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生きる意味とは何か

中学生の時に個人経営の塾に通っていた。そこの塾は学校の教室を一回り小さくしたような広さで、男女合わせてだいたい20人弱が通っていた。先生が1人しかいないため、よくある新学会みたいに学力別にクラスが分けられることもなく、進学校を目指す奴もいれば工業高校を目指す奴もいた。

地域の個人塾なんてほとんどが同じ中学校の生徒だし、また仲のいいやつらばかりが通っていたから、塾がある日は学校も合わせてほぼ一日中一緒にいたことになる。でも夜遅い時間に会うのも新鮮みがあって、第二のクラスという感じがなんだか無性に楽しかった。

もちろん塾が楽しかったのは友達が多くいたことがその理由の一つで、そしてもう一つはとにかく塾の先生が最高だった。先生は別にカッコよくはないし、めちゃくちゃ面白いというわけでもない。なんなら一重で腫れぼったい顔だし、時々放たれるブラックジョークに生徒たちは笑っていいか分からなくて顔を見合わせることも多かった。

それでもなお教室を暖かい雰囲気にしようと、僕たちを常に楽しませようとする雰囲気が先生からは伝わってきた。もちろん騒がしくした時には怒られたけど、次の瞬間には生徒たちが笑顔になるようなフォローも忘れなかったし、生徒が勉強で疲れているような時には、そっと教室の後ろにお菓子を用意してくれていた。

そして先生は、生徒ひとりひとりをただの子どもとして扱うのではなく、一人の”人間”として接するよう心がけていたように思う。少し身長の大きな先生は、ボク達と同じ目線で対話しようしているからか、いつも大きな体を窮屈そうに丸めて、笑顔でボクたちに話しかけた。中学生のどんなにオチのない話でも、屈託のない表情でうんうんとうなづいていた。

面白くないとこも、たまに面白いとこも、あんまカッコよくない姿も、目を細めて笑うところも、少し絵が下手なところも、円を上手に書けたとはしゃぐ姿まで、先生のことが全部含めて大好きだった。先生みたいなタイプの大人は、少なくとも僕の周囲にはいなかった。周囲の大人は都合の良い時だけ大人のふりをする。ダサい姿も見せる先生は、僕たち子ども側の味方に見えた。

だから二年弱通っていた中で、部活で疲れたからめんどいなと思うことはあっても、塾に行くのが苦だとは一回も感じたことがない。受験まで通っていた生徒のメンツがほとんど変わらなかったところから見ると、成績の上下に関わらず、やはりみんながみんな塾を楽しんでいた雰囲気があったように思う。やはりそれは何よりも先生の力が大きかった。



ある日、塾の休憩時間に友達が話しかけてきた。

「お前新聞とか読む?」「いやあんま読まないけど」「お前んち朝日新聞?」「そうだけど」「今日の朝刊の一面を読んでみて」

理由を聞いても濁すばかりで答えようとしない。なんだか不自然なその様子にモヤモヤした感情を抱えたが、そんなこと先生の用意したお菓子をほおばっているうちに忘れる。そしていつも通り算数と英語の授業を終え、ママチャリをこいで家に帰った。

家に帰って風呂に入り、遅めの夕飯を食べる。明日も部活あるし寝ないとな、なんて部屋に向かってる途中にさっきの一件を思い出し、新聞を無造作に手に取った。新聞の一面の左端に目を向けた瞬間に、友達の言わんとすることを理解した。


今まで見たことのないような表情をした先生。
震災で娘を亡くして、という言葉。


先生って家族の話はあまりしないな、そう思ったことは何度かあった。しても少しだけ。塾のスペースも他の人から借りていることは知ってはいるものの、先生が一体どこから通っているかは知らなかった。先生は常に塾にいたから、「いつ家に帰ってるんですか」なんて軽口をたたいたこともあった。


「海のそば」 「新築」 「小学校三年生の娘」 「祖母と共に」 「塾に向かう途中に」


単語が上手く入ってこない。異様にのどが渇いた。文章を読み進めていくうちに、今まで感じていた違和感にも満たない小さな気づきが、少しずつゆっくりと心にのしかかっていく。

