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Books, Life, Diversity #3

在宅勤務になり、フリーランスの私は収入も安定性もガタ落ちですが、けれども本に触れる時間が増えたのは良かったと思います。この投稿の目的は少しでも書店の売り上げが伸びればというところにあります。けれども、改めて本棚にある本を一冊一冊手に取り、内容だけではなく当時の自分の生活や社会の状況などを思い出すことは、現状に対する内省の良い機会になってくれます。というわけで第三回。

「新刊本」#3

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ジェイソン・スタンリー『ファシズムはどこからやってくるのか』棚橋志行訳、青土社、2020年

改めていま私たちが生きている時代状況の危うさに改めて気づける本です。10章から構成される本文は読みやすく適切にまとめられており、普段の生活のなかにいつの間にか浸透してきているファシズムの戦術に対して、一歩距離を置いた見方をするための手引きとなってくれるでしょう。私自身は抽象度の高い議論ばかりをしているとしばしば言われますので、この社会において、いま何のために研究をしているのかを忘れないためにも、こういった本をしっかり読むことが大切だよね、と思っています(まだ読み始めたばかりですが)。

「表紙の美しい本」#3

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ヘント・デ・ヴリース『暴力と証し―キルケゴール的省察』河合考昭訳、月曜社、2009年

素晴らしい本をたくさん出版している月曜社による「暴力論叢書」という五冊シリーズの第四巻。と思っていたら六冊目としてバトラーの『権力の心的な生』も出されていたのですね。今度手に入れなければ。ともかく、このシリーズはすべて表紙が素晴らしく、叢書というだけあって並べたときの統一感も美しい。私の研究の出発点は第三巻(バトラー『自分自身を説明すること』)に決定的な影響を受けていることもあり、この叢書に対する思い入れが強いのですが、純粋にコレクションとしてみても完成度の高いデザインになっています。装丁はすべて大橋泉之氏によるものです。

「読んでほしい本」#3

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セネカ『怒りについて―他一篇』茂手木元蔵訳、岩波文庫、1996年(6刷)

これはちょっと微妙な問題ですが、おおざっぱに言えば怒りには二種類あるのではないでしょうか。一つは何らかの不正義に対する怒り。これは怒るべきです。けれども同時に、自分自身をどす黒く喰らい尽くしてしまう怒りもあって、これは見分けるのは本当に難しいものですが、それでも後者には注意しなければなりません。とても難しいことですが……。けれども、どのような理由があれ、怒りによって我が身を傷つけることは悲しいことです。特にいま、社会に多くの怒りが満ちているときだからこそ、自分の魂を守るためにぜひ読んでほしい一冊です。ストア派はどうも私のいる界隈では人気がないのですが、私にとって「人間で在るということ」の大きな指針となってくれ続けている本です。

よくあるように、近所で火事だと騒ぎ出すと、していた喧嘩も止めになる。一匹の野獣が飛び込んでくると、山賊と旅人を引き離す。より大きな恐怖が生ずれば、より小さな災いと戦う余裕はない。なぜわれわれは闘争や陰謀に関わるのか。腹を立てる相手に、君は死以上の災いを望むのか。たとえ君が黙っていても、相手は死ぬことになる。将来いずれは起こることを現在行おうと望むならば、それこそ骨折り損というものである。君は言う。「私は人を殺そうなどとは全く思っていない。追放か、名誉の剥奪か、財産の損害かを科したい」と。私としては、敵の水ぶくれを要求する者よりも、その切り傷を要求する者のほうをむしろ許したい。前者は根性が悪いばかりではなく、根性が小さいからである。とにかく君が最高の刑を考えようが、それよりも軽い刑を考えようが、いずれにせよ、相手が罰を受けて苦しむ時間も、あるいは君が人を罰して良からぬ楽しみにふける時間も、所詮は束の間にすぎないではないか。やがてわれわれは、この息の根を吐き出すことになる。しかし、その間、われわれが息づいている限り、また人間どうし交わっている限り、人間性を尊重しようではないか。われわれは誰にとっても恐怖の種であってはならず、危険な存在であってもならない。また、危害、損失、悪口、嘲笑を軽んじ、かつ崇高な精神をもって、長くはない不幸を耐え忍ばねばならない。人々も言うように、われわれが後ろを見返り、左右を見回している間に、やがて死の運命は近づくであろう。(p.182-183)

私はこの最後の節をつねに思い起こして生活をしています。繰り返しますが、恐らく人間には、正しい――少なくとも避けるべきではない――怒りはあると思います。政治的不正義に対してただ従容として死んでいくのが良いなどということでは決してありません。聖人でない限りすべてを受け入れることは不可能ですし、いずれにせよ悪は確かに存在します。けれども同時に、再び繰り返しますが、だからといってその怒りが自分自身に反射しそれに飲み込まれることは、やはり正しいことでも善でもない。そしてどのみち、私たちはそのような境地に達せるわけでもない。だからこれをイデオロギーやドグマにしてしまうのではなく、もっとシンプルに、揺らぎ続け怒りに突き動かされることのある人生において、ふとセネカの言葉を思い起こすことが重要であり続けるのだと思います。タイトルにある他一篇は「神慮について」。あと同じく岩波文庫で「人生の短さについて」などもありますが、私にとっては「怒りについて」こそが、死について、そしてあらゆることについて裁きを下そうとする私たちの驕りについて考えるいちばんの導きになっています。

そんなこんなで、また次回。

この一連の記事では、出版支援として以下のプロジェクト/情報へのリンクを毎回貼らせていただきます。


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