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やきとりキングのこちら側から(2) 戦略的週休二日


火傷のあとが痛い。クリスマス営業の時に負った傷だ。店の歴史上最大の週間売り上げになったのだから名誉の負傷といえるだろう。使用しているロースターは昔ながらの機械で、ガスによる強い熱の中をゴンドラが回ってまんべんなく焼くというもの。こんな機械をいまだに使っているところは希少になっているという。どんなに有能な機械より単純だけどハイパワー。ゆえに動作中は機械自体が猛烈な熱を帯びる。そこから商品の出し入れの際に手の甲が機械に触れてしまったのだ。傷跡はかさぶたになっているが、見るからに痛々しいので証拠写真は掲載しない。誰も見たくないか。

クリスマス営業が終わり街は年末の準備に忙しそうだが、そんな中うちの店はいつも通り月曜と火曜を休みにした。この原稿はそんな月曜日の午前中に書いている。おそらく年末だし当然お店はやっているものと思ってお客さんが訪れると思う。予約の電話も入っているだろう。申し訳ないとは思うが、休みは休み。そもそもこの一週間の疲れが肩に、腰に、足に、そして目や脳にも来ている。この疲労をおして休まず営業などというのは、商売をするための体をおかしくする。現実的じゃない。今年は日取りも良くクリスマス終わりで土日乗り切れば定休日を挟んで連休できる。それが僕たちのモチベーションの一つだった。残り二日間営業すれば新年は六日まで休みだ。本当に嬉しい。僕は存分にぼーっと過ごし、創作したり、なかなか会えない友達と会ったり、そんなことを目論んでいる。

ところでこの週休二日制だが、うちは四年前から採用している。自営業の食品販売店で週休二日にしている店はいまだに珍しい。安倍内閣の時に「働き方改革」を打ち出したのはご存知だと思うが、それに先んじて週休二日にしていたのだからやきとりキングは先見の明があった。

週休二日にしたきっかけは母の入院だった。とある病気で二週間ほど入院し、店を父と二人で営業しなければいけなくなったタイミングで試験的に導入した。実は僕はだいぶ前から週休二日に出来ないか考えていた。動機は単純である意味身勝手なものなのだけど、自分の音楽をはじめとする外部の活動をやりやすくしたいという個人的な理由だった。三十代の体力があったので仕事終わりでライブの予定を入れたり、一日の休みでも無理して活動出来ていたが、やがて僕自身も四十代になる。四十代は今でこそ「まだ若い」と言われがちだが、かつては晩年に差し掛かる年齢だった。実際体力の低下は三十代の時分でも自明のものとして予測できていた。一言で言えば「おっさん」になる。そんな体力の面でも、このままでは自分がやりたい外部の活動が出来なくなる日が来ると感じていた。

それだけではない。両親もその当時六十代後半になっていて、今までのような働き方では長く続かない。父はよく「仕事に疲れて月曜の休みをただ寝て過ごしてしまった」と言っていたし、地域の友人というものが殆どいないと漏らしていた事もあった。母も同様に友達と遊びに行くみたいなことは随分出来ていなかった。父は若い頃は水泳をやったり絵を描いたり、子供の頃の僕はそういうところをカッコいいなあと思っていたし、そういう姿を見ていたからこそ僕の中の芸術的な感性は育ったのだと思っている。そんな父の姿が薄くなっていたことを単純に嫌だなと思っていた。週休二日にすれば一日は完全に仕事の事を忘れられる。友達ができれば飲みに行ったりも出来る。そんな生き方にシフトできたらもっと豊かさを感じてもらえる。そんな事を数年ずっと考えてきた。


戦略的週休二日

僕が打ち出した週休二日案は「戦略的週休二日」と銘打ったものだった。
それまでは火曜日から日曜日までの営業で定休日は月曜日の週一日。火曜日の朝は仕込まれたものがゼロの段階から立ち上げなければいけないので、午前中に来たお客さんに対応出来ないことがしばしばあった。水曜日以降は前日の夕方以降に仕込んだものがあるので朝からある程度対応可能だった事に着目し、水曜日にある程度仕込んだものが存在すれば週の頭から戦えると考えた。なので月曜日は完全休業、火曜日は午前中を仕込みの時間にして午後は休みというスケジュールを立てた。実質は週休一・五日だが、月曜のみならず火曜日にもライブ活動を入れる事が出来る。店を開けずにする仕込みは集中して準備が出来るので水曜日はそれらを焼くところからスタート出来る。
というのが竹田克也作成「戦略的週休二日」の概要だ。

