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ホラー映画から見る現代社会⑤ アメリカは変わらない。偽アポカリプス映画『シビル・ウォー』

トランプ前大統領に対する銃撃事件は、私の思想転向、いやパヨク訂正活動において一つの記念碑的事件となった。「死ななくて本当によかった」と思ったからだ。10年前の私なら、スティーブン・キングの『デッド・ゾーン』を重ねて犯人の方に感情移入しただろう。

映画批評家ロビン・ウッドが絶賛したアポカリプス映画

南北戦争を意味するタイトルの『シビル・ウォー』という映画の日本公開に合わせてアポカリプス映画について見ておきたい。

1978年に、ゲイの映画批評家ロビン・ウッドが残した文章をおさえておきたい。ジョージ・ロメロ監督の評の中で、ウッドは、ゾンビ三部作、すなわち『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』、『ゾンビ』、『死霊のえじき』について絶賛している。

The Living Dead trilogy, on the other hand, constitutes, taken in its entirety, one of the major achievements of American cinema, an extraordinary feat of imagination and audacity carried thought with exemplary courage and conviction.
(拙訳)
ゾンビ三部作は、それに対し、その完全さにより、アメリカ映画の重要な到達点の一つをなし、想像力の並外れた功績であり、賞賛すべき勇気と新年によって成し遂げられた大胆な行為である。

'George Romero' (written in 2000) from Robin Wood "Robin Wood on the Horror Film: Collected Essays and Reviews (Contemporary Approaches to Film and Media Studies)", Wayne State University Press (30 November 2018) Kindle version

彼が絶賛する理由は、同シリーズが、アメリカ文明の「ノーマリティ」(人種、家族、ジェンダー、資本主義、軍隊…等)に対する強い批判になっているからである。アポカリプス=黙示録は、大災害が起きて全てが破壊されて(嵐の素顔:工藤静香)しまうことを意味する。

キリスト教の終末論を映画として体験すると、普段「あたりまえ」だと思っていたものの本性や、本質が露わになる事態だと言ってもいいと思う(嵐の素顔に着地だよ!きえええ)。

ウッドは思想的には左翼なので、今の秩序が否定された地平に並々ならぬ興味を抱いているものと思う。ただし、今日、彼の後継者に当たる人達が無意識に、或は意図的に取り組んでいる今の秩序の劇的な変更を彼自身がどこまで具体的に考えていたかは分からない。

同性愛に厳しかった時代のイギリスに生まれ育ち、女性と結婚もした後カナダに移った彼は、草葉の陰で喜んでいるかもしれないし、全く違うことを考えているかもしれない。

連邦政府への抵抗を描く『シビル・ウォー』はアメリカを否定しているか?

『シビル・ウォー』はインドのアマゾンプライムで先に観たのだが、英語字幕英語音声だったので、どの陣営がどこと戦っているのかが分からなかった。そこはこちらの記事で補った。

連邦政府の横暴にテキサス・カリフォルニア連合が蜂起。そこで政府側の大統領にインタビューをしに行くジャーナリストたちの命がけの路程を描くロードムービーである。

アメリカが内戦状態になるという物語は、『パージ』シリーズでも扱われた。同シリーズにおいては、最後は『フォーエバー・パージ』となって、もはや「パージ」の映画であることを止めた。劇中、パージとは、年に一度ほとんどすべての犯罪が許される夜のことを指している。

さて、『シビル・ウォー』は、観た後ですら単純にアポカリプス映画だと思っていたが、上記説明を読んで私の思っていたのと全然違ったことが判った。

連邦政府の何に対して抵抗をしたのかによっては(作中で明示されたかもしれないが私は察知できず)、本作はアメリカの分裂状態の一触即発の状況(トランプ氏銃撃はその意味でとても恐ろしかった)を想起させはするものの、それは表面的なことで、むしろ「アメリカ」の価値を毀損した連邦政府に対抗した市民による正統なアメリカ精神の回復と再興を描いているようにも見える。それ自体は、アメリカの成り立ちや国是から見て変なことではない。

監督も語っているが、今の世界は私が子どもの頃に感じていた世界とまるっきり違う。アメリカ映画に憧れて来た日本の映画ファン、憧れながらも反米精神も内面化しているファンである私にとっては、一体、アメリカという国の在り様の何が変わって欲しいのか、変わって欲しくないのかという点を決めることができない。両方の気持ちがずっと共存して来たからである。

『ヒルビリー・エレジー』のメッセージにパヨクの私も泣いた!

今回、共和党の副大統領候補は、『ヒルビリー・エレジー』の原作者、J・D・ヴァンス氏である。

Make America Great Again(アメリカを再び偉大にしよう、MAGA)という言葉に関し、今読み返すと、上記の『ヒルビリー・エレジー』評で私は「空疎なスローガン」と呼んだ。だが同時に、この映画はここ数年で最も落ち込んで辛かった自分に「頑張れよ!あきらめるな!」と活を入れてくれたのだった。パヨクで反米の私から見てさえ、あのスローガンは全く空疎なんかじゃなかったのだ!

