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竹美映画評100 (Yeah!) 堕落・懺悔・贖罪の国 『The exorcism』(2024年、アメリカ)

実に3か月ぶり位に映画館に行くことができた。ラッセル・熊ロウ主演の悪魔憑き映画だなんて絶対面白いだろという憶測、不穏すぎる予告編が否応なく期待値を上げてくれたのだが、観たら期待以上だった。

あらすじ

アルコールと薬物ですっかり落ちぶれたかつてのスター俳優、アントニー・ミラー(ラッセル・クロウ)は、悪魔祓い映画(明らかに『エクソシスト』のリメイク)での神父役を手に入れる。必死に撮影に臨むもののうまく行かない。問題行動により学校を停学になり、家に戻って来ていた娘リーは、自信をなくし、夜中に奇行を繰り返す父親に悩まされる。やがて体調を崩し、撮影中に問題を起こしたアントニーは解雇されるが、彼の容体は益々悪化して行く…。

悩みに悩む熊男

本作はヒット作『ヴァチカンのエクソシスト』の後に公開されてよかったのかもしれない。ラッセル・クロウが演じた『ヴァチカン』の神父は明るい。見ている側に不安を抱かせないのだ。何せ自分でエクソシズム体験について本書いちゃうような外連味たっぷりのアモルト神父の映画だからね。続編も決まっているし。

今回のラッセルが演じた落ち目の俳優アントニーは影だ。暗いし不穏。どこまで堕ちて行ってしまうのか心配になる。

アントニーは妻を亡くした後(だと思う)飲酒と薬物でリハビリ施設に入所していたり、そのせいで娘との間に修復不可能な溝ができている。字幕無しで観たのでちょっと聞き逃してしまった可能性があるが、恐らく彼の飲酒と薬物依存の問題はもっと前からの問題から来ていると思われる。

彼はアドバイザーとして製作に入った本物の神父を前に緊張を隠し切れない(敏感な人であればそのカットだけで何が問題なのかが分かるだろうし劇中で答え合わせできる)。熊のように大きな彼が汗をかいておどおどしているのはそれだけで怖い。影になって彼の目がよく見えないカットもぞっとするし、アントニーが悪魔に憑依され始め、極端に暴力的になり、ちょっとびっくりするようなことをやってしまうのも恐ろしい。ラッセル自体の持っている怖さを映画の中でうまく使えている。その点において生臭坊主臭ぷんぷんの『ヴァチカン』より(あれはあれでいい役だが)いい演技をしていると思う。

悪魔の言い替え

本作を観ていて、今回堕落というコンセプトが腑に落ちた。本作のみならずアメリカにおいては、性的虐待と悪魔の刻印をされることは等価であると思われた。自分の意思と関係なく「堕落=悪魔に淫した」者が辿る運命が過酷であればある程物語には救いがない。が、それに反比例して宗教性は高まる。本作はかなり敬虔さというか、アメリカのピューリタンが内面化しているであろうマゾヒズムが色濃い

嗚呼アメリカでは宗教は後退するどころか益々元気なのだなあという気持ちになった。表面的に無神論を気取っていても、心の奥底では堕落を恐れ、自分の罪と向き合うことを強いられている。アメリカにおいてドラッグが蔓延してしまったのも強迫的な真面目さが苦しいからではあるまいか。理由もなく自分を責めることをよしとし、救済も提供する形でアメリカは完結している。禁酒と禁欲を言いながら、大っぴらに堕落する。ひどく矛盾しているが、『キャリー』のママはそれを体現しているし(悪魔は出て来ないのでどこにも救われる出口が無いのがえげつない!)、『ステージ・マザー』で、自由の象徴サンフランシスコで人生を謳歌しているはずのゲイがドラッグのやり過ぎで死ぬと描かれるのは根っこで繋がっていると思う。

