジェンダーになりたい少女たち』が取り上げた、主に白人の中~上流家庭の少女たちの様相と重なる。少女たちの「性別移行」の願望や、本作の「同性愛が治って欲しい」という親の願望は方向としては全く違う方向を向いているが、その願望の受け皿が即座にマーケットで取引される商品になるという社会状況が見える。

同性愛は治るという祈り

施設ではどういう人が指導しているのだろうか。代表のサイクスは、「ここにいるスタッフは全員同性愛を克服したのだ」と断言する。つまりサイクスもまた同性愛者「だった」のである。それは丸ごと何かの冗談に思えるのだが、本作は、「同性愛者なんかに産まれたくなかった」という祈りをそれなりに尊重して描いているように思われた。そして、サイクスが若い矯正対象の男女に対してぶつける言葉に、彼自身の歩んできた苦悩の足跡があるように思われる。

彼は、思うように矯正が進まない若者をたきつけ「さあ父親への怒りを表明しろ」と言う。しかし…怒ってなどいない若者達は困惑気味。恐らく怒りを抱えているのはサイクスの方ではないだろうか…という疑問を抱かせるのである。

また、家系図を書かせ、それぞれに同性愛やドラッグ、暴行、ポルノ視聴、逮捕歴、精神疾患、中絶などが無かったを書かせる。もし該当する者があれば、「あなたの同性愛はこういう家族の影響なのだから、自分の意思で「悪」を克服できるのだ」というロジックが成り立つ。私はじめ現代の大半の人はバカげていると思うのだが、彼らは真剣だ。信じるところに道ができる。

他の異性愛者とみられる男性講師は、ドラッグに暴行、逮捕歴と悪い経歴を持っており、それを「克服した」ので若者達を指導できると言う。ツッコミどころが多すぎて何を言ったらいいのか分からないのだが、中にいる入所者にとっては死活問題だ。

どうしようもない荒くれ人生男が神の道に活路を見出し、銃と聖書を手にしてアフリカに乗り込んでいく物語『マシンガン・プリ―チャー』も思い出す。サム・チルダースは己の暴力性を「正しい」ことに使うことに決めたわけだが、多分、本作の男性講師も全く同じだと思う。

しかしながら彼らは何の資格もない非専門的な人々である。つまりは、自分で同性愛矯正をしますと言い、セールスをして不安を抱えたクリスチャンの家や組織をあたれば直ぐにお金が集まるのである。胡散臭いのだが需要がある以上、ビジネスとして成立するのである。サイクスはある意味で自分を売っているのである。実に逞しい。

同性愛矯正は反転した悪魔祓い

ところで、キリスト教の中では同性愛は堕落とされ、自分で選んだ行為だと考えられているようだ。そして、地獄行き決定の堕落から人を救うには2つの道があるようだ。悔い改めるまで本人が自分を責め立て続けるよう促す(外から見ると拷問にしか見えないわけだが)か、或は、方便として、「悪魔」を虚構し、その悪魔を祓うことで「済んだこと」にするという悪魔祓いのどちらかである。矯正施設での様々な厳しい指導は前者、後者は「家族の中に悪徳の根源がいる」と自覚させることが該当すると思う。

本作では悪魔は言及されるものの、誰一人、悪魔のせいで同性愛者になったとは思っていない。悪魔さえいれば、罪と人を分離できるはずなのに、実際には超自然的な力に頼ることも、それのせいにすることもできない。

「悔い改めた」=「同性愛が治った」というのはどうやって証明できるのだろう。口先で反省文を述べるだけでは直ぐに見破られ、厳しく責め立てられることになる。その上で「異性愛者の、ノーマルのふりをしろ」と教えられるのであるから皮肉だ。「治らない」ということを何となく了解しているフシがあるからだ。同性愛矯正は虚構だということを示唆している。治したい人にとっては本当に災難だと思う。

悪魔憑きは、何度か書いて来たように、直視するのが非常に困難な事態、特に難病患者を介護する家族の苦境と近似している。そこに悪魔という媒体を使うと腑に落ち、納得でき、もし「祓う」ことができたなら、次のステップに進むことさえできるし、打ち勝てなくても悪魔のせいなんだから納得できるではないか。例えそれが当人にとっての「抑圧」に帰結するとしても。

悪魔祓いは、当人のためというより、周りの人間やコミュニティが安寧を回復するために為される。また、悪魔憑きの実在を信じるとしたら、当人の意思というものは100%無視されることになる。「悪魔のせい」なのか、「悪魔の力を借りたその人の本音」なのかは分からないからだ。

例えばロバート・エガース監督は、悪魔に淫した魔女に恐怖と「因習からの解放」の両方を読みホモフォビアを内面化した同性愛者男性が悪魔によって本音を暴かれ、ある意味で堕落、ある意味では解放される様を描き出したが、キリスト教を共有しない私には、「悪魔」と「ホンネ」の重なりが見える。特に後者の『ライトハウス』は、「同性愛者の自分が嫌だ」という気持ちは理解できるものの、それを「恐怖」として演出する意味やその重みは直感的に分からない。故にこのように「アタマ」で理解する他ない。

悪魔祓いも同性愛矯正も、「ホンネ」を押し殺してでも「ふり」をせよと教えている点が興味深い。抑圧的でありつつ外に対して「ホンネ」を見せないというかの国の強がり文化は、例えLGBT∞の支持者であっても逃れられまい。だから、「マッチョ男性は自分を抑圧している」などと批評されるのだろう。本当にそうかどうか、というよりも、そのように見ているということ…何故なら皆が自己抑圧を前提としているから、抑圧から自由な人がいるなんて信じられないのではあるまいか。それがピューリタンの社会なのだと思う。

悪魔と同性愛の矯正を虚構する一方、それらを反転させたクィア思想は喜んでサタニズムのレッテルを受け入れる。大半の人間はその中間にいて、「ホンネ」を巧みに偽装しながら生きている。LGBT∞の擁護をやり過ぎてしまうアライも、それに対して反発するアンチも、本当はホンネなんかわかりたくないのかも…と思ったりする。

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