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竹美映画評47 あれから10年も…この先10年も…『桐島、部活やめるってよ』(2012年、日本)

このアニメ動画を見て、つくづく、令和の日本男子にとってベストな時代ってのは高校で、あとはもう地獄なんだなってのがよく分かる。その高校時代にイケイケだと勘違いし、そのまんま行くと、うまくいってそうな女が憎かったので切りつけた、とか言う三十代になるのだろうと思う。

さて、その世代が高校時代をどう過ごしたのか…『桐島、部活やめるってよ』は、ポスト311の暗闇から平成の高校時代を見返した作品。

これね、コメディだと思って観たらちょっと違って少し怖い感じもした映画でした。最初はコメディタッチなんだけど、自分の高校時代の「あんまり楽しくなかった」日々を思い出しましてね。原作の筆者は1989年生まれ。平成世代の人には高校という小宇宙がどう映ったのかしら。

ある金曜日、とある地方の高校で、イケメンでスポーツ万能で人気者の桐島君がバレー部を辞めるという噂が立つ。しかも学校にも来ていなかった!どういうことなんだ…桐島の彼女、その取り巻きの女友達、バレー部員たち、バレー部の部員を好きな女子、桐島君を親友と思ってた男子達、その男子(東出昌大がなかなかいい)を好きな女子…に動揺が広がる中、学校でも最もダサいとされる映画部の面々は、そんなメインの世界のことを全く関知せずに高校を舞台にゾンビ映画を撮ろうとしていた。

私は「運動のできない運動部に入ってないキョドった男子(無自覚オネエかつ頭はパヨク)」で、オプションで発達障害付き。学校に行って、話のできる人とだけ話して帰るってのが私の高校時代。でも、基本的に休まず学校に行けてたから幸せ。

数年前に、魔がさして高校の同窓会に行っちゃったんですけどね、20年前にイケてた層(運動部で体育祭で目立った役をした人たち+きれいめの女の子たち)は、20年後にそのままスライド式にイケてる層になって中心に座っており、私はまた「話ができる人とだけ話して」帰りました。自分の居場所をわきまえるって大事なことね。一つ賢くなったわ。

この映画、明るいはずの運動部部活動生のシーンですら、何となく息が詰まりそうな空気が感じられたのが面白かった。桐島君がいなくなったことで高校や中学のイケてる層の男女学生がおたおたするのを見せるなんて…闇からの呼び声が聴こえるわぁ…

あの映画の中で、体育の授業中にサッカーをするんだけど(うわー嫌なシーン)、チーム分けで、最後まで残っちゃった男子2名!!!あたいだよッ!!!!クラスの上層部に取り入るような社会性も無かったし(ほら、小学校時代に紅衛兵気取りして友達無くしてから、人とどう接したらいいのかもう分かんなかったから。中学ではヤンキー怖かったし)。んで、試合中に見事に失敗こくんだよね~。あーやだやだ。

あと、スポーツできる男の帰宅部と、やったらきれいな(でもちょっと老けてる)女の帰宅部がつるんでいるのって、私は中学校位のときにあったな。所謂「ヤンキー」枠の子達だった。でも、女の子には「ヤンキー」枠と、「きれいで大人びた女」枠があったのね(米倉涼子は「大人びた」枠で、篠原涼子は「ヤンキー」枠と言ったら分かるかしら…)。「きれい」枠の女子って、あの年齢特有の全能感で意地悪く輝いている。勝気な瞳でそこらの平凡な学生たちを睥睨したり、ダサい男子を鼻で嗤ったりするんだ(被害妄想と怨念すごいねアンタw)。そのきれいな帰宅部女子がつるんでるのがバドミントン部の地味子(清水くるみ)と美少女(橋本愛)。分かるわ~運動部の子って派手目の子と一緒にいたりするのよ~吹奏楽部とかじゃダメなのよ~

地味子は何気にスポーツに並々ならぬ思いを持っているが、桐島君失踪事件の余波で、いつもつるんでる「ヤンキー」枠の女友達がそういう「真面目さ」を鼻で嗤ってることに気が付いて敵意を持つ。やっちまえ~とこっちまで煽られて見てたら見事にやってくれるわよ~ああ~キモチいい~

…私ったら中高でいけてた子達にここまで敵意を持ってたんだね。竹美さんさ、前から言いたかったんだけど、パヨクとかゲイとかの前にすっごい歪んでるよね…どこからその深い恨みが来ているの…そして竹美さん、あんたは高校の放送部で部長だったのに、ミキシング班の女子2名のゴキゲン損ねて半年以上口きいてもらえなくて往生したわね。バッカねえ~無視された時点で退部してやればよかったのよ。いい子でいたかったのね。あんた時間を無駄にしたね。いつもそうだよ四十過ぎてもさ。辞めて合唱部に入ってれば万事うまくいったのに。

高校生って、小さな世界のつまんないこだわりとかカッコつけとかの中で生きてるだけ。子供であるが故にその小さい世界が全てになってしまう。イケてる彼らですら学校の外に飛び出していかないところにリアリティを感じたわ。

最近、漫画原作で、若手俳優が感極まって友達の名を叫んだりする映画が売れているが、本作はその始まりだったのかも。闇からの呼び声から生まれたジャンルなのかな、キラキラ高校時代映画は。

何かに打ち込めないでいる東出昌大が急に自分が恥ずかしくなったとしても、その感情は唐突で、明後日になったら忘れてしまいそう。本作はそんな中で「何かに打ち込むってすばらしいわ~青春いいわ~」と言える程すっきりした終わりではない。大体、桐島君はどこ行ったんだよ。あの小さな世界の中の淡い感情こそが、平成後期の空気感なのか。

令和時代には、私たちは何を喜ぶのだろう。令和の男子は、『人生で一番のときは高校時代でそれ以降はおまけか罰ゲーム』という感覚を持っているのか。心はもっと幼いのだろう。冒頭のアニメ動画でも、鏡の中に見つめる自分は子供なのだ…男子は。

処女性にこだわりがなく、むしろ性行為の先に重たいものが待ち構える女子の方が、遥かに先を見てるから、自ずから好まれるコンテンツもズレてくると思う。日本は特に、愛=LOVEがそこにあるだけで宗教的価値があるとされるキリスト教圏や、とにかく愛は命を捨ててもいい位尊いんだ!と(主に男性が)思ってそうなインド文化とは全く違う。キリスト教圏では、愛によって人が成長すると信じられている。インドは…もっとこう…勘違い度が高い。が、どちらにせよ、長年続くこと…つまり子供時代は始まりに過ぎず、面白くなくていいのだと描けるのね。『ハーフオブイット』はそうだろう。

日本には、惚れた腫れたはあっても、それは、特に価値のあることではない。楽しく、気持ち良く、時に恐ろしい不快な情動の一体験に過ぎない。日本は、ロマンチックラブ概念を輸入してもうまく根付かなかった。

本作、とびぬけて面白いわけではないけど、後々この時代を知る重要な作品になるような気がしたわ。

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