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セルフコンパッションにおけるジャーナリングと、その先へ

セルフコンパッションの情報を集めていたらジャーナリングなる方法を見つけた。
自分の考えていることをひたすらに書きだす。しかもそれを自分に対して肯定的に、ダメなところも穏やかに認めるように書いていく。脳のなかを吐き出すことで掃除し、しかもなるべく自分に優しい言葉をかける。
実はこれ、割と昔からやってる。昔はWordのファイル、今はnotion、ときどき開いてはバーッと書いている。たまーに見直すと、同じようなことをぐるぐる言っている自分に気づいたり、昔の自分を思い出すと知らない間に成長したかもと思えたりする。
基本的に誰にも見られない前提で書いているので、文章の流れとか論理が繋がっているかとかはまったく気にしていない。でも、よく考えてみると、このnoteで毎日文章を書こうと思ったら、このジャーナリング的な要素も入ってくるなと思ったのです。
完全に自分都合の文章。誰にもニーズの無い文章。もし、これを面白く、誰かのために僅かばかりでも繋がるのならそれはすごい。イメージは分かんけど。
自分の目的としては、「書く」ことの筋トレ的な意味合いから始めようと思っているので、まずは役に立たないものでいい。もしかすると、それでも喜んでくれる人がいるかもしれない。ま、いない確立99%だけど。もしかすると、これを1年くらい続ければ何か見えるかもしれないしね。
今後は、ジャーナリングと、アウトプットの境目をいい感じにつかんでいきたい。真面目で分かりやすい文章を書くのは得意なんだけど、最近は自分が飽きてきちゃってるし、それじゃあんまりおもしろくない。喋り言葉で出せるような勢いや雰囲気をうまく書き言葉に落とし込めるようになりたいのです。
ただ、書いてみて読み返すと、自分の思考力の浅いことに愕然とします。薄っぺらいことを言ってることに恥ずかしくなります。これが不思議と喋っているときは気にならないんですね。気持ちよく自信満々に話すんです。振り返らないからへっちゃらなんです。書いちゃうと冷静に振り返るから恥ずかしい。

セルフコンパッションというのは仏教でいう慈悲のこころを自分に向けようという考え方です。マインドフルネスの次に出てきた概念です。数年前からシリコンバレーで流行り始めているのでそろそろ日本でもブームになるかもしれないので、先におさえておこうと学んでおります。
僕の体験からすると、たぶんジャーナリングにもいくつか段階がある。自分のなかだけで、閉じられた体験の中で自分を認めていくのが第一段階。それが終わってくると、ジャーナリングを行為としてしなくても自動思考としてセルフコンパッションが働くようになる。
それで十分ではあるんだけど、そんな自分の限界や物足りなさを感じるようになる。小さな世界で自分を慰めているだけで、余計にみじめな気持ちになってしまう。そうなると、さらに次の段階。
まだ僕もここから先の体験はイメージできていないけど、「文章を書きたい」と思えるようになったのは、自分のなかで何か変化が出てきたように思う。自分の思考や体験をもう一歩深めていけるフェーズが来ているように思う。
引き続き、意味のあるのか無いのか分からない文章を恥ずかしげもなく書き続けていきます。もしちょびっとだけいいなと思っていただけたらリアクションいただけると、僕が元気になります。よろしくお願いします。

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