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竹美映画評54 圧倒的な立場の違い 『グレートインディアンキッチン』(2021年、”The great Indian kitchen”、インド)

『グレートインディアンキッチン』は、既に映画ファンの間で話題になっている。インドのケララ州の由緒正しいお宅の台所を中心に、立場の違いや習慣の刷り込みを乗り越えることの難しさを描いた作品。

敢えてこの言い方をするのは、家父長制の悪であったり、男尊女卑などジェンダーの問題は、インドの様々な文化の一番素晴らしいもの…とがっちり絡んでいるということを理解する必要があるから。悪いものを切り離せば全て収まるわけではない。これは日本も全く同じ。

どこで、どうしてあの夫婦はボタンを掛け違ったのか。そこを考える。男が作った社会が悪いんだ!と言ってる人もいて、そういう側面もあるけど、現実にあるものを前に何をどうしたらいいのかと考える。家を飛び出して自立して、自らも他人に対する権力を持つことも一つの方法だ。でもそこまでの体力や意欲が無い人はどうすれば…。

男性の観客は本作を観て内省的な気持ちになる←敢えてこの言い方w 本作だけども、反発したくなったり色々思うことに意味があると私は思います。現実には、あの夫婦と逆転した権力関係になっているカップルも、同性のカップルもいるから。←そこまで考えない人達が反発しそうだという憶測も間違ってない気はする。

『最後の決闘裁判』みたいに観る前からどう解釈しなければならないのか決まってて、外れたことを言うたら監督が記者にキレるような、踏み絵映画ではない。と、観られたのは、事前にアンジャリさんのレビューを読んだから。

実体験の言うことよりイデオロギーの言うことを信じたがる人がたくさんいる中でこの評。尊敬してます。

SNSは、痛みや怒りを共有して増幅するにはちょうど良いわけだけど、鎮めたり、内省したり、落ち着いて考えてみたりすることに全く向いていない。『グレート…』でも、SNSに反応したおじさん達が、フェミニスト活動家の家まで来て暴れるおっかないシーンがある。インド映画やアメリカ映画が示す通り、宗教性が強い社会は火がつきやすいし燃えやすい。人々はカミサマや名誉、正義を口実に思考停止して、他者を攻撃したり略奪するお墨付きを自分に与えがち。だが宗教性は、他方で慈悲深く内省的な傾向も併せ持つ。

どっちも持ってない日本は、責任や問題を曖昧にしておくバッファがあり、そこが社会システムとして強力に機能している。そのバッファ故に腹立つこと、理不尽なことが多い。が、その曖昧さの隙間を掻い潜って生きのびる余地もある。そういう強かさ、大らかさ、ズルさで人生が左右される。正直な人にはつらいね。

結局は個々人の心の持ちようの問題だ。どっちの社会がいいとも言わないことにしよう。

少し前に、大学のときにもう一つお世話になっていたゼミの同窓会的なオンライン会合に出た。気がついたら九時間も話してた!メインテーマは、やっぱり、日本が沈んでいく中でどう生きるか?ということだったかと思う。しかしねーあのゼミ関連の人たちは、前から思うけど、真面目で優秀で、なおかつ実績も出してて、私なんか後から恥ずかしくなって翌朝起きられなかった←そういうとこだぞ。

みんな仕事=やりたいことと位置付けていて眩しかった!(何故そう思うか、が、私自身を縛っている呪いでもあるわけだけど)多分そこまで思わない人は参加しないんだろう。現役大学生もいる中で、このちゃんとした人達…世の中に不満を述べても他人に親身に聞いてもらえるレベルの頑張りの人たちを前に…キャリアに何の一貫性もなく、貯蓄もなく、積み上げてきた成果も特に無く、流されるまんまに生き、困ったら嘆き、困ってない時は調子こいてるだけの価値なし四十代ホモ(with男に振り回されたい欲)が言えることは、こんなんでもこの場に出てくる恥を晒しながら生きてるから、皆なら大丈夫よ!!ってことくらい。それすらも、私の能力や運、性別などが決めてることでもあるから一般化できんし。

そんなきちんとした皆から放たれる光を浴び、私がやるべきこと=私の後ろに伸びる影はクリアになった。私は仕事というものを自分の中心に据えてこなかったし、その割にはここまで来れた。また、文章を書くにはいい題材を沢山経験できたと改めて思った。でもそう思ったところで疲れちゃったw自分が嫌になってしまったわ!でも文章を書くつもりだから、書けば書くほど嫌になるんだろうし、そうあるべきと思うので、本当に本が出せることが私の目標になった。十年以内には何とかなるかなぁ。おっそいわね!

