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政治オンチ、ボリウッド作品の不人気を考える

今起きていることの何を読み取ったらいいのか、また、どう表現するのがいいのかと考えてみる。ずっと考えて来たとおり、私は政治現象に対する視点が常にぶれている。この2020年代をどう捉えたら自分はすっきりするのだろう。進歩主義ルネサンスという光に安らぎを見出し、その実、行き先が分からずさ迷い続けているのだろう。

この点について、『ポルターガイスト』のタンジーナの解は明快だ。フリーリング一家の末娘キャロルアンが霊界に取り込まれ、家には幽霊たちが溢れる。幽霊たちについてはおおよそこんなことを言っている。

あの人達は、とうに死んでいるのに気が付いていない。永遠にさめない悪夢の中をさまよい続けているのよ。キャロルアンが放つ光を見ていると、生前の楽しかった記憶が浮かんでくるのね。そこに立ち止まってしまう。でもそれは彼らが向かうべき、本当の安らぎの光ではないわ。そして、そういう迷える霊たちをここに引き留め、利用している者がいる。キャロルアンにとって友達でも、私達にとってはBeast=けだものよ。

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←やっぱり何かが見えている人は言うことが違う…!

パヨクのための映画評の同作に言及した回で、この設定について「パヨクと同じじゃん」と思いあんまり笑えない気持ちになったと記した。そして、今思うと、Beastってどんな人のことなんだろうねぇ…。そしてグレタさんってキャロルアンなのかなぁ…。

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←もっと厳しい声で!!お子さんを取り戻したくないのッ?!

安倍政権は、私みたいな「さ迷える霊」を炙り出して、ある程度Beast側の力を削ぐことに成功した(この言い方許してねw)。安倍政権の10年間は、私にとっては、夢から目覚めてパヨクリハビリに取り組んだ結果、自分のよって立つ場所を少しずつ失くして行った時代だった。

幻想にしがみつかないで、本当の光の中に入ってしまえば、新しい時代をもっと楽しく生きられるはずなのに、依然、私は光の中には飛び込めていない。それともこれが、光の中?この全く明快でない状態が?

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←結局何名がちゃんと光の中に飛び込んで成仏したか怪しい

ところで、私だけじゃないよね?こういう人。

こういう経緯もあって、以下のようなツイートを見ると、今のボリウッドを巡る政治の状況と、インドの文化消費の様相をどう捉えて、どう書いたらいいのかなと考える。

2015年以降のモディ政権は、確かにヒンドゥーマジョリティにとっては心地よいのではないかと思う。経済的繁栄が不十分なりに全体の生活の底上げにつながっている点と併せ、対中国の緊張感を絡めてインドという国家が国際的存在感を高めていることが、何かしらのロマンにもつながっていることは映画にも明らかである。今年公開された数々のシヴァージー映画は、ムスリムのムガール帝国やヨーロッパに対抗したヒンドゥーのマラーティー王国の英雄を讃える物語である。また新作が公開されたので観るつもりだ(彼氏がシヴァージー好きなので)。

この中に『RRR』のヒットはすっぽり収まって見える。

ミクロレベルで相変わらず起きている混乱や悲惨をマクロレベルの安定感に回収するには…もはやモディ的なポピュリズムしかありえなかったんじゃないか…そんな予感もしている。モディ自身は立身出世の人として自分を演出して来た。もし本当にそうだったとしたら、ネポティズムや差別の強いインドにおいて、恐ろしく強引なことをやってきているのではないかと想像される。ヒンドゥー至上主義的な運動に入った経緯も、それ無しには上に上がれなかったということかもしれない。何か新しいものを持ってきてくれる人物は、往々にして、お前は邪悪側の人間だったかと、味方に憎まれることになる。見ている角度や方向が全く違うのである。私はこれを見抜く力が足りていない。

