見出し画像

竹美映画評41 レリゴーしたインドの女はサラコナー化するの? "HIGHWAY"(2014年、インド)

私はどうしたって「西欧の方が進んでいて日本はとにかく遅れている」と感じるリベラル・左翼・進歩派・近代化主義者の末裔だから、共同体の抑圧から個が脱出して成長するところまでを描く物語が好きなのね。シャーリーズ・セロン的なネットフェミニズムに言わせれば、家父長制なり男尊女卑なりミソジニーなりホモソなりで成り立っているこの社会は「いっぺん滅んだ方がいい」というシロモノである。他方で、それでもやっぱり人が生きる場所はこの社会だけなのだということを映画は繰り返し描いている。

その上での話だけど、伝統的な価値観から味の好みに至るまで保守的な態度を見せがちなインド社会においては、個は共同体との間でどういう脱出のしかたをするのだろうか。今日は、予想外の形で自分の共同体から離脱し、「自分」を生きてしまう…つまりレリゴーしちゃったインドの娘さんの物語よ。

https://www.netflix.com/jp-en/title/70303424

↑Netflixでは英語字幕で視聴可能。

↑予告編。

レリゴーする、ってヘンテコな言い方だけども、日本におけるレリゴーの意味の軽さ…というか日本ではその軽さこそが美なのだと思うけど…を出すにはその位がちょうど良い。ちなみに九州でレリゴーするとこうなるみたい↓

今回の作品のあらすじ:

富豪の娘ヴィーラは、結婚式の前夜にひょんなことからしょぼい強盗団に誘拐されてしまう。怯えるヴィーラをよそに、強盗団のリーダー、マハビールは、地元ギャングのボスから「あの金持ちの娘なんか連れてきやがって!アイツらを敵に回すなんて絶対ダメだ!」と激怒。貧民出身のマハビール一味はそれでも身代金を取るため策を練り、ヴィーラを連れてトラックに乗り、北部インドを目指してハイウェイを走り始める。その中で次第にヴィーラは心が解れていくのを感じる。

一年半に亘りインド人の彼氏と暮らしてみて思ったのだが、インド人は、自己主張においては、韓国人の主張を高速核分裂させたようなものすごいパワーを発揮する。割と大人しめの私の彼氏にしてそうなんだから、激し目のインド人はそりゃあ歩くだけで周囲の人が吹っ飛びますわな。

私が観るに、インド社会は、多種多様なものを受け入れて混ぜ込んでいく寛容さもある一方、その「寛容な伝統」から飛び出すのは難しく、違反者への制裁も厳しい社会のように思う。個々人の我が強い社会だが、個々人を大事にする社会ではない。そんな中でシャカイの呪いを逞しく跳ね除けるのが、本作主演且つ『ガリーボーイ』で、鉄拳制裁タイプのムスリムの娘を演じたアーリアバットさんである。

彼女は可愛いんだけど凶暴性丸出し。そんな彼女を伝統の枠に押し込んで黙らせるなんて不可能。そういう説得力のある女。『HIGHWAY』の最初のシーンでは、結婚式前に「ちょっと息抜きよ!」と結婚相手と夜外にドライブに出かけただけ。何と健全な。「いいおうちのよい娘なんだな」という印象なのよ。でも実は、家族の前でよい娘を演じ続けていただけだったということが、誘拐事件の後に明らかになっていく。そこが『ガリーボーイ』のサフィーナと重なるのだが、因習の前で悶々としたり葛藤する姿が突き刺さる。泣く時鼻の穴を大胆に膨らませるのね。その姿さえも凶暴…。

マハビールもまた、貧しさ故に心を封印し、仕方なく強盗団になり、自分ではない人生を生きることになった模様。

本作は『悪人』同様、ストックホルム症候群※の物語でもありつつ、因習に縛られて自分を封印していた男女が、出会いを通じて解放されていく物語だ。『悪人』の二人は控えめだ。日本人はそもそも自己抑制をよしとする性質もある上、レリゴーの規模が小さめ。そして何となく女の方が男の面倒を見る感じになる。それこそ因習的な感じもして、物語としてはカタルシスが(中途半端な洋もの好きの)私にはちょっと足りなかった。でも、そういう風に九州社会の限界も描いてるのね。

※ストックホルム症候群

本作も何となく女が男の面倒を見そうなフシはあるのが日本と似ているのだが、インド人は我が強い。強い社会的抑圧の中での諦めと同時に「絶対許すもんか」という爆破の余地も常に残されているように見える。そもそも自己抑制をしないので、「本当の自分はこれだ!」という像がどんな内容であれ、日本人より明確なのではあるまいか。←自分を俯瞰できているかは問わないよ!!勘違いにも凄みがあるわけで…。

アーリアバット=ヴィーラは情も篤そうだが、欲が強く、家族の前では多少怯むも、自分のためならば情け容赦もしないタイプの女よ。次の瞬間何考えるか読めないんだから。そこがいい。ヴィーラがいつでもマハビール捨てそうな感じがいいの。性愛は無いし、恋愛とも言えない距離感だしね。対するマハビールは、凶暴且つ怖いもの知らずのヴィーラに、一生懸命に強盗らしく心を閉ざそうとするけど、遂にニコッと笑ったところの可愛らしさと儚さに不幸フラグが…

マハビールは、「母に孝行ないい息子」でありたかったのにそうはなれず、犯罪者にまで落ちぶれた自分を恥じている。だが一方で、そのことを越えられていない彼はとても幼く頼りなくも見える。そんな彼がインドの田舎的な意味で「いい息子」に収まっていたらどうなっていただろう?ヴィーラの家庭で起きたような問題に自分が夫として直面したとき、それを隠そうとする側に回ってしまったかもしれない。「本当じゃない自分」を意識できたからこそ、ヴィーラの苦痛を知り、共鳴できたのであって、彼が元々優しい人間だからというわけではないと思う。二人ともあの形で出会ったからこそ、その経緯でしか知りえなかった自分を発見する。

本作、この「愛の不確かさ」が私好みだったわ。社会格差と男女格差にそれぞれ翻弄され、不意に出会ってしまった儚い関係の二人。だってお互いどんな人間なのかは知らないんだもん、孤独を分かち合った後、つまり、ロードムービーの常、旅の終わりに何が待っているのかっていうことね。そんな二人が一緒になったってうまく行かないかもしれないじゃない。そこに説得力があった。

ヴィーラとマハビールは、ある意味『ターミネーター』のサラコナーとカイルリースみたいなもんかもしれない。あれも、変な形でレリゴーした貧しい二人にいい未来はあんまりないよ、という救われねえ愛の物語でもある。そうなると凶暴化するのは大概女の方なのね…。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?