とここまで書いたけど、仕事や働くことだけが人生の実績なのかな。私は何故自分の後ろに影が見えたんだろう。『グレートインディアンキッチン』は、一見すると、自活する価値観を支持する物語のようだが、そうだろうか。男性の監督がこのような内容を作るということは、どこかに自分の罪滅ぼし的なものが入ってくると思う。そこが同作よりもアンジャリさんの評が優れたところなのかもと思うが、長々と映された料理する手間を我々はどう読むのだろう。

こんなにもこんなにも大変なんだ!苦痛から解放されるべきだ!と読めば、解決策は簡単。調理を外部化すれば済む。一方で、これだけ価値のあることを日々やっている人への尊敬と感謝が生まれてくる。あれだけ手間をかけてやるのだから、彼女は好きでやってる部分もあるはずだ。本当に調理自体が嫌なら美味しくはならないし、手間をかけるはずが無い。興味なかったら作り方も知らないはずだし、文句言われても、うるせー金があるんだから嫌ならメイドでも雇え!(妻が外の人に対して権力を発揮)と言うはずだ。

ならば、彼女のその調理を完璧にしたい欲を叶えてあげるため、夫はシンクの詰まりを即修理すべきであったし、妻が元気のある日も無い日もあるんだから、いちいち様子を気にかけてあげれば、あのような展開にはならない。ダンス教える仕事をしたいんだってのも、当然夫だって彼女の願望くらい知ってただろう。ところがそれすらしないから、どんどん壊れていってしまう。

『してあげる』という言い方が嫌いな人もいるかもしれない。互いが同じものを見てない場合はうまくいかない。そこについては謙虚である必要が。

結局は個々人の心の持ちようの話だと書いたけど、私は自分たちカップルの関係をどうしていけばいいのか?という非常に難しい問題に直面している。もうすぐもう一度同棲に挑戦することになるが、私の方が彼より圧倒的に特権的な立場に立つことになる。そもそも対等ではない関係なのだ。でも、人としては対等なはずだ。日本にいた頃我々がうまくいかなかった理由の一つは、私が彼を対等な相手として見たがったことだと思う。だから私も彼に腹立ったんだよなー、日々何も努力しないことに対して。時間を無駄にしてるとしか見えなくて。では、常に保護者の博愛で接しなければいけなかったか?私はそんな徳の高い人間じゃない。常に、今でもそうだけど、ほーら、どうせうまくいかないんだよ…お前にそんな難しいことはできないんだから諦めろと心の中に住む仙人が私に囁くわけ。困ったねー。

ちなみに徳が高いから、低いから、という言い方はあんまり好きではない。仙人の物差しで人を測っても人が嫌いになるだけ。或いは人間嫌いな人が仙人になるのかもしれん。人間が好きかどうか、という基準で読んでみると、私は人間が好きな方だと思う。

相手に尊敬できるところが無ければダメだというのもある。『グレートインディアンキッチン』は彼女の方が一方的に我慢していると描いていたので、あの結論で正しいと読める。もしあの作品が、夫婦の権力関係をもっと些細に描くことを主眼にした作品だったら、決して妻を我慢一辺倒の存在としては描かないだろう。相手に尊敬できるところがあるかどうか、妻は特に、お見合いの時点から些細に観察していたはずだ。弱者の必殺技は、不機嫌と無視だ。彼女はその作戦を選ばなかった(作中では夫がそれをやったのでホラー化)。彼女は実際、自分が弱者に該当するとは思ってなかったのだろう。もし彼女が不機嫌とサボタージュをやれば、三日で夫婦の権力関係は変化しただろう。でもそれは、彼女の生きたい在り方ではなかった。

私もさー、不機嫌と無視と拒絶にものすごく弱くてね。彼氏と揉めるたびにそれをやられ、精神削られましたよ…私が百パー悪いことならばそれも受け入れられるけど、相手が一方的に拗ねたりメンヘラ化した場合はねえ…そんなに嫌なら出て行けと何度言うたか←地獄が呼んでいた。でも出て行かない。彼に行くとこ無かったし、嫌いになったから拒絶してたわけではなく、私にカイゼンして欲しいから怒ってたんでしょうな。そうすると、心理的には、あの夫と大差ないんだ。それは私が、彼に、もう少し自分を高める努力をしてほしいといつも不満に思っていたことと似てて相手に過剰な期待があった。しかも時代はコロナ自粛!悪循環でしたね…友人にたくさん助けてもらいました。

私の現実はそんなだったので、本作とはっきり繋がれたとは思わない。でも、相手も自分も心地よくなるためにはこまめに努力して、謙虚になれるときにまとめて対応する。うまくいかないと思ったらさっさと離れる…人としては、さっさと他人を切れる人の方が優れていると思うが、私はそのタイプじゃないから、まあ、文句言いながら自分にがっかりしながら生きていくことでしょう。


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