たけしの金髪~自立の姿~
2019年02月28日 久保田翠ブログ「あなたのありのままがいい」から
先日たけしが金髪になった。
3か月たけし文化センター連尺町に滞在している友人テンギョウ・クラさんとスタッフの尾張さんから「たけし金髪にしていいですか」と。
金髪か。
「どうして?」って聞くと、
「きっと似合うと思うんですよね」と。
その後、数日がたったある日、たけしの髪は金髪になっていた!
しかし、何だからわからないけれど、悲しい気持ちになった。
それは、「本人の意思が確認できていない」と思えてしまうからだと思う。
なんかもやもや。
その気持ちを、テンギョウさんやスタッフに相談してみた。
「本人の意思はどう確認するんだろう」と。
「翠さんそれはほとんど問題ないよ」とテンギョウさん。
たけしを愛しているスタッフと友人たちが、「こうやったらもっとたけしはかっこよくなるんじゃないか」「こんなカッコ、もっと似合うんじゃないか」と話しあって決めたこと。
それはたけしを無視して決めていることにはならないよ と。
たけしの洋服も髪型もいままでだれが決めていたかといえば、本人ではない。
ほとんどが私。
特に髪型なんて、床屋にも美容院にも行けないからいつも私が適当に切っていた。
それは「こうなればもっと良くなる」
なんて余裕はなく、とにかく長くなって見た目よくないから切るといった程度のモチベーション。
たけしは全くお構いなしだし、むしろ髪をいじられるのが嫌いだから寝ている間に切るから余計おかしくなった。
それに比べれば今回は、モチベーションがまず違う。
こうやったら、ああやったらとワイワイ言いながら決めたのだろうし。(たけしが寝ている間に染めたことには変わりがないのだけれど)
それは、わたしが「しかたがないなあ」と思いながら切るのと違って、本人もウハウハしていたのではないか。(想像できる)
金髪になって2週間。
たけしはとても調子がいい。
だって、金髪って、どこに行っても注目される!
「おっ金髪」とか「たけちゃん金髪にしたんですね」とか。
「金髪」というアイコンはかなりインパクトがあるようだ。
それによって面白い反応がある。
スタッフが、今日のつなぎとインナーの組み合わせは金髪に合う とか、今度こういうかっこしてみたらどうか。など、いままでにはなかったファッションチェック?の突っ込みがある。
本人も分かっていると思う。
注目されるのはどんな人にとってもうれしいものだ。
金髪にしてきげんがいいったら。
先日もあまり好きではないショートステイでも「金髪」は注目されたようで、いつもは難しいご飯もちゃんと食べてきた。
オッ進歩!
というか単純。
もちろん発語がない人だから、実のところどうだかなんてわからないけれど、とりあえず今のところ一番そばにいる母親である私はそう感じる。
「たけしは、金髪を楽しんでいる」
そしてここから結構すごいことを私は学んだように思う。
多少ぶっ飛んでいる母親である私でも自ら「たけしを金髪にする」という発想はなかった。
それは私が初期に感じた たけしの意思はどう確認するえばいいか という、自己決定権みたいなものにとらわれていたから。
しかし、たけしをよく知るスタッフと友人たちは、そこを軽々と越えていくのだ。
「合理的配慮」とか「自己決定」なんてことではなく、
人として、友人として、「合意形成」されていく彼のクオリテーオブライフ。
それは、安全で、無難なことだけではなく、ちょっと冒険的で、刺激的で、でも確実にたけしの新しい人間関係や社会を開くきっかっけになるかもしれない可能性も含んでいる。
これは決して「親」ではできないことだとつくづく思う。
と同時彼は、回りの人たちと あーだ こーだ と議論を促しながら、自分の生活を成立させたり、流れを変えたりできるのだと思う。
これこそが「自立」。
私は最近、「親なき後をぶっ壊せ」と叫んでいる。
それは重度の障害者の親であっても自分の人生を生きたい。
そのためにはいつまでも、子どもと手をつないでいてはいけない。
それは、知らないうちに、子どもの人生を限定させていしまうという罪も犯してしまうのだ!
少々過激な言葉を使って叫んでいるのだが、たけしの金髪は私が考えている以上に、たけしの自立はもう始まっていることを実感する。
つまり、手を放す、放さないと考えていうるのは親(私)ばかりで、たけしはとっくに自ら手を放しているのだ。
そう。
(実はわかっているんだけど。)
「親なき後をぶっ壊せ」の本当の意味は、たけしの自立がテーマではなく、私自身の「生きなおし」「今後の人生の作り方」を自ら問うているのだと思う。
それほど賢明ではなかった母親が重度の障害児を前にすべてをささげるしかなかった人生の中で、子どもの自立する姿が見えてきたときに、我に返る。(よくある話である!)
レッツという団体を立ち上げ、ありがたいことに芸術選奨なんて賞もいただいたにもかかわらず、「私の人生はこれでよかったのか」などと、56歳にして悩むという、本当にしょーもないことなのだけれど。
同時に、私はやはり何かを忘れたのか失ったのか、それを回復させようとしているのかもしれない・・・。
あー終わらない。
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