ところで、今のインドの人が、70年代や80年代インドの暴力や混乱を映画の中で観ることの意味は何だろう。

『Laal Singh Chaddha』は宗教に基づく騒乱をインドに根差した問題として描いているものの、それはあくまで「過去」の中にある(『フォレスト・ガンプ』はそういう映画だったでしょうそもそも)。また、インディラ・ガンディーをモデルにしたと思われる女性首相がカルナータカのハンサムで脚が長い義賊にしてやられる映画『K.G.F:Chapter 2』が全国で大ヒットしてから間もない。

モディ政権を「極右政権だ」と捉える立場から見れば、ネット上で展開するアンチボリウッド感情(ボリウッドがヒンドゥー・インドを代表していない上ムスリムびいきだという主張に、業界内の身内びいきとか金持ちへのやっかみとか色んなものが引っ付いていると推測)とその政権の在り様を関連付けて批判するのは難しいことではない。特に外国人の立場からは。でも…モディ=極右であるということが、一般人のアンチボリウッド感情、そして、更にはそこから流れ出て来るボリウッド映画全般の明らかな興行収入の低下現象に繋がっているというところで考えを止めてしまうのは、私のしたいことではない。

例えば、タミル映画の方がアグレッシブに社会階層間の差別や摩擦についての映画を作っているようにも見える。タミル映画には「我々はヒンドゥーだがヒンディーではないし、白いインドではない」というような傾向があるのだろうか。確かに「白いインド」ばっかり出しているボリウッド映画は現実のインドを表現しているとは言いがたい。Brahmastraの守護者たちの肌の色が一様に白かったことを見よ。

そのような形で、言語や社会階層というレイヤーでボリウッド的な表現とは一線を画しているとしても、宗教というレイヤーでは必ずしも極右的なアイデアと矛盾しないようにも思われる。

一方、インドの現大統領がどんな人なのかを見ると、それを肯定的な変化として評価するのか、そんなものには騙されないぞと思うのか…それがまるで、自分の政治的立場の表明であるように見え、「踏み絵」と感じられる。安倍政権下の日本にいた自分のことを思えばね。現実の変化が見えなくなっているのではないかという疑念が私の中にある。

アンチボリウッド現象は今のところ、皆がボリウッド的なものに飽きちゃったのではないか。国民が全体として、南インドの映画を支持した理由は、それらの作品が単純に「面白かった」からだろう。

外国人の私から見て「正しい」映画がここでヒットするとは限らない。ニュース等で何度か指摘されるように、皆が配信サービスで映画を観ることに慣れてしまったこと、また、吹替で他言語圏のインド映画を観ることに面白さを覚えたことで、映画館に敢えて行きたいと思わせる特別さをボリウッドが提案できていないのだと思う。アグニホトリ監督はその点、辛辣だが真っ当なことを言っている。

今や、日本のインド映画ファンが東京の映画館で行われるインド映画ウィークの各言語の名作を字幕付きや吹替で観られることを楽しみにしていることの後を追うように、全インドの映画ファンが、あらゆる言語のインド映画を楽しんでいると考えたら。

確かになー、ボリウッド映画の新作予告編を観ても、「またこの人かー」とか私ですら思うもんなー。未見の『Vikram Vedha』だって、あのキャストで絶賛されたタミル語作品を、なぜわざわざボリウッドの二世キャスト(リティク・ローシャンとサイフ・アリ・カーン)でリメイクするのかなって思う。『Ek Villain Returns』に感じた、え?何で今これなのwwという疑念は、私だけじゃないと思う。

インドの集合意識には、宗教に根差した「あいつらに何かしてやりたい欲」が渦巻いていることはひしひしと感じる。これは、連鎖的にも、直接的にも実害に繋がる可能性があるから無視できない。しかし、「極右的な政権下で文化消費に大きな変化が起きていることに危機感を覚える」という物語を描くのは私じゃなくていいと思う。私が描いたって…何せ書いているのは、上記のホラー映画で言うならば、キャロルアンの放つ光に幻想を見出している方の私が書いているんだから、読んだって現実感なんか無いだろう。そこは他の人が、もっと生々しい実感を以て伝えて下さるはずだ。私もそちらに耳を傾けたい。

