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書評『Finding Monju』(文殊を探し求めて)Earle Ernst著1994年?

アール・アーンスト(Earle Ernst)は、GHQの占領期、日本の舞台芸術の検閲にかかわったアメリ カ人男性である。彼についてはWikipediaに掲載が無いため、同書の解説に従うと、1947年に米国に帰国、ハワイ・マノア大学 で日本の舞台芸術(歌舞伎や能など)の研究の第一人者となる。32年間の研究生活の中で、ケネディーセンターでの歌舞伎舞台の実現を行ったことで知られる...らしい。1994年に82歳でこの世を去っている。
日本語でグーグル検索しても彼の名は出てこない。英語で検索しても、『The Kabuki Theatre』と、今回の本『Finding Monju』くらいしか出てこない。どういうことなのだろう。


私が本書を知ったのは、浜野保樹著『偽りの民主主義 GHQ・映画・歌舞伎の戦後秘史』(2008 年)である。Wikipediaでは、フォービアン・バワーズという人物...日本の歌舞伎をGHQ の政策から救ったとされていたアメリカ人に関する記述にアール・アーンストについて少し出てい る。彼はバワーズの上司で、嘘や誇張を繰り返したバワーズに対してずいぶん怒っていたらし い。 


ホラー映画の研究をと思っていた頃に読んだため、ホラーと関係のない浜野さんの著書についてメモを作成しなかったことが悔やまれるが、GHQ関係者も含め多くの当時の知識人がマルクス主義に染まっていたことを批判的に論証している本でもあったし、また、日本が本当の意味で独立できないという現状認識(00年代の日本はこういう本が新鮮だったの)を表明するもので、興味をひかれたのだが、その中で気になったのが、アーンストが著した唯一の小説『Finding Monju』がゲイ小説だったと書かれていた点だ。

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そこでタイトルよろしく、文殊を探し求め、結構高かったがAmazonで買った。 まず翻訳本を探したのだが、日本語に翻訳された形跡が無いだけでなく、この本の内容について言及している人が英語でも日本語でもほとんどいないことに驚いた。


本書は二部構成になっており、占領期に米軍と共にやってきた若い米国男性たち(ボブ、ス ティーブ、アレックス、ダニー等等)と日本人男性たちの同性愛の物語だ。第2部は語り部が、ボブの日本人の彼氏の息子ケンに対して語っている形をとっている。


本書は、1994年にアーンストが亡くなった後、彼の後継人である「Takeo Miji」という人物からイー ストンストリートプレスという出版社のジョンDミッチェルという人物に送られたそうだ。この編集者も長年分からなかった部分を知ることができた模様である(Almost at once it answered questions long on my mind.ほぼ一瞬で長年の疑問に答えが出たと書いている)。アーンストは同性愛者だったのだろう。


「日本に留学する欧米の男性の大半がアニメオタクかゲイよ!」

私のイタリア人の女性の友達が力説していたのだが、このような著書に接すると、彼女の言うこともあながち間違っていないばかりか、歴史的な傾向なのではあるまいかと思ってしまう。

ストーリーはわかりやすいメロドラマで、時代・世代などを考慮しても、同性愛男性が持つ特有の女性嫌悪(恐怖?)がストーリーの要所に出てくる。また、ラストをどう解釈するかで、ホラーになってしまう物語でもあるため、これはこれでホラーファンとしては面白いと感じる(『愛と追憶の日々』(1983年)は、感動ドラマなのか、母と娘のモラハラホラーなのか、今見 ると分からなくなってしまう感じ)かも。また、米国白人男性から見た若い日本人男性の性的な魅力、国際カップルの難しさと立場の格差、色んなことが結構赤裸々に描かれていて、死ぬまでこれを出版したくなかったが原稿を破棄することもできなかった気持ちも分からなくはない。


