スクリーンショット_2020-01-31_19

文字と関わる

僕たち制作者は、本当に “文字” というものを正しく扱えているのだろうか。

新聞・雑誌やネットに掲載される記事から、ポスタービジュアルにおけるタイポグラフィまで、僕たちが日常で目にする“文字”というヤツの形態は多岐に渡る。

そして、裏方となる “文字を扱う職業” も、記者やライター、編集者、エディトリアルデザイナー、グラフィックデザイナーにウェブデザイナー、映像作家、古くは写植(写真植字)など、実に多種多様だ。(文字を作る職業については、いずれまた書こうと思う)

しかし、多様ではあるが、いずれの職業も「何かを誰かに伝える」という共通の目標が根幹にある。

良い原稿が読まれない

友人の紹介で、医療系の報道記事に関するジャーナリズムの勉強会に参加しているのだが、その参加者のほとんど全員が、「上手く伝える方法」を「上手い文章を書くこと」とだけ考えていることに驚いた。

デザイナーという自分の職業柄、良い原稿が下手なデザインによって“伝わりにくい情報”になってしまった現場をいくつも見てきたこともあり、情報を伝えるために取材から執筆まで丁寧に行う記者やライターの上述のような認識に、違和感を感じた。

雑誌や新聞の主役である、いわゆる《見出し》や《本文(ほんもん)》といった文字列を、紙面や画面に配置した上で読みやすいように細かく整形・調整する一連のデザイン作業を《文字組み》あるいは《組版(くみはん)》と呼ぶ。

この言葉は、まだ印刷機に今日ほどの自由度が無かった頃、インキを紙に印刷するための活版(かっぱん)をいくつも組み合わせて、デザイン通りの刷版(さっぱん)を作製する工程を組版と呼んだことに由来する。

日頃当たり前のように目にする文字列のほぼ全てについて、文字組みという作業は行われているのだが、それは単純に、どれだけ良い原稿であっても、読みにくい文は読まれないからだ。

文字間や行間に適切な隙間ができるよう詰めたり空けたりするだけで、読みやすさや “読み心地” といったものはガラリと変わってしまう。読み心地が変われば、記憶への残りやすさや印象も変わる。

つまり「伝わり方」が変わる。

文字は声に代わって、情緒とともに情報を一言一句違わず発信者から受信者へ伝えてくれる媒体であり、代弁者なのだ。

紙とウェブ, 固体と液体

僕は広告制作やウェブサイト制作の仕事の中で、デザインとライティング(原稿執筆)を頻繁に反復して取り組むようにしている。メディアの性質によって文字組みに制限が掛かり、その結果として原稿の良さが損なわれるのをできるだけ避けるためだ。

こうした姿勢は特に珍しいものではなく、記者に編集者を兼ねさせる会社では当たり前に取り組まれていて、特に書籍や雑誌の製作では編集者とデザイナーとの綿密なやり取りの中で文字組みを行っている。

ところが、これが大手メディアになるほど、蔑ろにされやすいようなのだ。

例えば、とあるレガシーメディア(古くからある媒体社)では、新聞用の記事は記者が “新聞用に” 書き、その原稿をウェブ担当者がウェブメディア用に編集ないし整形してリリースしているのだが、この「新聞用→ウェブ用」という変換が、あまりうまくいっていない記事が多い。

これは、新聞のような「誰しもに同じ形状の紙に刷られた文字を読ませる媒体」と異なり、ウェブメディアが「PCやスマートフォンなど閲覧デバイスによって文字列のかたちが変わる」という性質を持っていて、記者や編集者がこれに対応できていないためだ。

ウェブメディアには、ボタンやリンクテキストをタップないしクリックすることで同じページの特定の位置に画面を移動させるなど、紙媒体では実現できないウェブ独特の機能を比較的簡単に追加できる。

しかし、こうした機能との兼ね合いは、文字組みのみならず原稿の構成にまで強い影響を及ぼす。

この「紙とウェブの性質の違い」は、固体と液体くらいに大きな違いで、固定された組版規則に狙いを絞った書き方で対応できることはほぼ無い。

これに対し、原稿をウェブ用に編集する作業を記者自身が担当したり、そもそも最初からウェブ用を第一に考えて原稿を書くなど、一部メディアは対応を始めている。

メディア業界はこれまで堅牢な村社会の様相を守ってきたが、伝統や固定観念に囚われず、どのような人にどう読ませたいのかを、様々な角度からダイナミックに取り組む視点と姿勢が必要なのではないだろうか。

それが、言葉を文字に乗せて発信するという行為に携わる僕たちに求められる素養であるように思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?