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踏み絵になってしまうことというのがある。例えば私にとっては『シン・ゴジラ』がそれだ。あの作品に乗れなかったことで、これからの日本にとって私ってのはあんまり合わない、必要ない存在なのかもなぁと思った。

昨晩の五輪開会式も、Twitterを観察していると、また次の踏み絵だったようだ。今回は、視聴することそのものや、それに対する反応である。あんなのに喜ぶ人なんて無理!という声。それだけで他人の何をジャッジできるのか分からないけど、うん、そうか、と納得はできた。

コロナ禍で色んなことが違った風に見えてきて、何だかホラーやダークファンタジー的な世界になったなと思ってはいた。昨年秋から今年初めまでは、私は仕事も見つからず初めてのことでなかなか辛かったのであの頃はあまり世の中を見ていなかったような気がするが、仕事をもらえて安定してきてみると、なんかものすごい世界になった気がした。

五輪の後、確実に日本はギスギスするだろう。我々は踏み絵を踏んでしまった。虚構だと分かった上で最後まで役を演じ続けるのもありだし、全てに距離を置いて世界を否定し自分の結界に閉じこもるのもありだ。何も考えずその場その場を楽しむのもいい。

コロナは、世界を変えたというよりは、我々に、世界の有り様を違う角度から見るよう促した。コロナ体験を通じて私の見方も変わってしまった気がする。新しいことにあまり強い関心を持てなくなってしまった。意欲も減った。でも少しだけ平穏な気持ちでいる。こんなに気持ちが楽しくならない開会式も初めて。これまでも虚構の上の祭典だったし、これからもずっとそうなんだと見えてしまう。

政治的主張を持ち込むなと謳っている割に、五輪ほど、見る側に国家主義の憑依を促すイベントも無い。選手ひとりひとりを応援しているような、そうでもないような変な立ち位置だ。でもそれは、国家と個々人の関係そのものだ。我々は結局、国家というインターフェースや、マスメディアというAPIを介して他国の人と向き合う他に手段が無いのだということを教えてもらっているのかもしれない。パスポート無しではどこへもいけない以上は。

ウガンダの選手団が出てきた。脱走して本国送還になってしまった彼への言及は無い。香港の選手団についても何かを言えなかったが、ミャンマーの動乱については言えるという立ち位置である。台湾は国として認められないが、大韓民国の次に紹介される。アメリカは最後から三番目。アメリカの放送時間に配慮したとも聞こえてきて、もう何もかも馬脚が見えてしまっている。

また、アフリカの選手団を観ていると、もうどうにもならないものを感じる。アフリカの選手団は押し並べて人数が少ない。中東系で石油の出るアフリカの国とそうでない国の選手団の規模の違いは明らか。そして、アフリカの中でも選手団が大きいのは白人のいる国。南アフリカとジンバブエの経済構造が分かってしまう。その中で圧倒的多数で人種も多様なのはアメリカだ。スポーツという娯楽に莫大な金が支払われ、楽しむことができるのだ。多様性とは国力のおまけに過ぎない。或いは選手に国家を背負わせる力を持つ中国も凄みがある。

元々スポーツができない上、スポーツのできる子たちの無意識の傲慢さを中高の頃から密かに嫌っていた私としては、どこどこはレスリングが強い、と言われると、そんな男性性剥き出しの国では私みたいな人間は平穏に成人できないだろうな、と考える。或いは、アスリートになることで、社会の厳しさから逃れるのか。でも、アスリートって、そんな偉いの?エッセンシャルワーカーの人たちを取り上げていたけど、五輪の旗を運ばされていたので、ある意味正しく扱われていた。全部五輪のためなのよ〜ってね。

バッハ会長、天皇、菅総理、小池都知事の四人が並んだ絵は印象的だった。今日本で一番憎まれているトップスリーまでがそこにいた。天皇のお祓いを持ってしてももうどうにもならない。そして、天皇そのものも何だか小さく見えた。

コロナがあと一年遅く起きていたら、五輪は五輪として私の中でそのまま存続し、これまで通り興味も持たず、故に虚構に目がいかなかっただろう。スポーツなんて興味ねぇや!と開会式も無視したかもしれない。何せ、あの頃は五輪以外にやることは沢山あったのだから。でもこうして、家にいるしかなくて、やる気も意欲も減った今、せめて観ておこうという気持ちで開会式を観た。開会式の出し物に素直に反応し、歓声を上げる彼氏の横で、ダラダラとビールを片手に観た。あ、そうか、楽しんだり喜んだりしたっていいんだな、と思った。私は、よく分からなかったよ。

楔は、結局のところ、五輪やコロナが打ち込んだものではなくて、我々がその都度その都度を生きやすく、またはわざわざ生きづらくするために、自らやっていること。『カラーアウトオブスペース』のラストシーンで、青年があの大事故を振り返るように、我々も生き延び、振り返ることができれば、いつかこの日々の意味が分かるだろう。


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