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【小説】昭和、渋谷で、恋をしたり 1-7

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▼ 慣れた手つき

 それから他の従業員に佐藤さんのことを聞くと、その人柄からか、誰もが佐藤さんの復帰を喜ばしく話した。
 博識、博学、そしてユーモアもある。ゆっくりとした口調は余裕を感じさせ、優しくて背が高くて、スマート。非の打ち所がない。そして誰かが言った。


 「奥さんもきれいなんだよね」

 「娘さんもかわいかったよな」


 渋谷駅で見た夏奈恵のあの笑顔は、父親との再会の笑顔ではなかった。すると記憶の中のあの笑顔は色を失い、灰色の石像となって胸の奥に横たわった。


 「不倫」という言葉は知っていたが、受験には出てこない四字熟語だ。その真意は到底わからず、悪いことのような気がするだけだった。

「不倫だなんて、決めつけるのもおかしいだろ?」

 自問自答するしかできないのだが、そう思うほどに不慣れな胸騒ぎを繰り返した。

 それから、数日後のバイト帰り。
 少し残業をして従業員口を出たとき、佐藤さんと夏奈恵の2人にはち合わせてしまったのだ。見てはいけないものを見た気持ちになり、急いでその場を立ち去ろうとしたが、意外にも佐藤さんが引き止めてきた。


 「ちょうど飯でも食おうかって話していたんだ。ガリ勉もどうだ?」


 振り返ると佐藤さんは落ち着いた口調で笑顔を零していたが、となりの夏奈恵の表情を盗み見ると、ぎこちなく目線が駅の方へ飛んでいた。
 そんな夏奈恵の表情を見て遠慮したのだが、佐藤さんの優しくも強い誘いに、結局2人の後をついて歩き出すことになった。そして渋谷駅にほど近い居酒屋に入ろうとしたときだった。


 「ちょっと電話してくるから、先に入ってて」

 そして私と夏奈恵は佐藤さんに言われるまま店に入り、店員に人数を告げ、ウェイティングのイスに並んで座ったところだった。佐藤さんが戻ってきた。

 「ごめん、10円玉ない?」


 私は慌てて財布に手を当てたが、佐藤さんの目線は夏奈恵に向かっていた。夏奈恵は呆れながらカバンから財布を取り出し、10円玉を3枚握りしめると、佐藤さんの手のひらに置いた。佐藤さんの手のひらに10円玉が移る、その瞬間がスローモーションに映った。


 「サンキュー」

 「いいえ」


 慣れていた。

 2人にとってこれが慣れたやり取りだということは、なんとなく伝わった。そしてこの短い時間の間に、私は完全に傍観者となり、疎外感という柵に包囲されてしまった。

 それからの酒宴は佐藤さんのユーモア溢れる話題を軸に進んだが、私は飛び越えられない柵の中で作り笑いを繰り返した。
 そして、まったく酔えない酒宴がお開きとなって店を出ると、電車に乗らない私はすぐに1人にならざるを得なかったのだが、その後の2人のことが頭から離れず、自転車をこぐ足はいつもより重かった。


 誰だって100円玉で短い要件の電話はしたくない。10円を借りるも貸すも、誰もがする普通のことじゃないか。
 何度も言い聞かせた。でも夏奈恵の指先からから佐藤さんの手のひらへ移る10円玉が、私の疑いをより堅い確信に変えていた。それでも、まだどこかで「違ってくれ」と期待も捨て切れずにいた。

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▼ やめておけ

 そんな虚しい酒の席が何日も頭にこびりついた。そして、たまらなくなった私はプラネタリウムの先輩である山口さんに、遠回しに聞いてみることにした。

 山口さんは都内の私大を卒業後、そのまま大学院、研究室とすすみ、教授を目指して天文学の勉強をしていた人だった。たしか年は5歳くらい上だった。
 大柄で柔道選手のような体格にも関わらず、天体観測を通じて宇宙に酔いしれていたロマンティストだった。女性従業員からはそのギャップをよくからかわれていたが、誰もに愛され、頼れる先輩だった。
 

 そんな山口さんと休憩室で2人になったときだ。下世話な話しが好きな山口さんが「彼女とはどうだ?」などと聞いてくるので、和美とは倦怠期であまり会っていないことを伝えると嬉々として聞き入ってくれた。そして付き合っている男性がいない女性従業員の名前を羅列しては、その人物批評を語りだしたので絶好のタイミングだったのだ。


 「夏奈恵さんって付き合ってる人とかいるんですかね?」


 すると山口さんの顔が塩をなめたように歪んだ。


 「あいつはやめとけ。美人だけどな」


 山口さんの言葉は耳を通り過ぎているだけだった。けど、それも一瞬だった。山口さんが口からタバコの煙を大きく吐き出すと、顔を近づけてさらに声を潜めた。
 

「それに、あいつ、不倫ばっかりしてたみたいだし」



1-8へつづく
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