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LGB「TQ」映画としての『Chandighar Kare Aashiqui』①:「いろいろな人がいるのだなあ」に留めよう

(注:恥ずかしいことにタイトルに誤字があったので修正済:LBG→LGB。最近こういうの多くて心配)
前回映画の感想を書いたので、こちらではちょっと違うことを書いてみたい。また、ものすごく長くなったので2つに分けることにした。


トランス女性をトランス女性が演じていない

さて、トランス女性を巡る議論が白熱している状況で本作を観ることは大変意義深かった。少なくとも3年前とは全く違う意識で観ることになったと思う。
尚、Wikipediaによれば本作のトランスジェンダー表象は不適切で、現実を表現していないと当事者から批判されもしたようだ。

The film received mixed reviews from the queer community. In an article in Indian Journal of Medical Ethics, Queer writers Rohin Bhat and Kris Chudawala mentioned that the film missed the mark in proper representation of transgender community in the film. Satvik in his review in The Quint stated that the movie furthers Transphobia through its improper depictions. The use of transphobic slurs in the movie do not help the cause, he says. In her review of the movie for Gaysi, Ritushree Panigrahi says that she found resonance with the character of Manvi portrayed by Vaani Kapoor. Chintan Girish Modi for their review in Firstpost, calls the movie a landmark in terms of Transgender representation in Indian Film Industry, calling it sensitive and dignified.

https://en.wikipedia.org/wiki/Chandigarh_Kare_Aashiqui

あくまで私の意見だが、Wikipediaのばらばらの評価からも想像できるように、そもそもある集団をどう表象することが適切なのかというのは定まってはいない。多様性を生きるということは、逆説的だが、「「私のこと」が私の思った通りに表象されるはず」という期待が「「あなた」は必ずしも代表例ではない」という現実によって裏切られることを受け入れることでもある(各国のゲイ映画を観て「私のことだわ!」と思ったことなんか1回も無い)。

先進国での例に鑑み、手術を経て男性から女性となったマーンヴィの役を女性の女優が演じたことはまず批判されるのだろうが、ちょっと段を飛び越して、ではどのようなトランス女性が演じればよかったのかと考えていくと、パス度の問題をどう考えるかということに行き当たる。

なぜなら、作中では「トランス女性とは気がつかないで恋に落ちた」→「相手が自分を意図的に騙したに違いない」というマヌの短絡的かつ身勝手な決めつけは、この映画には必要な展開である。また、その決めつけから派生する暴力的な空気を批判的に読むには必要な流れだ。

他方で、この種の男性の暴力を分かりやすく描かなかったこと(マーンヴィがマヌや周囲の人に殴られてあざを作る等)が欺瞞的だと批判はできるかもしれない。が、仮にマーンヴィ側の苦痛を中心に描いたとして、男の観客は自分を省みるだろうか。「自分はこんなことはしない」と自分の内面を探るドアをばたっと閉じるのではないだろうか。

ちなみに本作は結局ヒットはしていない。それは恐らく家族主義を相対化したためではないかと思う。自分のことだなあと思えないようなテーマがあると、作品のテーマが如何によくても観てもらえない。それでは意味がない。

現実には「その人が性転換をした人だったとは気がつかなかった」ということもある。また反対の極に「明らかにみんなが見て気がつく」人もいる。本作は「見てわかる」トランスの人のことは一切描いていない。そこもまた、別の短所だと言われるのかもしれないが…。

3年前、『ミッドナイトスワン』に関する『キネマ旬報』での鈴木みのり氏の論評に関し、私はこう書いた:

『キネマ旬報』九月下旬号の児玉美月さん、鈴木みのりさんのエッセイがよかった。トランスが映画表現の中でどう扱われてきたか、についてのレビューと併せ、多様なトランスの有り様が、虐げられてきた当事者の言葉や身体による社会的実践として映像に出てくるようにすべきではないか、と結んであった(と私は解釈した)。
鈴木さんのエッセイの「容姿のトランスらしさ」というイメージこそがステロタイプなのだという指摘はなるほどなと思った

https://note.com/takemigaowari/n/nfcc3e8c87d94
トランスの役はトランスの役者に

演じるということと当事者性の衝突

自分で言うのもなんだが、もう今は全然違うことを考えている

「虐げられてきた当事者の言葉や身体を表現する」場所は、この作品のようなメジャー作品ではないように思う。3年間で、我々の「ステレオタイプ」は変化しただろうか。相変わらず、「見てわかる」当事者と「見ても分からない」当事者がいると感じているし、そう判断する自分の内省を変えなきゃいけないとも思っていない。鈴木氏自身も3年前の時点で「どうなればよい」という明言は避けている。今だから思うのだが、それは人に意見を押し付けないために明言を避けたのではなく、できなかったのだと思う。

上記の鈴木氏の論で言うと、虐げられてきた当事者の言葉や身体は、どのような演者が演じようと、登場人物の数がその表象できる多様さを制限してしまうし、例え当事者であっても他人が演じた時点で偽物になる。そもそもあの発想に従うと、「誰かが自分じゃない役を演じる」という行為と両立し得ない。だから、自分で自分を語るしかないのではなかろうか。

当時、私も苦し紛れに書いたことで、今でもそうだと思っていることはこれ:

これから公開される日本映画『ミッドナイトスワン』は、その意味ではどんな作品かしら。誰かを断罪したり白黒つけたりする前に、まともな頭の人には「色んな人がいるんだねえ…」と伝わり、美の基準という意味で言うなら美の物差しの数が増えるような内容であることを願う。

https://note.com/takemigaowari/n/nfcc3e8c87d94

本作はあくまで「男が未知なる存在への恐怖をどう乗り越えるか」という物語なので、トランス女性という存在(ついでに言えば、ヒジュラ―をマジカルヒジュラ―として使ったことも)を多数派強者であるノンケ男サマのノーマリティのために消費したとも批判され得る。

が…3年経ってみて、その間に見て来たことから総合するに、そのような「多数派強者の消費」批判は、本当に偏見を持つ人の気持ちを変えさせるような効果があるのだろうか。どちらかと言えば、仲間内で敵への憎悪を掻き立てるには絶大な効果を発揮した

大局的に言えば、未だ、「色々な人がいるのだ」ということを中途半端にでも知らしめることの方が大事ではなかろうか。「多数派強者」が自身の偏った考え方を改める契機となる映画に色々な姿が出て来て、各々が自分を省みるような物語があればいいのではないだろうか。実際ゲイやレズビアンの表象はそうなってきたと当事者の間でも認識されている。

今や自分で自分を語るツールは映画以外にたくさんある。それらを通じて、実に様々な少数者当事者による自己表現が数々出て来ている。中には必ずしも非当事者からポジティブな反応を引き出すとは思えない表現も含まれるが、それもまた「多様性」だと言えばそうだろうし、あるがままに観る側は受け止め、考えて正直に反応している。我々は、そうした沢山の表現がある中から自分の信じたい、気持ちの良い、疑問を感じずに済む、自分が傷つかないコンテンツのセットを選んで消費する。劇場公開される商業映画はもはやその中の選択肢の一つに過ぎない。映画の表象をネット上等の発信が充分に相対化してくれている。

提言:

社会の中の少数者を描く映画作品についての当事者の感想や意見は様々でありうるのだから、非当事者は「こういう意見の人もいるのだなあ」という知識として理解するにとどめよう。2020年代の流行である「賛同か、ヘイトか」を選ばされる状況はもう御免こうむりたい。

次は、「性自認概念」に対する本作のスタンスから、我々日本の状況を考えてみたい。

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