本作は堕落した父親が罪を懺悔し、最後に贖罪を行うと語られており、実にテーマが重たい。そのプロセスを敢えて分かりやすくは描いていないが、最後ずしんと来る。ラッセルの巨体が、ではなくてキリスト教徒の父親としての贖罪が。全体的に考えると、悪魔の存在は彼の魂を救うための試練として使われているのが分かる。死んででも贖罪しなきゃならないとは何と厳しい!
日本やインド、韓国のホラー映画にこの重さはない。あったとしても、「個人」としての贖罪ではなく、生き残った近親者との間の約束を守るというところに着地するのであり、自分で自分を責め立てることはしない。

実はファミリー映画だった

私も知らなかったが、本作を監督したジョシュア・ジョン・ミラーは、あの『エクソシスト』でカラス神父を演じたジェイソン・ミラーの息子なのだそうだ。また、彼はゲイで、男性のパートナー、M.A.フォルティンと本作を一緒に作り、フォルティンは作中に映画監督役として登場しているというのがひねりが効いている。尚二人は『ファイナル・ガールズ 惨劇のシナリオ』の脚本を共同で書いている。上記インタビューによれば同作はB級映画の「スクリーム・クイーン」として知られたミラーの母親スーザン・バーナードのことを書いたらしい。

本作はいくつかのサブストーリーが交差しているが、一つがリーと娘役で劇中映画に出演する女優ブレイクとの恋と友情である。父親アントニーはリーのセクシュアリティーに気がついているような気がついていないような描き方になっている。クソ真面目に考えるなら、悪魔は同性愛を奨励すべきだろうと思うが、作中そのことを非難するような言葉をアントニーに言わせている。ということは、あれは悪魔の言わせたアントニーの本音なんだろうか(字幕なしで観たのが実に悔しい。本当は何と言っていたのだろう)。

監督のミラーは、インタビューの中で

拙訳:この物語は、『ファイナル・ガールズ 惨劇のシナリオ』とは違いますね。母との関係は難しくなかったのですが、父とは本当に色々でした。多分、色んな意味で、父の抱え込んでいた「憑依と悪魔」はもっと暗く、和解することは難しいものだったと思っています。(I think, with this particular story, it's not like The Final Girls ... the relationship with my mom was not as complicated, whereas with my dad, it was far more fraught. And I think in certain ways, his own 'possessions and demons' were a lot darker and a lot harder for him to reconcile.)

https://in.mashable.com/movies/77610/the-exorcisms-joshua-john-miller-taps-his-familys-cinema-roots-for-horror-rebellion

と語っている。ジェイソン・ミラーは『エクソシスト』では脚光を浴びたものの、ピューリッツァー賞まで受賞した自身の脚本の映画化ではあまり成功しなかったという(とは言えWikipediaを見ると、批評的には成功し、興行面で成功しなかった模様。日本未公開)。作中もラッセル演じた俳優の苗字はミラーだった。自身の父親の屈折に、何を足してアントニーの人物像を作ったのかというのが作品論としては面白いのだが、情報が少ないのでここまで。

家族としての体験、つまりスターの子供として育ち、自身も映画界に入ったミラーの体験はリーの成長にも反映されていると思われる。本作は「まさかあのホラー映画のリメイクをいまさら?w」と嗤われるホラー映画の撮影現場を中心に展開しており、フォルティンは作中その映画の監督を演じている。出演が決まったときにアントニーの家でパーティが行われるのも何かわくわくした。きっと映画界のパーティってそういう感じなんだろうな…(そう言えば『エクソシスト』にも映画関係者や有名人が集まるパーティのシーンがある)。フォルティン扮する監督がアントニーを叱咤するシーンは、ホラー映画の撮影現場を覗き見しているような気になって来る。

私小説的な側面がある本作は、展開が分かりやすいとは言えないものの、家族のドロドロが適度に織り交ぜられ、尚且つキリスト教ゴリゴリの精神世界を垣間見せてくれる、とても味わい深い映画だった。

竹美映画評100本目がホラーって私らしくていいね

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