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「仏教×心理学」の2024年における現在地

一年の計は元旦にありということで、1月1日の朝、さっそくにパソコンを開いてみました。noteを投稿するのは久しぶり。「書くこと」を習慣にしたいという思いは定期的にあるんだけど、ぐるぐるとやっては止まりやっては止まりの輪廻を繰り返しております。今年こそは「毎日、少しずつ書く」を達成すべく、元旦からキーボードをたたいている。偉いぞ自分。

2023年はコロナで止まっていた時間が急に動き出した。山奥のお寺から、全国各地に飛び出すご縁をいただいた。2月の若新雄純さんと築地本願寺にはじまり、各地の別院での行事、5月には本願寺での親鸞聖人御誕生850年立教開宗800年の協賛行事に参加、ニコニコ超会議のメタバース寺院、6月はVoicy開始、AIとプログラミングでいろんなものを作り、NHKの企画で本の出版、茶道を頑張った、コラムもいっぱい書いた、バレーの日本代表だった益子直美さんと対談、今度はモーリー・ロバートソンさんとの対談がある。書ききれないけど、「一緒にやろうぜ」的に走っている企画や野望もいくつかある。

数年前の自分にとっては信じられないようなご縁をたくさんいただいている。しかも、この感じにだんだん慣れてきている。慣れるというのは、良くも悪くもというのはもちろんある。自分の基準値が上がってきたのは感じるけど、調子に乗らないようにしないとダラけて落ちぶれちゃいそうです。

何かについて「考えて喋る」ということはYouTubeをはじめて4年が経ち、かなりのレベルアップした。これは自信を持って言える。一方で、次の課題は「深く考える」こと。表面的な情報をカバーして、それなりに面白くお話しすることはできる。でも、そこに新しい価値を生み出すには至っていない。

「仏教×心理学」の現在地。両者を並べてそれなりの考察はできるようになった。けど、両者をただ並べて話すだけでは、どちらの価値も引き出せていない。もう一歩、考察の次元を深くしないと、こぼれ落ちているものが多すぎる。

「話す」という作業は流れていく。喋った次の瞬間には、前の言葉は消えて、次の言葉がやってくる。その心地よさはあるんだけど、論理のズレや意味の食い違いも、流れの中であまり違和感なく過ぎ去ってしまう。
「書く」とそうはいかない。ちょっとしたズレがあれば、何度でもそれが目に留まり、それ以上、読み進めることができない。書くときにはもっと正確性がいる。しかも、読むのは大変だから、面白くないと最後まで読んでもらえない。面白いというよりは、「流れ」を作るのが難しい感じ。喋るときは時間という流れが自然にできる。でも、書くときには、読み手の時間を止めて、自分の流れに巻き込まないといけない。

最近は、自分らしい文体を探したいと思っている。素敵な文章を書く人は世界にはたくさんいて、文章にひきこまれて、長い本でも一気に読めることがときどきある。何が「良い」のかはよく分からないけど、引き込まれる。たぶん、文章にその人の空気感にあふれていて、「喋る」と「書く」が一体になっているものは、自然と読める。聞いているように読める。

考えすぎると「書く」ことはできない。今年こそは自然に書ける自分になりたいので、毎日、少しずつ書くことにしたい。意味のない文章や誰にも届かない文章になるかもしれないけど、それでいいんだと思う。去年は意味を求めすぎて止まっちゃってたんじゃないかな。とにかく動き出せば、数年すればいい感じに成長してると思う。YouTubeもそうだった。2024年は書くことで、深く考えて「仏教×心理学」をもう一歩先に進めたいと考えている。

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