インドという異国の空気にあてられて、「パヨクリハビリ」をやった時間を全て巻き戻して先祖返りすることを懸念している。そこを通って連鎖的に違うものが出て来るならまだしも、私においてはあり得ないだろう。だっていつも私を呼んでいる声がする。昔の自分に戻れば楽だ、そうすれば褒めてもらえるぞと。そうはいかないよ。

追記(2022年10月19日)。

こういうことなんじゃないかなって思うんだな。ボリウッドよ、うまくいかないリメイクばっかりやってんじゃないよっていう指摘は的を得ていると思う。

宗教に根差した文句を言いたい欲は常に渦巻いていることは事実だけど、それは、ほっといても周期的に湧いてきては爆発して一時的に皆を不安にさせるけれども、直ぐに忘れてしまう。そういう風に見える。

作品に対するボイコットではなく、アーミル・カーンに対するボイコットであったが故に、Netflixに来たとたん、インド国内で視聴が1位を記録した『Laal Singh Chaddha』。もしかすると、本作はボリウッドが飽きられているという現象に、スターボイコット感情が乗っかったものだったとは言えると思う。繰り返すが、それが、観客たちのボリウッド作品・関係者全員に対する反発や攻撃に繋がっていると理解するのはまだ早いと思う。

脱宗教とそこにある自由を描くことを含め、先行して変化や試練(身内びいき傾向に対する批判)を経験してきているボリウッドは、他言語、特に南インド映画群にとってはいい教訓になると思う。私は楽しんで観ることができる、南インドの田舎任侠映画の痛快さは、確実に宗教と国家主義の両方に軸足を置いている。国家主義よりも、特に宗教のコードは外してはならないと南の映画界は学んでいるんじゃないだろうか。

奇しくもアメリカの新聞社が政治の「右傾化」とボリウッドの冷遇を結び付けて論じている記事が出ていた。もちろんそういう部分もあるのだと思う。だが、観客が離れているということは事実だ。或いはこうなのかもしれないと思った。

なぜアメリカの新聞社がインドの映画界のことを取り上げるのだろうか。

アメリカとインドは、同程度に宗教性の強い社会で、宗教無しには成り立っていない。そういう社会において、個人の自由を追求するという正義(或いは富裕化に伴う選択肢の増加の副産物としての「楽しさ」を享受することと裏腹の正義)は、必然的に宗教意識や宗教コニュニティーと対立することになる。恐らく、アメリカの今の状況は、その対立の結果が国論を二分するような形になって先鋭化しているのではあるまいか。宗教共同体の逆張りを続けて行った結果、やってることは宗教共同体の相似形になっている…。トランプ現象はそういう意味では脱宗教の自由を追求してきた側から見れば、「政権の右傾化」で容認しがたいことだろう。

今、インドの状況からそれを考え直してみると、「そうなっても仕方ないよね」と思う。しかし、そのように反宗教チャレンジの敗北(または戦略の失敗)を認めるよりは、インドの状況に自分たちの未来や過去を重ねて語る方がいいのかもしれない。

宗教共同体から様々な妥協を引き出す戦術というのは、相当慎重にやらないとうまくはいかない…アメリカの例からはそういう学びがあると主張している人もいる。松浦大悟氏はその一人だろう。インドもまたそういうものを体験しているのではないだろうか。

宗教指導者からは、名誉棄損すれすれのことを言われるボリウッドスターたち。シャー・ルク・カーンの息子が逮捕されたのは事実だが、上のアメリカの記事「When the Hindu Right Came to Bollywood」では彼の逮捕は、右傾化の影響による現象の一つとして取り上げている。どうなのだろう。私が思うに、「モラルの欠けた怪しからん人達」の枠内にボリウッドスターたちが入れられてしまっているのだと思う。ドラッグの問題を深刻に取り上げない方がどうかしていると私は思うのだが(アメリカの場合はドラッグ位でそんな拘束すんなよって感覚なのか。人権の感覚も全く違うだろうしな…)。

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