この「頑張れよ!あきらめるな!」こそが私が反米主義のくせに憧れ続けて来たアメリカの価値なのだ…と考えが訂正された。

私がアメリカ映画に魅了されていた頃に、アメリカに夢を抱いて渡って来た人々も、恐らく「頑張る」ということに大きな価値を見出すアメリカの価値に惹かれてやってきたものと思う。

インド系の保守派論客Dinesh D'Souzaの『United States of Socialism: Who's Behind It. Why It's Evil. How to Stop It.』を読むと彼は「憧れたアメリカ」を支持するからこそ保守派の立場を取るのだと読めるし、ベトナム系の保守論客となったAndy Ngoも我那覇真子によるインタビューの中で、ベトナムから渡米し、苦労して自分を育ててくれた両親について話す中で、やはり「アメリカとは何か?」という価値について語っていたと思う。

以前私は、移民が保守化することに関して何となくバカにする気持ちを持っていた。でも、自分がインドでガイジンをやっていること、そしてLGBTQ運動の問題性を理解していく中で、上記の人たちの声に気がついた。「憧れてやってきたアメリカが壊されてしまう」のは恐怖であり、悲しく、ひどくつらいことなのだ…まあこれは彼らが虚構したい物語なのだとして、それを支持する人々が大変多いということは忘れるべきではない。

ミクロレベルの「頑張れ!あきらめるな!」精神がどういう形で集合的なアメリカ人の価値観である善悪二元論に接続しているのかというのはアメリカのホラー映画を考える上でも大事な気がしてきている。

それが国民としての自己肯定の強さに繋がり、それ自体が何に帰結するかはまた別のこと。

アメリカは「差別システム」抜きに成り立つのか。

さて、民主党のハリス候補と、共和党のトランプ候補のどちらが「アメリカ」を体現していると皆が考えるのか。

私は、「私の憧れであり、同時に全く共感できない「アレ」であるところのアメリカでいて欲しい」という欲があるから、恐らくトランプ支持なのだろう。

ハリス候補は「アメリカを改革する」人たちの象徴であろう。そして、支持者によって、アメリカが私言うところの「共感できない「アレ」」であることを止めるために取り組む存在として虚構されている。

しかし、ホラー映画の研究(特に悪魔祓い映画)を通じて思うのは、「国民の共有する価値観というのはそう簡単には変わらない」ということだ。きっとアメリカ人の大半は今後も悪魔祓いという善悪二元論を支持するだろう。善悪二元論こそが、アメリカにおいては先住民の排除、人種・民族で階層化された差別システムと、「世界はアメリカのようになる」という強烈な勘違いを維持するエネルギー源であり続けたのではあるまいか。それはハリス政権になったとて、さほど変わらないのでは…。

ハリス候補を支持する左翼運動は、アメリカをよくしたい、という善意を前面に出してアメリカの国是(差別システム)の訂正を虚構しようとしている。しかし、「差別システム」無しに…つまりは、「マイクロ・アグレッション」や「ミスジェンダリング」や「有害な男性性」等を反差別政策によって「差別システム」を終わらせ、福祉政策によって貧困を一掃し、素晴らしい国にする…あの国がそれで「うまく行く」のだろうか。恐らく多くの人が疑念を持っている。

チリの社会学者がアメリカ人の心に流れる物語を析出した優れたアメリカ論、『ドナルドダックを読む』を思い出す。バカンスで熱帯地域に行き、行った先で、超自然的で非科学的な要素を伴う善悪の対立を知った(勝手にそう解釈している可能性を省みない点がポイントだ)主人公がヒーローとなって悪を成敗し、善のパワーを取り戻す。そして善の人々からの尊敬と信頼を得てアメリカに戻って来るのである。

この冒険譚が80年代、『インディージョーンズ』シリーズ、特に『魔宮の伝説』において開花していたことを思い出してみて欲しい。あのハリソン・フォードのアメリカは、私にとって憧れでもあったし、同時に後から批判するようになった「差別システム」が明らかな映画だ。

ジョーダン・ピールは、『アス』で「差別システム」抜きには語れぬアメリカの国是をブラックユーモアとして見せ、先鋭化した差別運動に対し、これ以上ほじくっても何も出て来ないよーと言っていたのかもしれない。

「差別システム」があっても尚、「頑張れ!あきらめるな!」という社会原理が世界の人々をも魅了し、元気づけ、不完全ながらも偉大な国家を作り出してきた…私にとってはそういう国なのだろう。行ったことは無いから、行けばまた考えが変わるのかもしれないが、当分その予定はない。

ところで、アレックス・ガーランド監督は、記事では反トランプであるかのように発言した旨書かれていたが、そういう「決めつけ」とバイアスこそ、彼が批判したかった「マスコミの堕落」のように思うのだがどうだろう。彼は皮肉ったんじゃないか。

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