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竹美映画評11 定職につかず生涯独身の男性、寅さん

日本は、総理からして一億総活躍社会とか言い出すくらい、働くことに妄執を持っている社会である。映画「舟を編む」にも出ていたように、結婚しても妻に構うことなく延々と仕事に邁進するサラリーマンの姿を賛美する国であるのみならず、若者層も何となくそれを受け入れている風である。働かない者、生産性の無い者に対する非難は強い。また、仕事が、特に男性にとっては職人業として意味付けられている。働くことは生きること。結果を出そうが出すまいが、コツコツやるのが素晴らしいのだ。

アメリカ的な成果主義が日本に入りづらいのは、結果が全てではないと長年勘違いし続けていたからか。または、結果を考えずにコツコツまたはがむしゃらにやって成功していた昭和後期が案外長く持続したからなのか。

ちなみに、新自由主義にはっきり舵を切った日本で、アメリカ的な意味でのモーレツ社員による生産性=結果を出すことと、職人的な仕事が大好きな日本人の価値観がどう折り合いをつけていくのか、は大変興味深いポイントではある。そもそも日本的なモーレツ社員って何だったんだろ。嘘こいて客騙して数字膨らますことじゃないのかなと最近思うんだけど。

さて、そんな中で昭和後期の日本人にとっての癒しであった、寅さんについて考える。

寅さんほど、所謂「働くこと」から遠いキャラもいない。金は時々稼ぐものの、渡世人の哀しさで、すぐに使い切ってしまったり、第四作では、競馬で大当たりして手にした金も、あっさり持ち逃げされたりする。ところが金への執着が異様に薄いので、あんまり落ち込まないと描かれる。

社会関係から見ても彼は適応障害かと思うような言動が多い。緊張するとうっかり下品な話題を持ち出してしまうし、思い込みが激しく、喧嘩っ早く、劣等感から来る自己卑下的な態度が自分を幸せから遠ざけている。おそらく素人童貞であろう。

寅さんの幸せというのは一体何なのか…割と多くの寅さんを親たちと観てきたのだが、さっぱり分からない。

寅さんを支える周りの人々の献身にも注目したい。第1作では、妹のさくらのお見合いについて行って、緊張のあまり下ネタを連発してしまい、お見合いを破断にしてしまう。お見合いの相手は、親のいないさくらから見れば、お金持ちで大卒の結婚相手はまたとない良縁とも言える。それをぶち壊しておいて、責められるとスネる。大きな子供なんだよね。

ところが映画はそんな寅さんに寄り添うことはあっても、非難はしない。むしろ、メインカルチャーに対するカウンターカルチャーくらいの意味になっていないか?

さくらの性格は自己犠牲的で兄の素行をいつも気に病みながらも、受け止めている。寅さんは昭和後期という、人々の生活が所得水準の向上という形で平準化し、吉本隆明(『わが’転向’』)に言わせれば「消費が経済の主力に取って代わった」辺りからの映画である。日本社会がおいてきぼりにしようとしていたもの…世の中の変化や仕組みから落伍してしまう人への眼差しになってしまっている。木下惠介の頃の日本映画であれば、寅さんはさほど奇異ではない。常勤の雇用という形で仕事してない人なんてたくさんいたからだ。おそらく人々は、都市では簡単に仕事を辞め、好き放題に渡り歩いたことだろう。

では、寅さんは、そんな社会にうまく適応できない人…例えば常勤はできないので日雇いを渡り歩く…という人に寄り添った作品なんだろうか。寅さん見て、寅さんみたいに生きたい!と考える人はどの位いるんだろう。寅さんの甥、光男は少なくともそんな感じになっている。

一昔前の日本、というスティグマを背負って日本全国を回った寅さんは、本当は何だったんだろう。なーんとなくそこにあるから、ずっとあるから、なーんとなく皆いいと思って消費して、みんながいいと言うから話題を何となく合わせて…というムラ的な感覚があったのではあるまいか。

石川三千花は、そこのところが気になって仕方なかったらしく、九十年代に出した本で、「寅さんの良さが全然わからないんだけど、私だけ違う国に来てるのかな?」と、一つ目国の寓話を出して感想を述べていた。

何の本だったかな…

彼女は、寅さんが現れた辺りでパリに飛び出し、世界の最先端のものに触れてきた層である。彼女にとっての寅さんは、「自分の目と頭でいいものを選ぼうとしないダサい層」の象徴に見えたのだろう。それはおそらく、中身が色々スライドした形で現在も続いている。

石川三千花さんのその本を読んでから、私はしばらく寅さんを避けていた。多分、彼女の言うダサい方の人になりたくなかったのだろう。でも、今年に入り、木下惠介映画を観て初めて、寅さんの位置付けが分かった気がする。そういう人が結構いて、色んな人生があって、決して人生の道筋は一つではないのだと皆が思っていた時代が昭和なのではあるまいか。生産性とかいう形で結果を出すこと=働くこと、ではなかった時代。昭和期は、平成期よりも雑でいい加減でどんぶり勘定で、「怠け者」がたくさんいた。ただ、働けばそれなりのものを手にするという実感があった。日本的な価値観の好循環があったのかもしれない。でもその裏には、それを支えるべく、沢山の人の我慢や苦労があった。さくらの反応は、今の私たちから見れば、あまりに寅さんに優しすぎるだろうし、リアリティはないかも知れない。彼女は、おそらく無給でとらやの手伝いをしており、夫は家事をしてくれない。息子は平成時代に寅さん化。寅さんの象徴する昭和期の一つのよさは、超えてはいけない一線を超えない、という義理の感覚にあるかも知れない。しかし平成期にはそれも消えている。となれば寅さん化した息子はニートになるのだ。

木下映画ならば、そのような事態を前にした女の本音みたいなものを巧妙に掬い取るシーンを入れただろう。山田洋次監督は偉大だが、無自覚に男尊女卑的な価値観を内面化している人に心地よい映画を作る監督ではある。「ちいさいおうち」は原作を読んでいないにも関わらず、「んなわけないだろ!」と何度も突っ込んだ。

寅さんが合成されて帰ってくるらしい。令和の空気に耐えられるか。大変興味深い。

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