写真の中の先生はどこか遠い目をしている。いつもの優しそうな笑顔とは対照的なその表情に目を奪われ、新聞から目を離すことができない。

ネットを調べると、当時の心境を赤裸々に語る姿もあった。そのつぶやきは丁寧な言葉にも関わらず、節々には最愛の娘を亡くした悲壮感に溢れていた。でもそんなことをおくびにも出さず、先生は何年も何年も生徒に笑顔を見せ続けていたんだ。

先生は悲しいほどに大人だった。


生きるってなんなんだろう。こんなにも良い人が不幸せになる世の中で、そんな世界で果たして生きる意味はあるのだろうか。こんな辛い目にあうのならば、死んだ方がましなんじゃないか。生きることの意味は何かあるんだろうか。


僕はこの出来事がきっかけで、生きる意味とは何かを探す命題を背負った。


・・・


大学では哲学を専攻した。就活でクソほどに役に立たないよ、そんなの学んでも一つも意味ないよ、という声は無視した。「難しいことを学んでるんだね」と笑う人には、「オマエみたいに何も考えないで生きていたくないんだよ」と心の中で中指を立てた。

そして『夜と霧』という本に出会った。第二次世界中にアウシュビッツ強制収容所を体験した作者が、それを記録した本だ。作者曰く、全ての物事には「意味」があるらしい。例え身近な人が無くなったとしても。彼も収容所で最愛の妻を亡くしている。


彼は僕たちに語りかける。

人々は直接的に訪れる運命に対して、未来に起こりうる天災によって引き起こされる罪の意識や死、そして苦悩を悲運だと嘆くだろう。
でも運命に耐えることがあなたの中で「意味」をもつことを忘れてはならない。
私たちがあまりにも早く武器を捨て、あまりにも早く事態を運命的だと認め、運命だと思い込んだものに屈することを警戒しなければならない。運命や、人間の運命的な災い、そしてそういった災いに見舞われた人間の苦悩が、生きる意味の一部になり、生きることでのみ、意味を見出すことができることを忘れてはいけない。


生きることでしか見いだせない「意味」もある。
どんなに辛い出来事が起きようとも。


震災のすぐ後に、おばあちゃん達がしきりに口にしていたのは「命があるだけ万々歳」という言葉だ。津波で家が流されようとも、原発で長らく過ごしてきた土地を追われようとも、生きているだけで素晴らしいんだよ、そう何度も何度も自分でもその言葉を噛みしめているかのように言われた。



作者の言葉と、そんなおばあちゃんの言葉が重なる。


・・・


昨年の夏、ある若手俳優が亡くなったことがセンセーショナルに報じられた。自死らしい。「クソみたいな世の中を生きていくには、彼は優しすぎた」というどっかで見たコメントが妙に心に残った。そして立て続けに彼と映画で共演していた有名な女優もこの世を去った。

今年の夏には、パワハラを苦にこの世を去った男性も報道されていた。彼はは東京大学大学院を卒業後にトヨタに入社し、直属の上司からパワハラを受け入社翌年に休職。その3か月後に復帰したものの、その月に命を絶った。

「会社ってゴミや、死んだ方がましや」

両親に送ったメールにはそう書かれていた。



毎年およそ20000人の人々が、自分で世を去る決心をする。上記の例は20000分の1でしかない。世には報じられない方々の方が圧倒的に多い。彼らひとりひとりが、それぞれの人生を生きている中で「死んだ方がましなんだ」と思い、自分の人生に手をかける。

そして悲しいことに、今なお生きてる方が辛いと嘆く声が世の中には多く溢れている。スポーツの祭典なんかではかき消せないほどに。

その方々の心境を考えると、悲しくてやりきれない思いになる。生きるを諦めてはいけない、生きることでしか「生きる意味」を見出せないということも分かっている。でもこの世はやるせないような事実に溢れていて、素直に「生きよう」と伝えることがはばかられてしまう時もある。

だから言わない。「生きてればいいことあるよ」なんて言葉は、今のクソみたいな現実をむしろ自覚するだけだ。



偽善と思われてもいい。自己満だと蔑まれてもいい。あなたの人生の選択に、そっと寄り添うことを誓う。延々と話を聞く。否定は絶対にしない。


そしていつか、

「生きることは素晴らしい」と心から思える景色に

「生きてて良かった」と分かち合える瞬間に

あなたの隣にいることができるのならば、僕は嬉しい。

読んでいただき本当に本当にありがとうございます! サポートしようかな、と思っていただいたお気持ちだけで十分すぎるほど嬉しいです。いつか是非お礼をさせてください!