Books, Life, Diversity #10
最近はAmazonで本を注文しないようにしています。そう思ってみると、実は意外にAmazonってなくても困らないんですよね。もちろん、それが必要な人たちもいるとは思いますし、全否定するつもりはありません。気負うことなく無理もなく、でもやっぱり、書店で本を選ぶのがいちばん楽しいし、いちばん予想外の発見があるよなあと、あたりまえのことを思い出しています。というわけで第10回です。
「新刊本」#10
ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』阿部賢一訳、人文書院、2020年(2刷)
チェコの劇作家であり、後に大統領にもなったハヴェルによる「形式ばらない、官僚的でない、ダイナミックで、開かれた社会――つまり、「並行都市」」についての論考です。2019年8月に出版され、今年1月に2刷になっているので、かなり反響があったのではないかと思います。まだ読み始めですが、いま私たちが生きている、政治だけではなく日常のすべてを覆う異様に重苦しい社会状況から見ても、ハヴェルが書いていることにはっとさせられることが多々あります。彼はいわゆる古典的な意味での「独裁」とは異なる権力の構造に基づいた独裁が現れていることを指摘し、それを(より的確な名称が思いつかないとしつつ)「ポスト全体主義」と名づけます。
イデオロギーとは世界と関係を築いていると見せかける方法のことであり、自分はアイデンティティも威厳もある倫理的な人間であるという錯覚を人びとにもたらし、その一部となることを容易にする。「超個人的」で、目的にとらわれない何かのまがい物として、良心を欺き、世界や自分のほんとうの姿を隠し、不名誉な「生き方」を隠すことを可能にする。(p.17)
ポスト全体主義体制が目指すものと生が目指すもののあいだには、大きな亀裂がある。生はその本質において、複数性、多様性、独立した自己形成や自己編成、つまり自身の自由の実現に向かうのに対し、逆にポスト全体主義体制は、統一、単一性、規律へと向かう。生がたえず新しい「ほんとうにありそうにない」仕組みを造ろうとするのに対し、ポスト全体主義体制は「ほんとうにありそうな状態」を生に強いる。(p.19)
イデオロギーは体制と人間のあいだの「口実」の橋となり、体制の目指すものと生の目指すもののあいだの大きな亀裂を覆い隠す。体制が求めているものは、生が求めているものであると装う。それは、現実として受け取られる「見せかけ」の世界である。(p.20)
それゆえ、嘘の中で生きる羽目になる。嘘を受け入れる必要はない。嘘の生を、嘘の生を受け入れるだけで十分なのだ。それによって、体制を承認し、体制を満たし、体制の任務を果たし、体制となる。(p.21)
けれどもそこに希望がないわけではありません。イデオロギーは、体制(システム)を支える柱ではあるのですが、同時に
だが、この柱が立っているのは脆い土壌である。つまり、嘘という土壌である。それゆえ、それが有効なのは、人間が嘘の中で生きようとするときに限られている。(p.27)
私個人の人間観はかなりネガティブなところがあり、なかなかハヴェルに心底同意できるというわけではありません。けれど、思想や研究が生まれるのは、多様性のなかからでしかあり得ません。現実の生活、現実の政治を生き抜いてきたハヴェルの思想は、ともすれば絶望してお終い! というようなどんづまりに陥ってしまいかねない私のような人間にとっては、そこに揺さぶりをかけてくれる極めて大切なものです。
巻末には資料として憲章七七が記載されており、分かりやすい解説もあります。いま読むにふさわしい(いつ読んでも素晴らしいのは当然のこととして)本です。
「表紙の美しい本」#10
石田英敬、吉見俊哉、マイク・フェザーストーン編『メディア哲学』デジタル・スタディーズ第1巻、東京大学出版会、2015年
表紙が美しいというと、中世キリスト教の彩色写本とかそういったものが思い浮かぶかもしれませんが、そのようなものを個人で所蔵できるはずもなく、それでも魅力的な装丁の本っていくらでもありますよね。と言い訳をしつつ、個人的な趣味全開で。表紙の写真はダムタイプの音楽を担当していたことでも知られている池田亮司氏による、YCAMで行われたライブの写真です(撮影は写真家の丸尾隆一氏)。作品自体の美しさは無論ですが、間村俊一氏の装丁も素晴らしい。このデジタル・スタディーズは3巻からなるシリーズですが、すべて同じコンセプトでデザインされています。私も一応はメディア論が専門ですが(そのはずですが)、メディア論はもっともっとメディアアートと接近してほしいし、その媒体自体もアートになってほしいと思っています。現代アートに対するうんざり感、距離感のようなものがあるのは分かる面もあるのですが、個人的には、アートってやっぱりしぶとく根深いものがあるはずです。そういった意味で、まだあまり知られていない若手のメディアアーティストの作品について、私自身何か書きたいなあと思っています。まあそんなこたぁどうでも良いですね。
「読んでほしい本」#10
ウィリアム・ゴールディング『蠅の王』新潮文庫、1997年(30刷)
いつの時代かも分からない、とある未来に世界大戦が勃発し、イギリスの少年たちを乗せ疎開先へ向かっていた飛行機がある無人島に墜落します。生き残ったのは子どもたちだけ。それでも当初は協力し合い、秩序を保ち救助を待っていたのですが、やがて少しずつ彼らのなかで異様な何かが目覚め始め……。バランタインの『珊瑚島』やヴェルヌの『十五少年漂流記』に連なる少年たちの漂流記ものですが、本作ではそれらの作品に見られる朗らかさ、前向きさは徹底して否定され、陰惨な暴力は終盤にかけて歯止めなく加速していきます。主人公のラーフは、最後のシーンで自分たちから無垢(イノセンス)が失われたという取り返しのつかない事実の前に嗚咽することしかできず、救助に来た士官はただ顔を背け、その嗚咽がいつか止むことを待つしかありません。けれども果たして本当にイノセンスは失われたのでしょうか。少年だったラーフにとってはそうかもしれません。けれども大人になってしまった私たちにとっては、失われたのは、人間が無垢であるという「嘘」だったのではないでしょうか。本来人間は無垢などではないし、だとすれば暗黒も暗黒ではなく、単なる人間という事実に過ぎない。大人である士官は、その「嘘」と程よい距離を保つことができるという意味で大人なのであり、だからその嘘が破れてしまったラーフたちから目を逸らすより他はありません。
「おまえはたった一人で何をここでしているのだね? わたしが恐ろしくはないのかね?」サイモンは頭を横に振った。「おまえを助けようという者も一人もいないじゃないか? そうしようというのはわたしだけなんだよ。それに私は獣なんだよ」サイモンは口をしきりにもぐもぐしていたが、ついに明瞭に聞きとれる言葉を吐いて、いった。「うん、棒切れの上に曝されている豚の頭さ」「獣を追っかけて殺せるなんておまえたちが考えたなんて馬鹿げた話さ!」と、その豚の頭はいった。その一瞬、森やその他のぼんやりと識別できる場所が、一種の笑い声みたいな声の反響にわきたった。「おまえはそのことは知ってたのじゃないのか? わたしはおまえたちの一部なんだよ。おまえたちのずっと奥のほうにいるんだよ? どうして何もかもだめなのか、どうして今のようになってしまったのか、それはみんなわたしのせいなんだよ」(p.244-245)
読むと心底暗鬱とした気分になりますが、凄まじいまでの牽引力を持つ優れた物語です。
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