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「トランスの役はトランスの役者に」

トランスジェンダーに関する議論がネット上で大炎上している中、簡単には何も言わない方がいいわと私はこの話題を避けてきた。身体という逃れようのない実体を土台にしつつ性別を超えてしまうというある種の反逆行為が生む見た目上の印象。これはどうしても否定できないのだが、映画はそのことを今後どう扱うべきなのか?

トランスの役はトランスの役者に」という議論について、『キネマ旬報』九月下旬号の児玉美月さん、鈴木みのりさんのエッセイがよかった。トランスが映画表現の中でどう扱われてきたか、についてのレビューと併せ、多様なトランスの有り様が、虐げられてきた当事者の言葉や身体による社会的実践として映像に出てくるようにすべきではないか、と結んであった(と私は解釈した)。

特に、鈴木さんのエッセイの「容姿のトランスらしさ」というイメージこそがステロタイプなのだという指摘はなるほどなと思った。そして、その後に「シスノーマティヴな現在の社会において、トランスの俳優が存分に実力を発揮されるように、インフラ、美的基準などを含め、不均衡を生む就労状況がまずは改善される必要があるのではないか」(ボールドは竹美による。シスノーマティブというのは、体と自己認識する性が「一致」している人が「普通」なんだという考え方ね)とつづく。

同じ鈴木さんのエッセイは「シスノーマティブな美的・芸術的尺度を省みることも重要だが…(中略)…その存在や物語をみずからの言葉や身体で語り、社会に居場所を作る実践でもあるのだ」と結ばれている。

下記のブログに詳しいけれど、ラテンアメリカ等多くの地域でトランス女性がそうであるが故に殺害されているという報告がある(そのようなことが起こる地域はすべての種類の人間が沢山殺されていそうな印象はあるんだけど…)。

ところで、ゲイやレズビアンの役をノンケの役者が演じることに対する反発というのはあんまり聞かない。演じ方(極端に戯画化されているとか)や描写(すぐ殺されたり異常者・犯罪者を充てられてきた等)についての批判は山のように出てきており、実際のところ最近の映画では、当事者にも「リアルだ」「こうなったらいいな!」と思える作品ばかりになってきた。

ゲイやレズビアンは「シスジェンダー」なので、描き方さえ多様になってくれば誰が演じようと構わない気がするのは、「見た目」と関係ないからだと思う。何なら地球上のあらゆる文化における美しい男女達にゲイやレズビアンの役をやり続けてもらったっていいくらいだ。

上記の鈴木さんのエッセイでも指摘されてはいるものの若干歯切れが良くないのが、「美的基準」「美的・芸術的尺度」をどう改めたらいいのか?という点。そもそもそんなこと可能なのか?意味あるのか?これからその点が議論される可能性は開かれているのだろうか。

ところで、トランスが最も「トランスである」ことが分かるのは、見た目と振る舞いだ。その点は、「パス度」=「トランスだと見破られないかどうか」という言葉で当事者に内面化されているらしい。

映画『ナチュラル・ウーマン』(2017年)は、主演の女優ダニエラ・ベガが「トランスがトランスを演じた」上でオスカー候補にもなっており、尚且つ、「ただ可哀そうな人じゃないんだよ」と示した優れた映画だったと思う。

作中で、主役のマリーナが顔をテープでぐるぐる巻きにされるおっかないシーンがある。同作の監督セバスチャン・レリオは、そこについて「テープで歪められている彼女の顔は、彼らがマリーナをそういうふうに見ていることを表しています」と言っている。前にこれ読んだときは、「トランス」=モンスターと考える差別意識の表象かと思ったが、この描写が「トランスの見た目」と関係していると考えたらどうだろう。『キネマ旬報』の児玉さんのレビューでは、同作について「鏡のモチーフ=マリーナが内面化した他者の視線」と言及されている(鏡のシーンが何度かある)。

そして、映画は「見えること」がほぼ全てという芸術なので、残酷なまでに「美醜」の対比が作中で使われ、我々はそれを喜んで消費している。韓国のドラマは今でもかなり露骨だ(人気の『愛の不時着地』の北朝鮮描写の中でも明らか)。そして美醜を含めたステロタイプな表象が、多様な現実を理解する手段や出発点になっていることも否定できない。

