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竹美映画評59 少年はモンスターを退治する 『ブラック・フォン』("The Black Phone"、2022年、アメリカ)

日本で7月1日公開予定の本作について早めにレビューしてみました。

往生しな!!!ってすごいサムネイル。

【あらすじ】

1978年、米国デンバー郊外の町で、男児が次々に誘拐される事件が発生。主人公の少年フィニーもまた誘拐されてしまう。グラバーと呼ばれる犯人の男によって地下室に監禁され、絶体絶命のフィニー。そこで、壊れて使えないはずの黒い電話が鳴り、受話器からは行方不明になった少年たちの声が聞こえて来た。一方、予知夢の力を持つ妹のグウェンは必死に兄の行方を探る。

【何となく概要】

本作と同じ、スコット・デリクソン監督、イーサン・ホーク出演のホラー『フッテージ』と似た、寒々として薄汚れた地方都市郊外に潜む邪悪が観客と主人公を追い詰めていく。イーサン・ホークがホラー・SF作品に出ると、高確率で「あること」が起こるのだが、本作もそんなイーサン・ホークホラー列伝に連なる結末となっている。デリクソン監督は、『エミリー・ローズ』、『NY心霊捜査官』等の悪魔憑きホラーも撮っているし、(私は未見だが)『ドクター・ストレンジ』の監督として一番知られているかもしれない。

本作の感触は、『サマー・オブ・84』、『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』等の、少年期の終わりをホラーで彩る作品群に似た感触がある。ただし、幽霊譚と監禁スリラーが結合し、少年が仕方なく大人になるこの物語は若干後味が悪い。

原作はジョー・ヒルの同名の短編小説(『20世紀の幽霊たち』に収録)。スティーブン・キングの息子として知られる前から評価されていたホラー作家で、ダニエル・ラドクリフ主演『ホーン』等の原作者である。少年期の孤独や親の悩みについて一家言ありそうだ。キング自身がアルコールや薬物への依存症で悩み、家族を悩ませたと告白しているが、本作のような物語を観ると、立派で愛情を注いでくれる一方で問題を抱えた父親を持つということの意味に考えが行ってしまう。なおキング自身は幼少期に父親に捨てられ困窮した過去を持っている。

【本作を彩る「暴力」】

さて、本作が1978年という過去に時代設定されていることで受け止めやすくなっている描写があると思う。それは、子供同士の暴力である。本作の主人公フィニーは、地元野球チームのピッチャーをする程で、決していじめられっ子のポジションではないが、彼は学校で少年3人グループから目をつけられている。しかし、彼には強い味方、喧嘩の強い親友ロビンがいた。彼の喧嘩シーンもなかなかにショッキングだ。

このロビンという存在は、冴えない子供時代を過ごした人間にはまぶしすぎて信じることができないほど。しかしロビンが誘拐されてしまうと、またしてもフィニーは3人から殴る蹴るの暴行を受けるようになる。そこへ妹グウェンが参戦し、石で一人を殴る!しかし彼女も殴られる!その後が面白いのだが、その喧嘩を、自分の殴った相手と二人、じっと眺めているのである。この距離感。まるでそこに暴力があることが当然で、一種の儀式だと思っているようにさえ見える。それが標準値の社会は、実は誰にとっても相当に生きづらい場所であるはずだ。

また、本作の暴力は、思春期を迎えた男子の暴力性を描いた『ぼくらと、ぼくらの闇』へと続くテーマなのではないかと思う。それほどに、本作は、子供同士、そしてフィニーから誘拐犯への暴力描写が生々しい(誘拐犯からのフィニーへの暴力描写と比較してみると分かる)。

それだけではない。予知夢の力を持つグウェンが学校で警察に予知夢の話をすると、明らかにアルコール依存症の父親が厳しくそれを咎め、ベルトで彼女を酷く殴打する。そのシーンの惨いこと。実際のところ、子供を描くホラーの多くでは、怪異のシーンよりも、いじめや虐待や犯罪被害のシーンの方がずっと恐ろしい。ベルトで殴打され泣き叫ぶ妹を前に、じっと父親をにらむしかない無力なフィニー。虐待者になり下がった父親の造形はとても悲しい。また、フィニーの怒りに満ちた目線は、彼がいつの日か父親と全面対決する未来を予感させる。

また、「I love you」という言葉は、その意味を問うことはできないという意味でアメリカ映画の殺し文句だが、それが「ほっとできる」関係ではない間柄で言われるときの恐ろしさ。それをきっちり捉えている。

