母親の生存権と文化権
2017年11月12日 久保田翠ブログ「あなたのありのままがいい」から
10月30日、ハート・ネットTVブレイクスルー放映されました。
今回の取材や、番組を見ていてつくづく考えたことがある。
レッツは確かに、たけしの問題や障害者の問題を、私なりに解決したいという思いからはじまり、それが社会化されて来ている。
しかし、20歳を超えて、親とは違う人生を歩いて行ってほしいと望むその背景には、私自身が、そこから開放されたいという思いが強くなっていることに気がついた。
たけしが3歳の時、この子を育てながら仕事をしたいと役所に訴えると「それならば入所施設にお子さんを入れてお母さんが自己実現すればいい」と言われた。
唖然としたと同時に、その選択肢しかないという悔しさと絶望感と怒り。
それが結果的にレッツを起こしていく機動力にはなった。
しかし、今社会はその時とどれだけ変わっただろうか?
20歳を迎えた重度の障害のある息子の自立を考えたところで、それを支えるサービスは皆無だ。
それはすなわち、「家族でなんとかしろ」と言っているのも同然。
17年前となにも変わっていない。
日本の福祉は、子ども、障害者、高齢者も全部同じで、まず家族があり、そこが崩壊して初めて手が入る。
家族が支えることが前提なのだ。
そしてその多くは、母親、女性の仕事と責任として任されている。
それを、「私の生きがい」と思えない場合、あるいは「他に生きがいがある」場合(仕事などやりたいこと)それらは一度棚上げしないといけない。
しかし、そこに母親の、あるいは女性の人権は存在するのだろうか?
重度の障害者、高齢者、子どもの人権はよく議論になるが、母親、家族の中の女性の人権はある意味無視されているのではないか。
子どもを育てることは苦労の連続。その苦労によって得られる喜びというのはあるし、そこに多くの人生の示唆と味わいがあるのは承知の上だ。
だからといって、「私はこう生きたい」というものを、一時的にでも奪っていいものなのか。
また「母親だから当然だ」「親だから仕方がない」と、と考える風潮や恫喝にも似たお仕着せに、多くの女性は、負い目とそれでも違うという思いに悩んでいる。
しかしこの問題が深刻なのは、それは当然という教育がまだ行われ、あまり疑う人が同性でも少ないこと。
私ですら、
「迷惑をかけたくない」
「申し訳ない」
と思っていたし、自分でなんとかしようとしていた。
しかし、ここに来て初めて気がついたのは、そうやって、家族で全部なんとかしようと思ってきたから、困り果て、結局行政や福祉に頼るという構図を作ってしまう。
社会で、普通の人たちが、弱い立場の人々を看ると言った文化がどんどん欠如していったのは、当事者家族に課せられた荷が重すぎて、我々はなにも言えなくなったし、そこに自分たちでなんとかしなければいけないと言った妙な責任感と閉鎖性も原因していると思う。
いろいろな人が気楽に関わる機会がない状態を、家族自身が良しとしてしまった。
これからの時代、
そこを、開放する。
母親を開放して、そこに関わる人達を開放して..
弱い立場の人たちがいることが当たり前で、親が見なくても誰かがいるし、さらけ出せる社会に向かうには、ライトな感覚を家族自身が持たないと、この問題は解決しないだろう。
すべての人たちが自由意思で、面倒見たり、みられたり。
シェアし合う、「共生の文化」が本当に芽生えたらいいのではないか。
そのために、私自身が手放し、その開放感をちゃんと訴えていかないとけないと。
私の夢は、
一人で夜、ふらっと飲みに行って、友人と朝まで語り合うなんて生活。
私の歳になれば、当たり前なことができない現実。
そこにすべての根源があるのかもしれない。
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