彼の体験した日本は、同性愛行為に極めて大らかで、それが欧米での日本理解と地続きのように思われる。確かにそういう側面もあったのだ、ということははっきりしている。

語り手が述べた、ある通りでは目くばせ一つで日本人の男を拾うことができたというアーンストの記述が、反対側から見たらどう見えていたのかは以下の記事をご覧いただきたい。

要するに、そうやって、戦勝国の男達に体を売ってお金を稼いで原資蓄積する行為が男性・女性のどちらにも見られたということだ。アーンストはそれを享受する代わりにお金を出した側にいたわけで、男が簡単に男と寝てくれる国だと勘違いしても無理はないと思う。それを拡大していくと、日米合作ホラー 『シャッター』のネオ・コロニアリズム論に行きつくわけだが。


他方で、アメリカに帰ったら暗黒時代が待っているという暗雲が、アメリカ人主人公たちの心を暗く覆っている。それは、結婚生活という形で表現されている。

第1部は、妻を伴って日本に赴任した大佐、バド・スペンサーの家を中心に描くのだが、そこでのその妻アルテア(?Althea何て読むか不明)の様子が何とも気の毒になってくる。彼女に同情の余地があるこのパートが無ければ、女性嫌悪がひどい悪名高いゲイ小説になっただ ろう(もしかして誰も触れないのはそのせい?)。彼女は早くアメリカに帰りたがっているのみならず、どうやら夫が女性と浮気をしているのではな いかと疑っている。また、上記ボブと日本人彼氏ヒロシとのキッスを目撃して嘔吐するほど激しいホモフォビアを表明する。第2部では彼女の不満がまずい方向に露呈するのだが、それも何だか気の毒で...。
また、アレックスが帰国して父親の抑圧で仕方なく結婚した妻の描写も結構ひどくてね。愛されない妻はひどい妻、でもそれって彼女も結婚以外の選択肢が無い中でよりによって隠れホモと結婚してしまったからであって全員が不幸だ。
アメリカの文脈を考えれば、強烈な保守性の中で皆が苦しんでいたということであり、いかに男性たちが、日本で羽目外せてうれしかったか、ということにもなる。おそらくその感覚は、今でも日本に英語の先生としてやってきてそのまま居ついてしまうタイプのアメリカ人には、実感としてあるのではないだろうか。
おしなべて、作中の日本人女性は男性のすることに対して口出しをしない。上記のアルテア夫人が、上記のキッス目撃事件で、ヒロシの母親のヤマギワさんに「もうやめてもらいますわっ」と事 情を言わずに切れたときも、ヤマギワさんは一切二人のことは咎めないばかりか、「いいんです よ、私は辞めちゃっても。でも契約があるのでねえ」と強気だ。ますますアルテアは気の毒だ。 たった一人、来たくもなかった日本で自由もなく、夫は外でちゃらちゃらして、友達はアメリカで結婚出産(これもまた今なら文句言われそう)し、それがうらやましくてならないのだ。その上で、 たった一人、己のホモフォビアと向き合えって言うのも酷だ...。

誰かが本作を読むかもしれないのであまり細かいところまで書かないけれど、ルース・ベネディク トの『菊と刀』が日本論のようでいて、実は優れたアメリカ論になっているように、本作も、日本というエキゾチックな場所で自分探しをしたアメリカ人男性たちの夢と幻想を扱っている。あまりに アメリカ的なのだ。進駐軍内でのレズビアン・ゲイに対する摘発密告が行われていたことも分かり、マッカーシズム直前の緊張感も感じられる。
また、本書では、日本では親が子供をぶったりしない、と書かれているが、おそらくアメリカでは日常的に親が子をぶっていたのだろう(マイケル・ギルモア『心臓を貫かれて』読むとそう思う)。そして、日本がそうじゃなかったとは到底想像できないのだが、筆者の心にあった日本は、精神的な価値の方が重用される理想の世界なのだ。
本書は、日本人の精神をよく映し出しているという評があるのだが、本当だろうか。これは、今まさに、インドという場所に、特権的な立場で棲み始めた日本人である私が、インドについてどういう文章を書いて残すかということを考えさせる。結局は、私が見た何かでしかないんだから、死ん だあと、私があんなこと書きやがってとインドの人に非難されても構わない。そもそも本を書き残せるかも不明だが、そういうつもりだ。
その意味で、『文殊を探し求めて』は、母国で羽を伸ばせなかったゲイ男性が、異国の地で数年間の安らぎを得た完結した物語だ。本書の冒頭でも、アーンストの言葉が紹介されている。日本にまた戻りたいかと聞かれた彼は「いや戻らない。私の知っている日本はもう消えた」と言ってい るのが示唆的だ。名目上は独立国となって経済発展もした日本がどんどん近代化したことで失われた何かで彼は一生の思い出を作ったんだから。
ここから先は最大のネタバレが入るので、読んで色々考えたい皆さんは読まないでくださいまし。