【恐怖!黒電話】

恐怖シーンも冴えている。黒電話が鳴るというだけで、「ダイアル回して手を止めた」体験などない現代の若者達はぞくぞくすることだろう。雑音交じりに聞こえるのは、この世に留まる死者の怨嗟の声である。メキシコホラーの『ザ・マミー』(イッサ・ロペス監督)を思い出すかもしれない。そこがアメリカホラーとしては異色でもあった。彼らは色々な形でフィニーにアドバイスを与え、道半ばで脱出できなかった自分たちの痕跡を教える。フィニーは脱出できるだろうか。そこがとても面白く、怖い。それは、超自然ホラーとしての怖さではないのだが。

イーサン・ホーク演じる誘拐犯も気色が悪い。彼は今回完全なるサイコパスとして悪役を作り上げた。作中、仮面をかぶった彼のプロレスラーのような上半身が延々映り込むシーンがあるが、非常に不気味。本作は周到に性犯罪の要素を排して作られているものの、その肉体から滲み出る性的な意味合いを私が感知してしまうのが悪いのだろうか。誘拐犯の背景は一切説明されず、YouTubeの犯罪解説動画に出て来る人物よろしく、はっきりと邪悪である。仮面への執着が何かを説明しているのだろう(イーサン・ホークの優しい顔を隠すためという意味もあるか)。同居する兄弟すら真実に気が付かない。邪悪であるが故に、彼はこの社会の秩序を揺るがす存在である。

作中グウェンが何度も神に祈り、神の態度に不平を述べるシーンがある。基本的にアメリカのホラーでは神は助けてくれない(同程度に宗教性の高い社会、インドのホラーとの大きな違い)。人間の問題は人間が解決する他無いのだということかもしれないし、解決するための力はそれぞれに与えられているのだという意味なのかもしれない。それこそが神の恩恵なのだとしたら、いかにも清教徒のホラーだ。厳しい。そして逸脱者は常に邪悪である。

【子供の成長過程にはホラーが似合う】

本作は、フィニーが逆境の中で自分の力を見つけ出す物語である。怪異の助けを借りつつ自分で逆境を乗り越え、おそらくは父親を乗り越え支配する力を手にするための第一歩が、この誘拐事件である。怪異の助けが無ければ、現実的には絶望の中で死ぬ可能性の方が高い。また誘拐されなければ、グウェンの予知夢の力は父親の抑圧を受け続け、フィン自身は父親への恨みを何年も溜め込んだことだろう。やがてフィンの方が父親を惨殺し、モンスターになった可能性もある。怪異や予知夢が無ければ、子供は当然ながら無力だ。にもかかわらず、自分の勇気と頭で腕力を補い、有害な大人を倒すしかないとは。この映画はあまりに子供に厳しい。サスケレベルだ。ジョー・ヒル作品自体がそのような厳しさを持っているのかもしれない。フィニーにとって、誘拐犯は父親打倒の練習台だったのだと見ると、むしろ誘拐犯の闖入により、フィニーも父親も、二人が直接激突する状況が回避され、家族が一見守られたとも言える。何と残酷な。

【男子にとっての力とは】

本作は、(私はそれが好きだが)少女が怪異との対決を通じて大きく成長する物語とは何か違ったところに着地している。少年にとっての恐怖の旅とは「病んだ父親の残骸」を粉砕して「大人」になれば(父親に成り代われば、でもいいか)終わる。『ダーク・アンド・ウィケッド』のマイケルは父親の残骸から逃走し、その戦いに敗北した。意外ではないが、それは必ずしも少年の人格の成熟を意味しない。フィニーもまた、意図せず妻を失い、子供達を愛するが故に虐待する自分たちの父親のようにならないという保証は、実はどこにもない。

「強い」「妻子を守る力がある」という能力が却って悪い暴力性を温存することもあるのではないかと思う。デリクソン監督の『NY心霊捜査官』ではどうか。同作の主人公ラルフは、悪魔を祓う「正義の力」を得たことで却って自己を見つめるチャンスを喪失しているように見える。米映画では、粗暴な自分を免罪できる程の強いパワーチャージャーであり救済方法が悪魔祓いの能力であったり、家族を守る力(=銃)なのだと思う。それは非ホラーで別の監督の米映画『マシンガン・プリ―チャー』とも地続きである。「Love」は添え物に過ぎない。

本作は、少年に関して古典的な描写をする映画のような気もした。78年という空気がそれを受け入れさせるのか、或いは映画は人を説得するものなのか。

少女の場合は、大人になるということが、身体と、社会関係の両方の側面から、男児とは違った形でやって来る。彼女の旅はこれからだ。むろん、危険な旅になるだろう。

どっちみち、子供が大人になるプロセスはホラー的である。

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