さて、「トランスに見えない」=「シスジェンダーの人と見た目上区別できない」という意味で、「全くトランスに見えないトランスの役者がトランスの役を演じる」のが、一つの解答でもあり、私は大間違いにもなりうると思う。その逆に「トランスってこうだよね」という「ステロタイプ」に合致する見た目のトランスの役者が演じてしまったら…その作品の「トランス表現」が批判されるんだろうけれど、トランス女性が「普通の女性よりキレイ」と言われるのだって同じステロタイプから来ているかもしれない。ともかく「正解はない」と思う。

この問題は、私の中では「ルッキズム」とも絡んでいる。「「きれい」の基準を今日から改めましょう!」ってルックス共産革命みたいなことをやったとしても、地球の我々がすでに持っている「シスノーマティブ」(って言葉を発明した人すげえ)な美の基準を改めることは容易ではない。「既存の美の基準を改める必要はどこにあるのか?」という議論自体を許さないピリピリした感じがある中で、『キネマ旬報』はうまい書き方をしたと思う。昨今のTRA応仁の乱の中でよくあのテーマを…と感心した。

私は、「美の基準」そのものに挑戦するのではなく、世界には色々いて、それぞれによさや美や価値があるのだ、位にゆるく考えるようになればいいと思う。私は男性だから、見た目のことをガタガタ言われることはあんまりなかったわけだが、女性は生まれてからずっとガタガタ言われ続け、疲れてしまう。

とりあえずまずできる簡単な取り組みとして、普通の人(特に子供)相手に容姿のこと悪く言うのやめましょう。褒めるだけにしたらいい。そして、子供だってどうせ知るのよ:「ケナされなくても見た目でサベツされるてるじゃないのよ!」って。みんな自分の体と自意識から逃げることはできないんだよね。「見た目」は絶対ついて回る。たとえ他人が口で言わなくても、自分の育った文化・社会・環境が他人や自分の容姿について心の中で忌憚ない感想を教えてくれる。例えば、トランスの人ってこういう感じの見た目よね、とか。その文化や環境の与えた基準の全てを否定し始めると、「見た目」でお金をもらうすべての仕事、特に今日のテーマ、トランスの役者の仕事はどうなるのかってことにもなる。

例え我々の社会が進化して、他人の容姿を悪く言うのを止められたとしても、見た目で損/得する人がいる現実も変わらないだろうし、そもそも自分の容姿(身体)が受け付けられない人は必ずいる。「そのままでステキよ!」が全く意味をなさない。

とは言え、ゲイ・レズビアンの描写をめぐる過去の(そして今もたまに出てくる)議論と同様、映画がトランスの色んなケースを描き、皆が慣れちゃえば、「そういう人もいるよね」位になったら良いと思う。

上記のような脳内旅行を経て、ようやく私もこういう考えになって来たけど、『アベンジャーズ』みたいなオールスターキャスト作品で、様々な背景の人を出すことって観る側にとっても意味があり、作り手から見たら便利だよ!!!何せまとめて出せるからね!!!!投げ売りワゴンセールをするお店に誠意が足りないとしても、無いよりはいいはず。その上で、叱られてもいいからと意欲的な作品が出て来るのではあるまいか。

これから公開される日本映画『ミッドナイトスワン』は、その意味ではどんな作品かしら。誰かを断罪したり白黒つけたりする前に、まともな頭の人には「色んな人がいるんだねえ…」と伝わり、美の基準という意味で言うなら美の物差しの数が増えるような内容であることを願う。


本当は『ナチュラル・ウーマン』のアデイonline再掲をしようと思ったんだけど、あの頃と今とで私の考えも世界も変わっちゃったので、色々書いてたら長くなっちゃった。作中で結構好きなシーンはこれ:

歌の先生(この人絶対にクソ意地悪オネエ)のところに歌のレッスンに来たマリーナ。先生ったら意地悪いから、「歌のレッスンのため?それとも世間から逃げるために来たのかしら?」と質問し、マリーナは「多分両方ね」と答え、「愛を少し探しに来たわ」と言うマリーナに「そんなもんは見つからないわよ!」とばっさり。その上でこのタイミングで「私はないがしろにされた妻」という歌を歌わせるの!それがこの子には一番キく!と意地悪姐さんが直感したものと思われる。大いに外す可能性のある荒療治、劇薬ね!!でもマリーナ自体が劇薬だからちょうどよかった!!!

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