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Books, Life, Diversity #15

在宅勤務時間が終わってから、本棚の前に立ってきょうは何の本を紹介しようかと考えていると、プログラム構築で殺気立った気持ちが和らぎ、とても良い気分転換になります。のんびり本だけを読んで暮らしたいものですが、来世にでもならない限りとうてい無理ですね。というわけであくせく働きつつも第15回です。

「新刊本」#15

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デヴィッド・グレーバー『民主主義の非西洋起源について 「あいだ」の空間の民主主義』片岡大右訳、以文社、2020年

民主主義と聞くと、私の場合だいたい「アテネ!」とか「ポリス!」とか、あるいは「ホッブス、ロック、ルソー!」などと数珠つなぎに連想してお終いです。あとはせいぜい「ハーバーマス!」とか。無論、ハーバーマスはもっとも尊敬すべき哲学者のひとりですのでそれはそれで良いのですが、そうすると民主主義って西洋文明特有のものなのかな、という気持ちになってきてしまいます。だとするとそれは根本的な次元で日本に、あるいはアジアやその他非西洋地域に応用できる概念なのかどうか。けれどもそこで、やはりアジアにはアジアの歴史と文化があって民主主義は根づかないのだとか、そんな単純な議論に陥ってしまっては問題です。私はそこで民主主義というものの原理に注目して根源的民主性などと言ったりしますが、どうも私の議論は一神教的世界観の色彩が強いらしくあまり受けが良くありません。まあそんなことはどうでも良いのですが、本書は民主主義という西洋由来と思われている概念について、そもそも西洋とは何なのか、そこに実体はあるのかを問い、そして民主主義と呼ばれるものの本質に着目すればその源流と実践はより広く世界中に見ることができるのだということを明らかにしていきます。以下、訳者あとがき(「「あいだ」の空間と水平性」)からの引用です。

グレーバーはこうして、アテネとそれを引き継ぐと称する西洋の立場を顕著に相対化する。しかし、民主主義を非西洋化しようとするこの努力は、反西洋の企てとして遂行されるのではない。民主主義はアテネ起源ではなく、西洋がそれを特権的に受け継ぎ実現してきたわけでもないにしても、他の文明地域がそれをいっそう見事に実現してきたと言うこともできない。反西洋を掲げ、固有の伝統に沈潜すればよいというものでもない。民主主義はある文明と他の文明、ある共同体と他の共同体が出会う時、そのあいだに開かれる空間においてこそ成立するのだとグレーバーは言う。(p.161-162)

とても良いですね。昨日手に入れたばかりでまだ読んでいる途中ですが、以下の節も、強く同意できるものです。

民主主義者たちは過去二百年にわたり、民衆の自己統治に関わる諸理想を、国家という強制的装置に接ぎ木しようと試みてきた。しかし結局のところ、このような企てはまったくうまくいくものではない。国家とは、その本性からして、真に民主化されることなどありえないものなのだ。要するに、国家とは基本的に、暴力を組織化する手段にほかならない。アメリカの〈連邦派〉はまったく現実主義的に、民主主義は財産の不平等を基盤とする社会とは両立不可能だと主張していた。というのも、財産保護を望むなら、「暴徒」を抑制するための何らかの強制的装置が不可欠になるけれど、民主主義とはまさしく、そこで抑えつけられるような人びとに力を与えるべきものであるからだ。(p.117)

民主主義を生きたものにするためには、それをより多層的に、多声的にしていく必要があります。本書のように、これまでの固定化された民主主義観に異なる視点を与えてくれるような研究は、これからますます重要になってくるでしょう。

「表紙の美しい本」#15

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Sir Isaac Newton "Opticks" Kronecker Wallis, 2019

1704年に刊行されたアイザック・ニュートンの『光学(Opticks)』の復刻版です。

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上から見たところ。

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中身。各篇毎に色分けされており、それも美しいです。

私はKickstarterのキャンペーンでプレッジに対するリターンとして受け取ったのですが、オフィシャルサイトから購入することもできます。サイト内に書かれている"There is no art without perception of colors and light."(色彩と光に対する知覚なしに芸術はあり得ない)というキャッチコピーも良いですね。

Kronecker Wallisからは他にも"Principia"、ユークリッドの"Elements"などが復刻されており、どれもみなとても美しい製本となっています。なぜかKronecker Wallisのサイトへ直接リンクを貼れなかったので、twitterへのリンクを貼っておきます。

いつか年を取って時間ができたら(そんなときは来ないでしょうが)、この本を一頁一頁捲りながらゆっくり勉強し直したいですね。

「読んでほしい本」#15

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トルストイ『光あるうち光の中を歩め』原久一郎訳、新潮文庫、1995年(82刷)

富裕な宝石商の家に生まれたユリウスは、人生において重大な問題に直面する度にキリスト教的な質素で誠実な生活へと強く惹かれるのですが、これまたその度に様ざまな説得やしがらみによって世俗的な価値観の世界へと戻っていってしまいます。けれどもやがて人生の最後、ついに(古くからの友人パンフィリウスの居る)キリスト教徒たちの共同体へ赴き……、という、非常に読みやすい、トルストイの思想がもっとも美しく表されている物語です。もし人生において無力感に苛まれることがあったなら、そのときこそぜひ読んでほしい一冊です。老いてからその共同体へ加わったために何も役立つことができないと嘆くユリウスに対して、ある老人が語りかけます。

あんたは自分がやって来た以上のことができないと言って悲嘆してなさる。が、嘆きなさるな、お若いの。われわれは一人残らず神の子で、またその神の下僕なのだ。われわれはすべて神に仕える一隊なのだ。ねえ、まさかあんた以外に、神の下僕はいないなんて考えているのじゃないだろうな? もしあんたが働き盛りの時に、神への奉仕に献身していたら、神に必要なことを、全部行っていただろうか? 神の王国を建設するために、人間がすべきことの全部をなしとげていただろうか? あんたは倍も、十倍も、百倍も、余分にやったにちがいないと言うだろう。しかし、もしあんたがすべてのひとびとより何億倍も多くなしとげたにせよ、神の仕事全体からみれば、それは何でもありはしない。取るに足らぬ大海の一滴じゃ。神の仕事は、神それ自身のように宏大無辺際じゃ。神の仕事はあんたの内部にありますのじゃ。あんたは神のもとへ行って、労働者でなく、神の息子になりなさい、それであんたは限りない神とその仕事に参加する人間となるだろう。神のもとには大きいもの小さいものもありはしませぬ。また人生においても大きいものも小さいものもなく、存在するものは、ただまっすぐなものと曲がったものばかりじゃ。人生のまっすぐな道に入りなさい、そうすればあんたは神と共にあるようになるだろう。そしてあんたの仕事は大きくも小さくもならない、ただ神の仕事となるだろう。(p.114)

私たちは、無力で良いのです。もし力を持っていると思うのだとすれば、それは驕りでしかありません。無論、それは私たちが無責任であって良いということではまったくありません。まっすぐであるか曲がってあるか、ただそれだけが問われています。それは無力であるという事実を突きつけられた私たちにとっての救いであると同時に、途轍もなく難しく困難な道を進む覚悟を問われているということでもあるでしょう。私にとってはセネカ、サン・テグジュペリと並んで、人生における指針となっている大切な書です。

この一連の記事では、出版支援として以下のプロジェクト/情報へのリンクを毎回貼らせていただきます。


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