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竹美映画評38 運命というプログラムに翻弄される人間の悲哀と愚昧 『ジャパン・ロボット』("Android Kunjappan Version 5.25"、2019年、インド(マラヤーラム語))

※ネタバレ含む。

今年はインディアンムービーウィークで三本の作品を観た。『ストゥリー 女に呪われた街』、『僕の名はパリエルム・ペルマール』※、『ジャパン・ロボット』の三作。

『パリエルムペルマール』は重い社会派で印象的だった。今年見た中でナンバーワンかもしれない作品だが、映画自体がカースト差別の告発というテーマを全力で語るタイプの作品で完結度が高く、私が何かを付け加えることはない。そこで『ジャパン・ロボット』である。観終わって直ぐは「何を見たんだろう?」という疑問でいっぱいになったが、言葉にしてみると意外と感想が出てきた。英語字幕付き予告編は以下の通り。

あらすじ…インドの田舎町に住むバスカラン爺さんは頑固者。同居する息子スブラマニアンが他の街にいい仕事を見つけても「家にいろ」と言って断らせる困ったお人。ついに意を決し、ロシアにある日系のロボット企業に就職したスブラマニアンは、会社の試作品のロボットをインドの実家に送り、父親の世話をさせることにした。テクノロジー全般を嫌っているバスカラン爺さんは面白くないのだが、何を言っても自分のそばを離れずきちんと言いつけを守るロボットとの生活を楽しむようになる。

本作については感想が二分されている。一つは下記のようなSF映画として観る視点である。

この「福祉SF」という言い方が面白かった。他にも、頑固爺とロボットの交流をロボットの側から見つめる視点もある。そちらも、カレル・チャペック著『ロボット』を25歳位のときに読み、それが生まれて初めて本を読んで泣いた作品だという私からしたら胸アツコメントだが、もはや私の心は枯れてしまったのか、何なのか、その方向では琴線に触れなかった。

バスカランはかなり前に妻と死別しており、自分の身の回りのことはほとんど自分でやれてしまう人なのね。こういう人を世話するのは大変。食べ物の味とかモノの置き方とかにうるさいから。インドじじぃ(『僕の名はパリエルム・ペルマール』のサイコパスじじぃは怖い。宗教がサイコパスを「ダークヒーロー」に仕立て上げるということを言い当てている)というだけでだいぶしんどいが、息子は我慢しながらも義務感から一緒に暮らしてきたことがわかる。恐らくだが「父の言いつけを守る息子」というのが文化的にハマるのだろう。だって34歳まで、有能なのに親の世話のために外でいい仕事に就けないってどういこと…。しかも息子は未婚。片親の子供は婚期が遅れがちという描写は時折映画に出て来る。ピーター・ジャクソン監督のホラーコメディ映画『ブレイン・デッド』なんてまさにその話だったしね。

この点において、福祉SFという批評は適切だと思う。その後起きる父と息子の関係の変化もまさにそこに根差していると思う。他方で、私は、本作が、SFの設定を使いつつ、人の頭の中に科学では全く割り切れない思想がどっかりと腰を下ろしていることを示したのが面白いと感じる。新しい世代、いわば「未来を生きる」息子から見れば、遠く離れてもロボットを通じて父親の様子を知ることができる上、父のことも心配なく、いいことづくめ。

ところが父親の方はちっとも変わらない。息子の代わりをロボットが期待以上にうまくやってしまったことで、父は色々な変化の兆しを逃してしまっているように見える。ロボットは「未来の世界にはカーストも宗教もありません。あなたは未来で生きたいですか?」と問いかける。答えに詰まる父を観る側は、そこに新しい未来の可能性を読み込むのだが、父は、息子に対して「お前はロボットの代わりになれないし、ロボットはお前の代わりにならない」という言葉を投げつける有様。息子は、ロボットにべったりの父親に「ロボットはプログラム通りに動くだけなんだよ」と言うが、父は「人間も運命の通りに生きているだけだ。プログラムと同じだ」というようなことを言い返す。混乱しているわけね。

習慣、宗教、占い、カースト等にうるさいバスカランは「過去」の世界を生き続けている。そのことで彼は愛も拒絶しているように思う。結局、彼自身が気が付かないでばら撒いた過去の意地悪の因果にも直面することになる。

ラストカットの父のセリフは不穏だ。父に対する息子の表情は見えないが、息子の動き方ひとつで父のその後の人生が決まる。

マラヤーラム映画はケララの生活のことをよく描いている、という評も読んだ。生活描写が重ねられることで、父の過去志向が分かるようになっている。

ところで、ケララ人のギャグって韓国超えてるきつさがあった。ヒトミが「両親は私が生まれてからすぐ離婚したの」と言うと、スブラマニアンは「君が生まれたせいで離婚?」と突っ込む。そしてわはははと笑う二人。私は笑えないぞ。

インドという国に私なりに今後とも関わるかどうかをこの半年色々と考えた。映画はショーウィンドウみたいなものだと思っているので、ショーウィンドウを見て、お店の中では何が起きているのかを想像する必要がある。マラヤーラム語の映画は初めて観たが、タミル、テルグ、ヒンディー、ベンガルの映画のどれともちょっとテイストが違っていて、とても面白い体験にはなった。



※『僕の名はパリエルム・ペルマール』は、かなりお勧めなので書き残す。きっと誰かがソフト化してくれる気がする力作だから。タミル映画で、ダリット(不可触民)に対する根強い差別を描いている作品。

冒頭からしんどいが、力強いラップ音楽と伝統音楽が色々なものを押し流していく。中でも怖いのは、委託殺人を請け負う老人の描写。カースト制度内の「名誉」を守るため、ターゲットを殺害するのだが、それって…カーストの名誉を第一とするのを正義と考えれば、彼は善を行っていることになるし、どうやらそのことに自覚的である。これは、ありとあらゆるヒーロー映画に対するかなり厳しい突っ込みだと感じた。正義と悪の境界線は分からない、とかそういうレベルじゃない。善が悪を生むという言葉で言えばそうなのだが、もっと最悪だ。本作のは、被害の経験なしに弱者を加害するタイプの正義だからね。その上、フィクションではなく、現実に人(特に弱者)を加害し、死に至らしめたり恐怖させている仕組みを善だと考えるコミュニティが実在すると示唆しているわけだから。

この映画の告発している問題は、ほとんど全ての社会に備わっている恐ろしい機能についての映画なのではないか…。そう考えることによって、本作の怖さと意義が新たになるのではないか…短いけどそんなことを思ったことは書いておきます。

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