母が入院して男二人になった時に父にこの戦略の話をした。三人でやっている事を二人でやるというところから、お互いに身体的な限界は見えていたのでとりあえず母が復帰するまではそれでやってみようという事になった。その時はお弁当の販売も停止して焼鳥と惣菜だけの営業になったのも影響し、売り上げは明かに下がった。下がったといっても今考えると二人体制にしては売り上げをそんなに落とさずむしろ維持していたと見ることが出来るが、父は「本当にこれ大丈夫なのか…」と不安がっていた。僕は「ダメだったらまた戻せばいいんだから、しばらくこれでいきましょう」という風に打診し継続する事になった。母が無事回復して復帰してきたタイミングで週休二日はそのままにお弁当を再開。お弁当目的に来ていたお客さんも次第に戻ってきて、いつものやきとりキングになってきた。
と、そこで気づいたことがあった。

売り上げが上がっている。

数字を見れば明らかで、以前よりも売上の平均値が上がっていたのだ。詳しい数字は明かせないが、平日の売り上げが単純計算で一・二五倍。土日も同じかそれ以上の割合で上昇。いつの間にか週間の売り上げは週六日営業していた頃より多くなっていた。これには両親も驚いていた。この戦略的週休二日で五日営業でこれまでの六日営業と同じくらいは売れるイメージはあったが、まさかそれを大きく上回る結果になろうとは僕も思ってもいなかった。

いつしか父は「俺は週休二日は絶対にやめないぞ」と言うようになった。それと同じくらいのタイミングで近所の友達が出来た。その方と両親は月に一回のペースで夫婦同士で食事に行ったり、たまにコンサートに行ったりするようになった。
母は母で行動的になった。高齢者施設に入居しているおばさん(母の姉)を見舞いに一人で電車やバスを乗り継いで千葉まで出かけるようになった。しかも時に乗り継ぎを迷ったりしてるらしい。
両親が豊かさを再発見してく姿を見て僕は本当に嬉しかった。これは一般的な親孝行とは違うけど、僕はやっと僕なりの孝行が出来たと思い嬉しかった。
僕はというと月曜日に老人ホームライブをやったり、年配の人に歌を教える仕事のオファーがあったり、祝日月曜に地域の中規模イベントを制作したり色々チャレンジ出来るようになった。一時期は月に五、六回ステージをやったこともあった。

冒頭のロースターだって休ませたりメンテナンスしなければ長く使い続けられない。それは人間の体も一緒で、休むことは長く続けるために必要なことなのだ。それによって人はやっと、偶然生を含む「豊かさ」が入り込む隙が出来るのだ。

売り上げはその後も順調に伸び、去年は父が入院したタイミングで一人雇い入れることになった。これも売り上げが伸びているからもう一人分の人件費を捻出できる見込みが立ったから出来た。二〇二〇年はコロナウイルス感染拡大の影響でうちに限らず生活必需品やテイクアウトのお店はかなり忙しかった。四人体制を整えられていた事が、その状況をちゃんと受け止められてしっかりとした事業基盤を作り続けられた要因で、それはやはり四年前に週休二日にした事がターニングポイントだったと店の歴史に刻むことが出来る。

実はうちに影響されて東長崎の二つの自営業店も週休二日にしたと聞かされた。そういう影響を伝達出来たのは本当に嬉しい。

「週休二日の次は時短だね」と最近友人に言われた。それは前から考えているが、うちの店の特性上なかなかそこに踏み込むためのアイデアが出てこない。両親もいずれ引退していく事を考えると、僕は今後より経営ということを考えて店を一緒にやる仲間を作っていくことが求めらるのだろう。そのタイミングが来たらしっかり考える事にして、今日のところは疲れ切った体を休めることを第一にしたい。

はやく火傷が治りますように。

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