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20200805ゴボウと敬語の手紙

戦時中の話でひどく印象に残ったものがある。

日本で捕虜となった米兵に同情した地元民が食糧難のなか、なけなしの食事をふるまった。しかし 米兵は食事を見るなり激しく怒り 地元民を殺してしまった。

真偽は定かではないが これだけ聞くと米兵はおかしくなっていたのだろうか、と米兵の気持ちがサッパリ理解できない。なぜ彼は殺してしまうほど怒ったのだろうか。

地元民がふるまった食糧は「ゴボウ」だったという。豚汁に入っていると最&高のゴボウである。

日本人であれば「ゴボウ!?こんな食糧難のときに捕虜の私のために貴重なゴボウをふるまってくれるのですか!何と菩薩のような方、ありがたや」

と見返りは求めなかったのかもしれないが、地元民もこんな反応を期待しながらゴボウを出したのではないだろうか。

米兵からしたら「なんだこの根っこは!捕虜は木の根でもかじっていろというのか!捕虜にだって尊厳はあるんだ、何て残酷な奴だ!」

文化のちがいの悲劇である。かたや「精一杯のごちそう」、かたや「食べ物も与えられない屈辱」

言葉でコミュニケーションをとることもできない。

…なぜこの話を思い出したのかというと、先日 犬も食わないケンカをしたのだが (解決しました~コメントをくれた方ありがとうございました!)

もっと前にもケンカをして、その時は私の気持ちを手紙にして夫の机に置いた。口下手のため文章のほうが気持ちを伝えられると思ったのだ。しかし夫は手紙の序文を読むなり「破り捨てようかと思った」と後に語った。

私はGo to hellと書いたわけでも彼の欠点を書きなぐったわけでもなく 丁寧に「お互いの気持ちを考えながらちゃんと話し合っていきたい」っぽいことを書いた気がする。

破り捨てようと思った理由は「敬語で書いてあったから」

小学生の頃は友だちとの手紙のやり取りは いつものしゃべる感じと同じだったけれど、大人だしケンカしている相手にたいして丁寧に伝えたいと思ったので敬語になった。

私はマンガやゲームだとたいてい敬語使うキャラが好きだし、敬語の響きが好きなので敬語に距離感を感じることがなかったのだが、夫は「敬語」=「家族だと思っていない」と感じたらしい。けっこうな衝撃を受けた。良かれと思って丁寧に書いた結果 相手を怒らせたのだ。

関東出身同士でもこのような小さな文化のちがいがある。育った場所の問題でもない気もするが…。出身国がちがえばもっとギャップがあるのだろう、だからちゃんと意見を言語化する必要があって話し合いが前提にある国のほうが多いのかもしれない。

自分の当たり前は他人の当たり前ではないことを肝に銘じました。最後まで読んでくれて本当にありがとうございます。



つけヒゲに憧れているのでつけヒゲ資金に充てたいです。購入の暁には最高のつけヒゲ写真を撮る所存です。