さて、本作のラスト4行がいくつかの疑問に回答を出している。明らかに同性愛者のヒロシになぜ息子ケンがいるのか。語り手はどうしてこの物語...父親はホモで、若いころは、私のゲイの友人 のボブとよろしくやっていたんだということをわざわざ息子のケンに伝えるのか。本書の最後4行 はこうだ。
After you (Ken) left, I said (to Hiroshi), 'Hiroshi, he is going to make someone happy.' Hiroshi smiled. I expected that is what he had in mind.
I've known him longer that you have, Ken, my love. Belive me, you've got a wise father.


第2部が、何も知らないケンに話していることを想定して読むと、ホラーとメロドラマのスレスレの一線が見えるぞ…。


(2/2 分かりにくいと思うので完全ネタバレ加筆。第二部は、語り手がヒロシの息子、ケンに、父親達がどんな恋愛をしたかを語るパート。その時点では、語り手とケンの関係は読み手に知らされていない。ケンのセリフは無い。読み進めていくと、最大の盛り上がり、多分日本脳炎で、ヒロシの恋人ボブは亡くなるパートが出る。そこだけ異様に熱い。天涯孤独だったボブは全ての財産をヒロシに残す。ヒロシは後に女性と結婚しているが、明らかに彼は妻を愛していない。また、妻も冷たく、浪費家で、子供達を人形のように扱っていると描写。隠れホモの家庭が崩壊している…(これもまた一つのステロタイプ)が、元々外専で男が大好きなヒロシがなぜわざわざ結婚したのか。母親のヤマギワさんはボブとの仲を公認していて、アルテア夫人から庇いもした。だが結婚したことについては特に意見が無く孫達と結構楽しくやってるわけよ。で、語り手のセリフから考えて、ヒロシが息子を語り手に会わせている。これは、ヒロシがどうしても息子を残したかったのだと語り手が解釈しているように思う。また、語り手はボブのことをケンに伝えたかっただけなのだろうか。何となく、ケンと語り手、これベッドの中で話している話だとしたら、ヒロシはケンを意図的に語り手に会わせてくっつけたようにも読めるの。語り手は同書の中で一番沢山の男と付き合っており、アメリカ帰国後も日本人の男がいたはず。しかも若専。そうではなくて、子供を持てない自分に息子がわりとしてヒロシが差し出したと解釈しても、何だかもう今の私としては、ヒロシと語り手の共感が気味が悪くて…ケンのセリフが全然無いからわからないんだよね、彼のことが)


私はポリコレで世界を清めようとする人たちも怖いけど、こういう風に、生殖ができない男性たちの欲望が、見えない生殖を介して繋がっていくという物語を喜べなくなってしまった。他方で、いくつかの理由でポリコレ的にはアウトな気がする本作、私はロジカルに言っても嫌いにはなれない。うまく作ればいい映画になると思う。オリエンタリズム、人種主義(本の中でも、外専日本人が自分は Racistだと言っている)、買う側・買われる側の非対称、女性嫌悪性...批判の方が簡単そうなんだけども、少なくとも、このように人生を表現できれば、日本での生活は楽しく、いい思い出だったと同国人に思わせることはできるだろう。



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