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竹美映画評87 全てはサイコーの私になるには?『バービー』("Barbie"、2023年、アメリカ)

バービー人形…私が子供の頃は、ジェニーちゃんという名前になっていたが…私は小学生の頃、妹の持っていたバービー人形に布巻き付けてサリーみたいなかっこさせていた。後クシャナ殿下と黒柳徹子の三つ編み巻き巻きヘアーがやりたかったけどできなかったのが心残り。人形の髪ではダメなのよ!!!

というような思い出を持つバービー人形を題材にした映画『バービー』を観た。キャスト、音楽、セット、セリフ(とは言え英語字幕付きでも全部理解はできなかったが)、社会的テーマ、お話の流れ、涙と笑いのバランスなど、グレタ・ガーウィグの過去作の若草物語よりずっとおもしろく感じた。

バービーランドに住むバービー達(同じ名前だけど色んなタイプがいる)とケン達。ある日ステレオタイプバービー(マーゴット・ロビー)は調子がおかしくなる。解決するには現実世界に行くしか無いとヘンテコバービー(ケイトマッキノン)に諭されバービーは現実世界へ。ケンも付いて来て騒動を起こすが、二人の旅はバービーランドに大きな変化をもたらすことになる。

冒頭から面白い。小さい女の子たちが赤ちゃんの人形で遊び、知らぬ間に母親である役割を刷り込まれているところを、バービーという「大人の女」の人形が登場したことで、天地開闢、文明発祥ってなもんで、『2001年宇宙の旅』の類人猿よろしく、小さい子どもたちが赤ちゃん人形を破壊しまくるシーンから始まる。

もちろん笑っちゃう。

だが。これはグレタ・ガーウィグの映画だ。グレタ・ガーウィグの監督作の描写には真剣で真面目な意図があるのであって、私のように笑って済ましていいのだろうか。ちゃんと「勉強になった」という感想を書くべきだとも思うし、同時に、「赤ちゃん人形を破壊する行為を通じて母親という役割を根底から否定するとは怪しからん」などと保守派のように反発してあげなければいけないのではあるまいか。いちいちそういうのが気になる映画ではある。私には。

ケンという存在の描き方も面白かった。バービーあってのケン、という添え物の立場の哀しみを経験したことで、現実世界にぶっ飛んできたケンが「家父長制」という概念を学び「男が世界を支配している!」と歓びに満ちた顔をするところ、そして、現実世界の冴えないサラリーマンに家父長制のことを質問すると、「分からないようにやってるんだ」という答えが返って来るところがとても可笑しかった。

ケンが家父長制概念に目覚めた後の展開は、「女から見て男のやる馬鹿らしいことTOP10」を見せてくれる。と同時にそれまで二流扱いされて来た存在のケンの恨み節もちらほら出ていてなかなか。また、バービーたちがケンたちに仕掛ける罠の結果展開する騒動がミュージカルとして表現されている点はずっと笑ってしまうし、騒動の結末もまた「男のしそうなTOP10」のナンバー1の集大成という感じで見事だった。

そして、ケンという集合的意識が、如何にして自己に憑いた幻想と向き合うに至るか、という点は、現実にはほとんど起きない展開ではあったので、せめてそうなって欲しいという願望なのかもしれない。一部セリフがよく分からなかったので、日本語字幕で見られる皆さんにより詳しい解釈を待ちたい。

時代によってモノの意味が変わっていくというのも面白い。

十代の少女たちは、現実世界にやってきてニコニコ話しかけるバービーに対して「女のステロタイプをよくも作ってくれたな」という姿勢を取るのだが、バービー自身は「私たち女は何にでもなれる。私はその中の一つのステレオタイプ・バービーに過ぎない」と思って生きている。このギャップはそのまま世代間ギャップとして今皆が持っているのではないだろうか。作中では80年代の音楽が執拗に使われている。

今10代の女の子たちは、バービー人形は過去の害悪でしかなく蔑まれるものだとも吐き捨て、灰色の個性のないミノムシ服を着ている。まるで囚人服だ。彼らは同調圧力の中にあることがうっすら分かるし、彼らの旅は始まったばかりなのだから、見守っていこうということかと思う。

ステレオタイプ・バービーは、ステレオタイプであるからこそ、「私は何もないし、何もできない」。他人に求められる自分ではなく、自分の内面化した価値観からも自由な、そうでありたい自分になるためにバービーの下す決断は…。

いかにも今好かれる物語だと思う。だが、実はそこが最も難しいのだと私は思う。ここ数年そういう方向にアメリカ映画は進んできたのだと思うが、結局この映画を見て考えたところでそうなれなそうなのはなぜなんだろう。自分に厳しくなって行きづらくなってしまうのは内面化した価値観のせい?

タイのムエタイボクサーで、男性から女性に性転換をしたパリンヤーを描いた『ビューティフル・ボーイ』で、パリンヤーはこう言う。「男はつらい。女の人生もつらい。でも一番難しいのは自分がどうなりたいか忘れずにいること」

グレタ・ガーウィグの作品は、我々をその入口まで連れてきてくれるが、そこから先は自分で考えなければならない。

キャスト、音楽、ストーリー、演出、全て楽しく素晴らしかったし好きな映画だけど、どうしてもこう言っておきたくなる。

作中では、家父長制的アイデアでバービーたちが洗脳されてケン達にかしずいたと描いていた。それを『洗脳されたせいであって私のせいではありません、全部ケンのせいです、もっと言えば現実世界の仕組みのせいです』と描くのは、実は何でもかんでも悪魔のせいにしてことを次に進めようとするアメリカ保守ホラーの発想と大差ない。

本作は我々は主体的に生きられるのだと見せてくれるが、『なりたい自分』というものについて、我々はどういうイメージを持つのだろう。自分の内面化した様々な価値を周りから求められた期待なり抑圧として切り捨て、全て取り外していった結果残る自分が、そうでない自分よりよいとどうやって判断するのだろう。仮にそういう人もいるとして、それは全員が辿るべき道なのだろうか?我々は簡単に頭を切り替えられるものだろうか?或いは全ては方便で、ともかくその都度何かを批難しながら生きればもっと楽しいのだろうか。

私はこういう疑問を持っているので、やはり本作を全面支持とは言えない。様々に歪められた善が『悪いものと手を切る』ことで実現できると示唆している点に、今の時代の虚構が色濃い作品である。グレタ・ガーウィグが今後何を描いていくか楽しみだ。

余談だが、バービーもケンも性器はないのだ、とわざわざ明言したり、マテル社社長が執拗に『私は母なのだ』と言い、それを別の登場人物が否定する流れは、これまた今の時代についての監督の考えを示唆している気がして、大変印象的だった。

とにかく、大いに笑い、考えて楽しんでほしい作品。ライアンゴズリングとシムリウの掛け合いは絶品。

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